「……何だとッ!? もう一度言ってみろッ!!」
長坂橋の袂。殿として土煙の向こうを睨んでいた張飛の咆哮が、周囲の空気を震わせた。その前で、肩を射抜かれた伝令の兵が、血を吐きながら絶叫する。
「は、はいッ! 趙雲殿が……子龍殿が、ただ一騎で曹操軍の真っ只中へ向かわれましたッ! 我らを見捨て、北へ、敵軍の旗がひしめく方角へ……!」
「馬鹿なッ! あの色男が、俺たちを裏切って曹操に尾を振るというのかッ!!」
張飛の蛇矛が、怒りに任せて乾いた大地を砕く。信じたくない。だが、この地獄絵図の中で、主君を差し置いて敵陣へ逆走するなど、投降以外にあり得ぬ暴挙だ。
「……ええい、性根まで腐れおったか! 兄者……劉備兄者に伝えろ! 趙雲は寝返ったとなッ!!」
疑惑という名の毒が、絶望に暮れる劉備軍の背後にさらなる影を落とした。
その頃。
血と砂塵が舞う長坂の荒野。趙雲は、一人の「修羅」と対峙していた。
「……探したぞ、劉備の飼い犬め。博望坡の借りを、今ここで返させて貰うぞ」
漆黒の闇から現れたのは、隻眼の将・夏侯惇。孔明の火計によって焼かれた顔の半分は、人外の再生能力を以てしても醜く引き攣り、怨念を煮詰めたような紅い眼が趙雲を射抜く。
「孔明はどこだ? あの青二才を差し出せば、その首だけは繋いでおいてやる。我らの眷属としてなァ!」
夏侯惇の放つ「死気」が、夜の空気を凍りつかせる。対する趙雲の背後には、深手を負い、赤子を抱いて地面に頽(くずお)れる糜(び)夫人の姿があった。
「……軍師殿の使われる理など、私は知らぬ」
趙雲は無機質に言い放ち、銀槍を正した。
「だが、貴様らの首が胴から離れれば死ぬことだけは知っている」
「ほざけッ!!」
夏侯惇の剛剣が、土煙を巻き上げながら趙雲を襲う。吸血鬼特有の、物理法則を無視した剛力。趙雲は馬を操り、夫人の前に立ちはだかってそれを受け止めるが、一撃ごとに腕の骨が軋む。
だが、真の地獄は夏侯惇の剣だけではなかった。
「ギギッ……ギギギ……」
闇の中から、腐敗臭を漂わせた虎豹騎たちが、地を這い、あるいは奇声を上げて糜夫人へと殺到する。
「ぬっ……! おのれッ!」
趙雲は夏侯惇の猛攻を紙一重で受け流しながら、背後の夫人に飛びかかろうとする屍生人の喉を、電光石火の突きで貫く。だが、一瞬でも意識を後ろへ割けば、夏侯惇の剛剣が趙雲の死角を容赦なく削り取る。
「どうした、防戦一方ではないか! 女と赤子の命を背負うては、その程度の武が限界かッ!」
夏侯惇の嘲笑。趙雲の額からは脂汗が流れ、呼吸は乱れ始めていた。夏侯惇の剣を防げば背後の夫人が屍生人に喰われ、屍生人を掃討しようとすれば夏侯惇の剣が趙雲の命を奪いに来る。
趙雲の銀槍は、今や守るべきものに縛られ、その鋭い牙を封じられていた。
その様子を、地面に頽れた糜夫人は痛ましく見つめていた。将軍の背中が、かつてないほどに切迫している。自分がここにいれば、将軍の「槍」は死ぬ。このままでは自分も、将軍も、そしてわが君の唯一の希望である阿斗も、この荒野の土に還ることになる。
(私を助けようとすれば、将軍までもがここで果てる……それでは、わが君に申し訳が立たぬ……)
夫人は、血に濡れた手で阿斗を抱きしめた。
「……趙将軍……」
「夫人、今は話さずともよい! 私が必ず、必ずこの包囲を……!」
「いいえ、将軍、どうか……この子を。私を助けようなどして掌中の珠を砕いてはなりませぬ……!」
