建安十三年(二〇八年)、九月。
新野を焼き、樊城を捨てた劉備一行の行く手には、さらなる冷酷な拒絶が待ち受けていた。
「……開けいッ! 漢の左将軍、劉玄徳であるッ! 曹操の魔手から逃れる民を、城内へ入れよッ!!」
張飛の咆哮が襄陽の城門に叩きつけられる。だが、城壁の上に現れた蔡瑁の顔には、卑劣な嘲笑が浮かんでいた。
「……ふん、家畜を連れた野良犬め。丞相に刃向かう反賊に開く門などないわッ! 射てッ! 射ち殺せッ!!」
非情な号令と共に、城壁から無数の矢が放たれた。それは曹操軍ではなく、同じ荊州の兵たちが放つ、同胞への裏切りであった。矢は盾を持たぬ民の列に突き刺さり、悲鳴と鮮血が地面を濡らす。
「自分の国の領民を射るとは、気でも狂われたか!」
阿鼻叫喚の大騒乱の中、劉備が悲痛の叫びを上げる。
「黙れッ!この国はもはや曹操様のもの!曹操様に立てつくお前らも、それに付き従う愚かな奴らも、全て逆賊だ! 射てッ! 射ちまくれッ!」
容赦なく、非情の矢の雨が降り注ぐ中。
ギギギギギィ……
何故か城門が開いた。
「早く……!早くお入りなされ、劉備殿ッ!」
城門を開き、大声を上げて招き入れたのは魏延であった。開いた城門から中の様子が窺えたが、城内でも蔡瑁派、魏延派に分かれて同士討ちが始まっているようで、城門の中も外も混乱の極みにあった。
劉備は、足元で矢を射かけられ泣き叫ぶ老婆を抱きかかえ、孔明に向かって苦渋の声を絞り出した。
「……先生、どうしたものか……!」
「……いえ、主公。今この混乱に乗じて無理に入城しても、後方に迫る曹軍に城門を突き破られれば、民は袋の鼠となりましょう。もはや襄陽は死地です」
「では、我らはどこへ行けばいいのだッ!」
孔明は、飛来する矢の軌道を冷徹に見極めながら、羽扇ではるか遠く、南東の空を指した。
「……遠いですが、江陵を目指しましょう」
「江陵だと……?」
「はい。あの城には荊州一の金銀食糧が蓄えられ、要塞としての堅牢さは襄陽の比ではありません。あそこに立て籠もることこそが、我ら生き残りの唯一の道です」
「よし、そうしよう。……全軍、南へ! 江陵を目指すのだッ!!」
劉備たちは、背後に迫る「不浄の影」を振り切るように、再び南へと馬を、そして民の足を向けた。
(国は人をもって基となす……私は国を失ったが、その基はまだ我にある……民とともに死ぬるならそれもまた本望……)
遅々として進まぬ難民たちの行軍を見つめながら、劉備は民と共に歩む決意を新たにしたのであった。
数日後。
劉備が去った襄陽の街へ、漆黒の帳を翻して曹操の一行が入城した。
蔡瑁は揉み手をしながら、勝ち誇った顔で参謀の程昱に報告した。
「……これはこれは、程昱様! 劉備の奴らをこの蔡瑁、追い払ってやりましたぞ。今頃、這々の体で江陵に向かっておりますわ!」
だが、程昱の反応は、蔡瑁の予想を遥かに超えた「殺意」に満ちたものであった。
「……救いようのない莫迦めッ!」
吐き捨てるような一言。程昱の眼が紅く発光し、蔡瑁の首筋を凍りつかせた。
「……な、何を……私は、追い払ったと……」
「貴様、なぜ奴らをおびき寄せ、城内で一網打尽にする知恵が回らぬかッ!! 聞けば江陵には軍需物資が山と積まれていると言うではないか。あの城に立て籠もられ、我が軍の進軍を阻まれれば、南征の計にどれほどの障りが出るか。その足りぬ頭で、一度でも考えたことがあるのかッ!!」
程昱の怒声に、蔡瑁は失禁せんばかりに震え上がった。程昱は彼をゴミのように蹴り倒すと、即座に曹操の前に進み出た。
「……丞相。劉備に江陵に入られては、後顧の憂いとなります。……直ちに、虎豹騎を向かわせるのです」
曹操の傍らから、鋼鉄の鎧を纏った一人の将が音もなく進み出た。
曹純。
曹操からの信任厚い、吸血鬼帝国の「影」の番人。痛みも疲労も知らぬ、魔の屍生人騎兵五千を率いる、死神の如き男である。
「承知。……三百里の道、一昼夜で駆け抜けよう」
深夜、当陽付近。
劉備軍の幕舎には、死を目前にしたもの特有の、奇妙な静寂が漂っていた。
「……敵の本隊とは、三百里(百三十キロ)以上離れている。いくらなんでも、一晩で追いつかれることもなかろう。……孔明、今夜だけは、今夜だけは民を休ませてやりたい」
劉備の願いに、孔明もまた、夜の闇を見つめて頷いた。
だが、その人道的な配慮こそが、人外の論理を前にした最大の隙となった。
ドドドドドドドドドドォッ!!
