第八章:赤壁の炎、不浄の終焉
長江の支流、夏水に臨む江夏の城塞。そこには、長坂の地獄を潜り抜けた劉備軍の、あまりに寒々しい「休息」があった。
城壁の至る所に身を寄せる避難民。泥濘にまみれた行軍で足に深い外傷を負い、あるいは死んでも立ち上がってくる曹軍の異様な暴力に当てられ、戦意を失った兵たち。
劉備は、城主・劉琦と並んで、暗く沈む水面を見つめていた。
「叔父上……もはや、ここまででしょうか。曹操の軍勢は江陵の軍船を手中に収め、この江を埋め尽くさんと南下しております。わが江夏の兵など、蟷螂の斧に過ぎませぬ」
劉琦の震える声に、劉備は何も答えられなかった。懐に抱いた阿斗の重みだけが、辛うじて彼を「主君」として繋ぎ止めていた。
その沈黙を破ったのは、傍らに立つ諸葛亮孔明の、確信に満ちた声であった。
「いいえ。曹操の巨大さこそが、彼の自滅を招く隙となります。……わが君、公子、まもなく呉からの使者がこの門を叩くでしょう」
「呉の? 孫権が、我らのような敗軍に手を差し伸べると言うのか」
劉備が問い返す間もなく、城門から伝令の叫びが響いた。
「報告ッ! 江東より、魯粛と名乗る使者が到着いたしました! 弔問を望んでおりますッ!」
孔明の口角が、わずかに上がった。
「来ましたな。……わが君。今の我らに残された、死中に活を求める唯一の道。それは呉をこの戦争に巻き込むこと。この魯子敬(ろしけい)という男を通じて、呉を我らの舞台へと誘い入れましょう」
孔明は劉備たちへ静かに向き直ると、その瞳に鋭い光を宿した。
「手負いの我らだけで曹軍に立ち向かうのは愚策。守るべきものを持つ『呉』を盾として矢面に立たせ、彼らを主戦力として曹操の矛を折る。戦わずして勝つ――これもまた兵法」
軍議の席に現れた魯粛は、誠実そうな表向きの裏に、鋭い観察眼を秘めていた。彼は劉備の窮状を憐れむ体で、その実、劉備軍に残された戦力と孔明の知略を値踏みに来たのである。
「……曹操の軍勢、その勢いは天を突くほどと聞き及んでおります。わが主・孫権も、この事態を座視してはおりませぬが……」
魯粛の言葉を、孔明が遮った。
「魯殿。呉の存亡を案じておられるなら、単刀直入に申し上げましょう。曹操が求めるのは、わが主君、劉皇叔の首だけではない。江東の民を奴隷とし、孫家の誇りを踏みにじることにある。呉を平らげれば天下統一。曹操が狙うはこれしかない。……貴殿の主君に、戦う意志はあるか。それとも、曹操の刃に首を差し出すのを待つか」
魯粛の目が細まる。孔明の放つ威圧感は、敗軍の軍師のそれではない。
「……それを確かめるために、私は参りました。ですが、わが呉の文官たちは、曹操の大軍を前に降伏を唱えております」
「ならば、私が行きましょう」
孔明は静かに、だが鋼のような響きで言った。
「私が単身、江東へ渡り、孫呉の迷いを断ち切りましょう」
劉備が驚愕して孔明を振り返った。
「孔明……! あまりに危険ではないか。虎穴に入るというのか」
「わが君。今の状況は確かに虎の口に飛び込むようなもの。ですが、それこそが唯一、虎を崖から突き落とす好機なのです。呉とよしみを結び、共同して曹操の野望を砕くべきです」
夜、孔明は魯粛と共に一艘の小舟で江を渡る。
背後で小さくなっていく江夏の灯火を見つめながら、孔明は羽扇を胸元に引き寄せ、思考を研ぎ澄ませた。
孫仲謀と周公瑾。彼らが曹操という脅威に対し、いかなる覇気を見せるか。
荊州軍を吸収して百万と称する曹操の大軍。それに対するは、恐慌に陥る呉の文官たち。
一艘の小舟で江を渡る孔明を待つのは、孤立無援の舌戦であった。