長坂の地獄を切り抜けた劉備の本陣には、朝日が照らし出すにはあまりに無残な、敗軍の光景が広がっていた。
満身創痍、全身の鎧を朱に染めた趙雲が、震える手で戦袍(ひたたれ)を解く。その懐から、奇跡的に無傷のまま、事の重大さも知らずに眠る阿斗を取り出し、主君へと差し出した。
「……若君は、無事です。ですが、私の不徳ゆえ、糜夫人は……」
趙雲の報告が途切れるより早く、劉備は差し出された阿斗を受け取るや否や、迷うことなく地面へと投げ出した。
「若君になにをッ!」
周囲の将兵も息を呑み、静まり返る。劉備は趙雲の肩を強く掴み、その瞳に熱い涙を湛えながら、絞り出すような声で告げた。
「……子はまた産めば得られるが、良将は二度と得られるものではない。お前が大切に守り通したものを粗末にしたのではない。自分の子のためにお前を失ってしまうところであったことを申し訳なく思う」
「……ッ!!」
その言葉は、五千の魔軍を斬り抜けてきた銀龍の心を、いかなる刃よりも深く貫いた。
「……肝脳地にまみえるとも、この恩報じ難し……! この命、生涯わが君のために捧げますッ!!」
趙雲は地面に伏し、声を上げて慟哭した。主君が投げたのは我が子ではなく、己を縛る「血脈」という執着であり、抱き上げたのは、ただ一人の「友」としての趙雲の命であった。その凄絶なまでの覇道に、周囲の将兵もまた、熱い涙を流しながら死を辞さぬ覚悟を新たにする。
だが、救われた命の裏には、剥き出しの絶望が横たわっていた。
「……して、わが娘たちは」
劉備の問いに、場が凍りついた。趙雲が阿斗を連れて戻る中、二人の娘が曹純の手によって捕らえられ、次の日没を待つ囚われの身となったという事実。それは、先ほどの熱き感動を冷酷な現実へと引き戻した。
劉備は天を仰ぎ、男泣きに暮れた。
「国は人をもって基となす……。だが、私は民も、家族も、救いきれなかった……ッ!」
その背中に、橋を焼き払い、血と脂の臭いを漂わせて合流した張飛が声を荒らげた。
「兄者! 今は泣いている時じゃねえ! 橋を焼いたが、化け物じみた曹軍の兵どもが川を越えてくるのは時間の問題だ。今は、ただ逃げることだけを考えろッ!!」
孔明が羽扇の動きを静かに止めて、一同を見渡した。
「……江夏へ向かいましょう。幸い、事前に五百騎を率いて先回りさせておいた関羽殿が、漢津にて船団を整えて待っているはずです。そこから水路で劉琦殿と合流し、江夏を曹操の軍勢を食い止める、最後の砦とするのです」
一方、戦場を見下ろす高台にしつらえられた曹軍の幕舎。陽光を完全に遮断するこの天幕の中で、曹操は帯びていた「倚天の剣」の柄に手をかけ、敵ながら天晴な趙雲の、常軌を逸した武勇を思い返し、手に入らぬ口惜しさに目を細めていた。
「……青釭を奪ったあの男、ますます欲しくなったわ。程昱、江陵の軍需物資を直ちに接収せよ。逃げ場を失った鼠どもを、次は水上でなぶり殺しにしてくれる」
曹操の傍らで、徐庶は沈黙を貫いていた。
(……おいたわしや、姫君……。今しばらくの辛抱を。近いうちに必ず、この徐庶が救い出して差し上げます)
徐庶は静かに決意を研ぎ澄ます。それが、かつて劉備に「撃剣」を託して彼の下を去った自分にできる、最後の贖罪であった。
朝日が昇り、死屍累々の長坂坡が白日の下に晒された。
劉備たちは、愛する娘たちを闇の底に置き去りにせねばならぬ断腸の思いを抱え、水軍の待つ漢津を目指して再び歩き出した。
その足取りは重く、泥を啜るような撤退であった。だが、趙雲の腰にある「青釭の剣」だけが、いつか必ずその闇を切り裂くための、鋭く冷たい光を放ち続けていた。
(第七章・完)