地平の彼方、襄陽から当陽に至る荒野は、一夜にして吸血鬼たちの「回廊」と化していた。
日没とともに発せられた曹操の号令。それは、人外の心肺能力を持つ吸血鬼兵と、死血を打たれ疲労を忘れた魔馬による、生物的限界を超えた強行突破であった。
ドドドドドドドドォッ!!
大地を叩く蹄の音は、もはや馬のそれではない。鋼鉄の塊が地を削るような重低音が、深夜の闇を震わせる。曹操はその精鋭騎兵の殿として、自ら手綱を捌き、風を切って疾走していた。背後には、異様な加速に顔を歪める程昱や、瞳に悲痛な決意を宿した徐庶が、吸血鬼の機動力に半ば引きずられるようにして追従する。
「……見えたぞ。鼠どもの死に場所がな」
曹操が北方の高台に駒を止めたとき、眼下には阿鼻叫喚の地獄図絵が広がっていた。数万の民が先着した虎豹騎に蹂躙され、その血が乾いた土に吸い込まれていく。その殺戮の渦中、ただ一点、銀の残像を残して南へと突き進む影があった。
趙雲である。
阿斗を抱え、立ちはだかる敵軍を無造作に、まるで雑草を払うかのように槍で屠りながら、彼はただ一点、主君の待つ南を目指して爆走していた。
「報告! 趙雲、阿斗を抱き抱え、単騎にて包囲を突破中! また、曹純様が劉備の娘二人を捕縛された模様。現在、次の日没を待つべく、付近の民家にて待機中とのことです!」
伝令の絶叫が風に乗り、曹操の耳に届く。その隣で、徐庶の身体が目に見えて震えた。
(……玄徳殿。若君を子龍殿が救い出すならば……捕らわれしお嬢様たちは、この私が。……近いうちに必ず、この手で救い出してみせる……!)
徐庶は袖の中で拳を血が滲むほど握りしめ、冷徹な軍師の仮面を被り直した。
高台の曹操は、眼下の銀光を凝視し、狂おしいほどの熱を瞳に宿した。
「……見事だ。理を持たぬ身でありながら、我が精鋭をあれほどまでに蹂躙するか。……あれが欲しい。生け捕りにせよ。弓は一切使ってはならぬ。戦いを仕掛けて仕掛けて仕掛け続け、疲れ果てたところを生け捕りにするのだッ!」
曹操の蒐集欲が、戦場に過酷な「持久戦」を強いる。だが、その命を無視するかのように、一人の「死神」が趙雲の前に立ち塞がった。
曹操の寵臣、夏侯恩。
彼は人間であった頃から曹操の大のお気に入りであり、死血を与えられ眷属化する際、二振りで一組の名剣「倚天(いてん)・青釭(せいこう)」のうち、青釭の剣を授けられていた。倚天は曹操自らが身に帯び、この青釭は夏侯恩に託されたのだ。半吸血鬼となった夏侯恩は、この恩義に応えるべく、ただ一点、この名剣の威力を更に高めるためだけに己の異能を研ぎ澄ませてきた。
「猪武者が! 丞相の慈悲を勘違いするなッ!」
夏侯恩が青釭の剣を抜くと、戦場の喧騒を圧して、鼓膜を刺すような「キィィィン」という高周波音が響き渡った。
ガキィィィン!!
趙雲の銀槍と青釭の剣が交差する。その瞬間、趙雲の肩の鎧が、まるで温めたバターをナイフで裂くかの如く、抵抗もなくスライスされた。
(……斬られた? 突くでも、叩き割るでもなく、この金属を『斬った』というのか!?)
趙雲の背筋に冷たいものが走る。
(「刃で人を斬る」という技術は鎌倉時代以降の日本において発達したものである。この頃の剣にも勿論刃はあるが、戦闘法としては「刺突」か「叩き割り」が一般的であり、「斬る」ことを目的とした武器ではない。いくら名剣とはいえ、鋼鉄を「斬った」ことに趙雲は恐怖したのであるッ!)
夏侯恩の異能は、己の生体電流の極限までの制御と増幅にあった。思考の際、脳のシナプスを駆ける微弱な電位差、心臓が拍動するたびに生じるわずかな電流。彼はそれらを恣意的に増幅して腕の筋肉へと送り込み、筋繊維を一秒間に数千回という超高速で強制振動させる。その極微の振動が刀身に伝わり、三世紀の剣を、原子結合を物理的に粉砕する「高周波カッター」へと変貌させていた。
絶望的な切れ味を背に、刃が阿斗を抱く趙雲の胸元へ迫る。趙雲は死を覚悟し、若君を庇うように身を捩った。
ガッ……。
「……なに?」
夏侯恩の瞳に驚愕が走った。
鎧を紙のように裂いたはずの刃が、阿斗を包む分厚い「おくるみ」に触れた瞬間、吸い込まれるように止まったのだ。
超高速の振動は、硬い物質ほどその反発を破壊力に変える。だが、何重にも重なり、繊維の間に無数の空気を含んだ柔らかい布は、振動のエネルギーを分散・吸収する緩衝材として機能したのである。
偶然。それは阿斗を抱いているがゆえの偶然であった。もしこれが通常の戦場で、将同士の一騎打ちとして見(まみ)えていたなら、如何な趙雲と言えども負けていただろう。
「……そうか。柔きものは、断てぬのだなッ!」
趙雲の瞳に、勝機という名の銀光が宿った。
彼は瞬時に槍を引き戻すと、残っていた自らの戦袍(ひたたれ)を更に引きちぎり、槍の柄から穂先にかけて厚く、遊びを持たせて巻き付けた。
「悪あがきをッ! 殺してやる、殺してやるぞッ!!」
夏侯恩が再び剣を振り下ろすが、趙雲はその「布を纏った槍」で刃を受け止める。青釭の剣は布に食い込み、逆転した振動の反動が夏侯恩の腕を自壊させた。
「終わりだッ!」
一瞬の硬直。趙雲はその隙を見逃さず、布を巻いた槍を、夏侯恩の顔面――その眉間へと突き出した。
「あ……が……」
吸血鬼の再生能力をもってしても、脳組織への致命的な打撃は即死を意味する。趙雲は貫いた槍を非情に捩じり、夏侯恩の頭部を内側から破壊し尽くした。不浄の叫びを上げる間もなく、夏侯恩の瞳から光が消え、その体は糸の切れた人形のように馬から崩れ落ちた。
趙雲は地に転がった死体から、黄金の鞘と名剣を鮮やかに奪い取った。
「……この剣、預からせていただく!」
高台からその一部始終を見ていた曹操が、身を乗り出すようにして哄笑した。
「見事だ! 布一枚で青釭の理を封じるとは! あの男、ますます欲しくなったぞッ! 生け捕りにせよ、全軍、奴を追い詰めろッ!!」
曹操の蒐集欲という名の狂気が、夜明け前の長坂坡にさらなる嵐を呼ぶ。趙雲は奪った名剣を帯に差し、阿斗を抱き締め直すと、五千の魔軍がひしめく南の地平へと、再び「無人の野を行くが如く」突入していった。