地平の端が、白々と、だが吸血鬼の眷属たちにとっては呪わしい拒絶の色を帯びて、微かに明るみ始めていた。
「……ちっ、朝か……」
当陽の集落、厚い土壁に囲まれた民家の暗がりで、曹純は忌々しげに舌を打った。虎豹騎の屍生人たちは、魂を抜かれた肉の塊ゆえに太陽を恐れぬが、その「理(ことわり)」を制御し、死血に適合した半吸血鬼の曹純は違う。直射日光を浴びれば、その細胞は内側から焼き尽くされ、灰へと還る。
彼は窓の隙間から漏れ出す微かな薄明を避け、部屋の隅、闇が最も濃い場所へと身を沈めた。その足元には、猿轡を嵌められ、縄で固く縛り上げられた劉備の娘二人が転がされている。
「……屍生人どもに喰われたくはなかろう? 騒ぐな。次の日没が来れば、貴様らを丞相のもとへ連れて行く」
曹純の瞳が、暗闇の中で紅く発光した。
その頃、長坂橋。
「燕人(えんじん)張飛、ここにありッ! 命の惜しくない奴から、かかってこいッ!!」
橋の中央、一騎で立ち塞がる張飛の咆哮が、朝の静寂を粉砕した。
屍生人の一隊が、恐怖を知らぬ足取りで橋へと殺到する。
「ぬっ……こいつら、やはり普通じゃねえなッ!」
張飛の蛇矛が、先頭の兵の胸板を粉砕した。だが、心臓を潰されてなお、屍生人は血を流しながら槍を突き出そうとする。
「……フン、道理の通じねえ化け物め。ならば、こうしてくれるわッ!!」
張飛の瞳が、武神の如き鋭さを帯びた。彼は突きではなく、重い蛇矛を横になぎ払う。
ドゴォッ!!
凄まじい衝撃音と共に、殺到した兵たちの頸が次々と宙を舞った。張飛の蛇矛が、唸りを上げて横になぎ払われた。頭部を失った肉体は、数歩よろめいた後、今度こそ動かぬ「物言わぬ死体」へと戻っていく。張飛は、博望坡での孔明の教え――あるいは戦士としての本能で、「頸を飛ばさない限り止まらぬ」という不浄の理を即座に看破していた。
その戦場の向こう側。土煙を上げてこちらへ駆けてくる銀の残像が見えた。
趙雲である。
阿斗を抱え、曹操の「生け捕りにせよ」という命令ゆえに決定打を欠く敵軍を無造作に蹴散らしながら爆走してくる。その腰には、奪い取ったばかりの「青釭の剣」が、朝日を反射して黄金の輝きを放っていた。
だが、その輝きこそが、張飛の眼には「裏切りの褒美」として映った。
「報告! 趙将軍、曹操より名剣を授かり、こちらへ向かっております! 敵軍は趙将軍を包囲しつつも、道を開けて送り出している模様ッ!」
伝令の叫び。
「……やはり、そうかッ! 子龍、貴様ッ!!」
張飛の顔が、裏切りへの激昂で朱に染まる。
「兄者の情けを、どの面下げて踏みにじりおるかッ!!」
満身創痍で橋に辿り着こうとする趙雲。だが、彼を待っていたのは、殺意を込めて蛇矛を構える張飛であった。
ガキィィィン!!
「張将軍、何をするッ!」
「黙れ、裏切り者ッ! その宝剣、曹操に魂を売った証拠であろうがッ!」
趙雲は阿斗を庇いながら、片腕で張飛の猛攻を凌ぐ。一合、二合。互いの武が火花を散らす。
「話を聞け! 私は……!」
「問答無用ッ!」
三合目、張飛の渾身の突きが趙雲を追い詰める。その時、趙雲の胸元から、か細い、だが力強い泣き声が響いた。
「……うわぁぁぁぁぁん!」
張飛の動きが、凍りついたように止まった。
「……赤子だと? その泣き声……まさか」
「そうだ、阿斗様だ。糜夫人が命と引き換えに私に託された、主君の血脈だッ!」
趙雲の悲痛な叫びに、張飛の蛇矛が震えた。趙雲のボロボロの鎧、血が滲み、ところどころ裂かれた戦袍(ひたたれ)、そして何より、命懸けで守り抜いた赤子の存在。
張飛は突き出した蛇矛を中空で止めたまま、バツの悪そうな顔で趙雲と赤子を交互に見比べた。
「……あ、いや。しかしだ子龍……伝令が、お前が曹軍の中に突っ込んでいったと……」
「阿斗様と糜夫人を探しに行ったのだ」
「……だ、だが……伝令が、お前が宝剣を授かってこちらに向かってくると……」
「途中で名のある将を倒し、首級代わりにいただいたのだ」
「……そ、そうだったのか。……そ、それならそうと、早く言えッ!」
「言おうとしたのを止めたのは将軍だろう?……とにかく、疑いは晴れたか?」
「お、おう…。……疑って悪かったな、子龍ッ!」
「気にするな、それより敵だ!」
「それならお前は先に行け。この橋を渡って南へ。もう少しで本隊に追いつく」
「張将軍は…?」
「お前だってこの数の敵の中をただ一騎駆けてきたのだろう?ましてやここはこの橋一本。俺にできねぇ道理はねぇ」
「張将軍、かたじけない」
趙雲が南へと走り去るのを見送り、張飛は馬を降り、再び橋の中央で蛇矛を構え直した。
「さて……ここからは、俺の独壇場だッ!!」
怒涛の如く押し寄せる屍生人の群れに対し、張飛の蛇矛が狂気的な速度で回転を始める。一閃、五人の頸が同時に飛ぶ。二閃、屍生人の胴体が縦に裂かれ、腐った内臓が橋の上にぶちまけられる。
張飛は笑っていた。返り血を浴び、肉片を鎧に纏いながら、彼はただ一騎で千に上る数の死者を蹂躙し続ける。もはやそれは戦闘ではなく、一方的な解体作業であった。
屍生人の顔面を蛇矛で無造作に貫くと、まだ痙攣し、手足をバタつかせているその肉体を、槍先ごと力任せに振り回して後続の群れへと叩きつける。さらに、頭上から叩きつけられた一撃は、屍生人を文字通り「唐竹割り」に処し、頭蓋から股下までを左右真っ二つに分断した。バイオレンスの限りを尽くす張飛の姿に、恐怖を知らぬはずの屍生人たちが、その不浄な足を一瞬止めたほどであった。
橋の上が肉片の山で埋め尽くされた頃、張飛は満足げに鼻を鳴らすと、撤退する曹軍を尻目に橋へ火を放った。
「……さらばだ、化け物どもッ!」
激しく燃え上がる炎が追撃を遮断する。張飛は悠然と馬に跨ると、朝日が照らし出す地平の彼方、劉備の本隊を目指して駆け抜けていった。