地平の彼方から、大地を削り取るような蹄の音が、突如として夜の静寂を粉砕した。
「……そ…曹軍だとッ!? ば、馬鹿なッ! 早すぎるッ!!」
見張りの絶叫が届くより早く、五千の虎豹騎が闇を裂いて突入した。一夜で三百里という、生物の限界を超えた超高速進軍。馬も人も「死血」によって肺を焦がしながら、止まることなく殺戮を開始したのである。
ただでさえ吸血鬼の時間帯であることに加え、不意を突かれ、寝込みを襲われた劉備軍はひとたまりもなかった。兵士の多くが、自分の武器すら身に帯びる前に朱に染まっていった。
虎豹騎の一隊は劉備の家族をも引き裂いた。数万の民が暗闇の中を右往左往する大混乱の中、妻子ともども散り散りとなってしまったのである。
気づけば劉備自身も死地の渦中にあった。護衛の兵とはぐれ、関羽、張飛、趙雲らを見失い、いつの間にか十数騎に囲まれ逃げ場を失っていた。馬上の兵らが劉備めがけて次々と槍を繰り出し、劉備の胸板を貫こうとした、その瞬間。
劉備の腰の、かつて徐庶から贈られた「撃剣」が、月光を反射して黄金の火花を散らした。
「……な、なんだ……身体が勝手に……ッ!?」
無意識にその撃剣の柄を掴んだ刹那、劉備の意志とは無関係に、彼の肉体が爆発的な速度で駆動を始めた。
徐庶がかつてその剣に込めた、持ち主の危機に反応して発動する波紋の伝導。劉備の腕は、まるで撃剣の達人が乗り移ったかのような神速の軌道を描き、迫り来る槍の穂先を次々と弾き飛ばした。
悪意に反応する波紋。徐庶が劉備を守らんとして練り上げ、撃剣に込めた濃密な波紋は、その剣を持つ者に仇なす悪意を殲滅するまで、完全自動で劉備の体を跳躍させ、回転させ、剣を走らせた。
黄金の残像を残して劉備の動きが止まった時、包囲していた屍生人十数騎は、今度こそ土に還るべく粉々の肉片となって辺りに四散していた。
「……助かったのか?……あのときの、徐庶の護り……礼を言うぞ、徐庶。……だが、皆は……皆はどこだッ!!」
劉備が周囲を見渡したとき、そこにあるのは阿鼻叫喚の地獄図絵であった。
数万の民は虎豹騎の殺戮の欲しいままにされ、まだ生あるものは暗闇の中で四方八方逃げまどう。劉備自身も妻子の行方はおろか、生死すらも全く分からない。
暗黒の夜空の下、聞こえるのは虎豹騎の冷徹な蹄の音と、闇に紛れて獲物を探す夏侯惇の、復讐に燃える不気味な気配。
周りはすべて、死を運ぶ敵。
絶望の長坂坡、その血塗られた舞台に、独り残された劉備の慟哭が響き渡った。