夫人は最後の手を振り絞り、阿斗を趙雲の腕へと押し付けた。そして、追いすがる屍生人たちの注意を逸らすかのように、近くの古井戸へとその身を躍らせた。
「夫人ッ!!」
暗い井戸の底から鈍い水音が響く。夏侯惇は吐き捨てるように笑った。
「フン、賢明な女だ。自ら死を選び、貴様の足を軽くしたつもりか。……だが趙雲、足かせが消えたところで、貴様一人がこの包囲を抜けられると思うなよッ!!」
その時、趙雲の身体を包んでいた空気が一変した。
託された赤子――阿斗は、夫人が産んだ子ではない。実母である甘(かん)夫人は、混迷を極める退却戦の最中、別方向へと逸れてしまった。だが、糜夫人はこの幼き命を我が子以上に慈しみ、その未来を繋ぐために自ら命を絶ったのだ。
(血の繋がりすら超越した、人の『義』の強さ……。こやつらにこの輝きは、決して理解できまい……)
趙雲は阿斗を戦袍(ひたたれ)に包み、自らの胸に、自らの鼓動が伝わるほど固く縛り付けた。両手が自由になった。
「……御意。この命、若君の盾として使い果たしましょう」
趙雲の構えた槍から、殺気が消えた。代わりに現れたのは、極限まで研ぎ澄まされた「武」の体現。修行などしていない。波紋など知らない。だが、趙雲は博望坡で孔明の戦いを見ていた。
不死身の吸血鬼や痛みを知らぬ屍生人の肉体とて、物理的な構造に従って動いている。
趙雲の銀槍が閃いた。襲い掛かる虎豹騎の屍生人どもの首筋、その第五頸椎のわずかな隙間を、一分の狂いもなく正確に穿つ。一撃。それだけで、再生の理すら介在する余地なく、頭部と胴体が一瞬にして泣き別れとなり、物言わぬ肉塊へと還ってゆく。趙雲が槍を一閃させるたび、十重二十重(とえはたえ)に取り囲んでいた虎豹騎の包囲網は、まるで暴風に弄ばれる霧のごとく雲散霧消していった。
「な、何だと……!?」
夏侯惇が驚愕に目を見開く中、趙雲の槍先は止まらない。肉体を解体するその精度は、今度は夏侯惇の振るう剛剣へと向けられた。趙雲は夏侯惇と激しく切り結びながら、その刀身の微かな歪みを正確に撃ち抜いた。
ギィィィン!!
金属の悲鳴と共に、夏侯惇の剛剣が根元から粉々に粉砕される。
「な、何だと……!? 理も持たぬ人間が、俺の剣を……ッ!!」
獲物を失い、衝撃に痺れる腕を押さえる夏侯惇。その隙を見逃さず、趙雲は馬の腹を蹴り、反転して南へと走り出した。
「若君、地獄を特等席でご覧あれ」
趙雲は五千の魔軍が渦巻く中心部へと、文字通り「一身の胆」を以て突入した。銀の槍が、吸血鬼の永夜を切り裂き始める。
一方、その殺戮の嵐から離れた民家の一角。
漆黒の鎧を脱ぎ捨て、荒い呼吸を整える男がいた。虎豹騎の隊長、曹純である。
彼の背後には、怯えきった様子の二人の娘が転がされている。
「……屍生人どもに喰われたくはなかろう? 騒ぐな。再び夜が来るまで、ここで大人しくしていろ」
曹純は冷たく言い放つ。虎豹騎は完全に屍生人で編成された軍隊であり、死者は昼夜の区別なく殺戮を継続できる。だが、隊長である曹純自身は、吸血鬼の力に適合した「半吸血鬼」であった。
常人を超越した力を振るえる代わり、太陽の光だけは彼を灰に変える。ゆえに彼は、日中は棺に入って運ばれるか、こうして頑強な家屋で太陽をやり過ごさねばならない。
「……夜のうちに趙雲を仕留め損なうとはな。夏侯惇も焼きが回ったか」
曹純は窓の外、白み始めた東の空を忌々しげに睨んだ。