建安十三年(二〇八年)、九月。
新野の城を黄金の火葬場に変えた業火は、その熱を失うことなく、劉備一行と共に樊城へと南下していた。
一方、宛城の曹操軍駐屯地。
そこには、秋の夜風さえも凍りつくような、死の静寂が満ちていた。
「……曹仁までもが、十万を灰にしただと?」
漆黒の帳の奥から、曹操の低く、地を這うような声が響いた。博望坡に続き、新野までもが「理」の罠に落ち、精鋭十万が跡形もなく蒸発したという敗報。それは吸血鬼帝国の王としての威信を、根底から揺るがす異常事態であった。
「……全軍、直ちに劉備を追尾せよ。一匹残らず肉の塊に変えねば、余の威信は地に墜ちる」
曹操が立ち上がり、凄まじい殺圧を放ったその瞬間、参謀の程昱が静かに進み出た。
「……お待ちください、丞相。聞けば劉備は領民を手なずけ、我らを血も涙もない怪物と恐れさせ、樊城に向かったとか。丞相の威名と仁慈は北方なればこそ知られておりますが、この南方の愚民どもはそれを知りませぬ。まずは劉備に使者を遣わし、降伏を勧めるのが上策かと。例え応じずとも、民を愛する主旨を天下に示せば、軍としての体面は立ちましょう。もし幸いにも奴が降れば、兵を消耗することなく、その力をそっくり呉へと向けられまする……使者には、徐庶がようございます。つい先日まで劉備に仕えていた男なればこそ、丞相に従うことの有利を説くに相応しい」
曹操の双眸が、暗がりに控えていた徐庶を射抜いた。
「……徐庶か。励めよ、元直。貴様の言葉一つで、数万の民の運命が決まるのだ」
樊城の地で、徐庶はかつての主君・劉備と、そして友である孔明と再会した。
だが、その瞳には「和睦の使者」としての光はなく、ただ深い憂いと覚悟が宿っていた。
「……今日は和睦の使者として参りました。……だが、我が言葉を信じてはなりませぬ。曹操が拙者を遣わしたのは、心にもない哀れみ深さを見せ、民衆の信望を買わんとするための罠。その本心は、刃向かう者を容赦なく排除する恐怖の帝国を築くことにございます。一時の安心を買わんがため、和睦などに応じれば、必ずや禍根を残しましょう。……どうか、曹操の野望を砕いてくださいませ」
「……待て、元直。……お前はどうなる。このまま我らと行動を共にしないか?」
劉備の悲痛な問いに、徐庶は力なく首を振った。
「……いまだ許都に母が囚われておりますれば……」
「……そうか。……辛い立場だな、元直」
別れの刻限が近づく中、樊城を去ろうとする徐庶を呼び止めたのは孔明であった。
「……元直殿。……少し、別室で話していきませんか」
静まり返った別室。
「……夏侯惇、曹仁と続けざまに撃退したらしいな。今、奴らの間ではその話で持ち切りだ」
徐庶が驚愕と共に呟くと、孔明は静かに微笑みながら、懐から一反の布を取り出し、徐庶へと差し出した。
「……貴方に波紋を授けられたあの日から、隆中で研究を続けていました。私のような微弱な波紋しか練れない者が、いかにして吸血鬼らの大軍と戦うかの術を。先日、研究の成果を曹仁相手に実験したところ、大変に上手くいきました。……これは、その陣の設計図とでもいうもの」
「設計図だと……?」
「そうです。名付けて『万象転生陣』。万物の理を巡らせ、波紋を増幅させる効果が得られます。古の伏羲(ふっき)が宇宙の真理を八卦に閉じめたと言われる意匠と、奇門遁甲にいう大気太極の流れを組み合わせてみました。これで多くの人外を一度に葬ることができる……何とか内側から、これを仕掛ける機会を窺ってもらいたい」
徐庶はその布を広げ、そこに描かれた緻密で奇怪な幾何学模様と、八門金鎖の陣にも太極図にも見える配置図らしきものに目を見張った。それは修行なき者が、執念だけで「波紋の理」を解き明かした結晶であった。
「……承知つかまつった。その機会あらば、必ずや逃さず設置すると約束しよう」
徐庶は受け取った布の感触を確かめるように強く握りしめ、ふと思い出したかのように声を潜めた。
「……そういえば孔明、許都では、銅雀台なる巨大な塔の造営が始まっている」
「銅雀台……巨大な塔、ですか?」
孔明の眉が微かに動く。徐庶の表情は、単なる大規模土木工事を語るそれではなく、生理的な忌まわしさを湛えていた。
「ああ。設計に携わった技師や職人が悉(ことごと)く失踪するため、詳しい内情までは漏れてこぬのだが……。噂によれば、十丈(約三十三メートル)の高台の上に百余りの楼閣が連なる、異様な建築物だという。奴らの間では『太陽を喰らう塔』と呼ばれている」
「太陽を喰らう塔……。昼であっても、光の届かぬ永夜の檻を築こうというのですか」
「……おそらくはな。それが完成し、地表が完全に奴らの領土となる前に、内と外、呼吸を合わせよう」
「ええ。必ずや」
徐庶は受け取った布を、晒(さらし)のように自らの腹に固く巻き付けた。厚みを増したその布は、かつて孔明が雪の隆中で練り上げた知略の重みそのものであった。
「……これでよし。……孔明、あとは頼んだぞ」
徐庶は再び曹操軍の駐屯地へ、そして不浄の闇が蠢く許都へと戻るべく、夜の帳へと姿を消していった。
翌朝。樊城の城門の上に、関羽の姿があった。
彼は城下に集まった数万の民に対し、その重厚な声を響かせた。
「……間もなく、曹操の大軍がここへ総攻撃をかけてこよう。残念ながら、この樊城では防ぎきることはできぬ。……よって、我らは襄陽へ向かう。ついてくるも、残るも、お前たちの意志に任せる」
冷たい沈黙が走る。だが、残ることを選ぶ民は一人もいなかった。彼らは曹操軍の背後にある「説明のつかない寒気」を本能で感じ取っていたのである。
「……どこまでもついていきます、劉皇叔様!」
「我らを見捨てないでくだされ!」
数万の民を率いての、苦難の逃避行が始まった。
孔明は、列の最後尾で馬を駆りながら、腹に秘密の設計図を抱いて去った友の背中を想っていた。
雪の舞い散る新野で、劉備を二ヶ月待たせたあの「空白の時」。
そこで練り上げられた『万象転生陣』という名の種火が、今、帝国の内側へと運ばれていく。