江東の要衝、柴桑の夜は深い。鄱陽から急遽、馬を飛ばして帰還した周瑜の邸内には、冷気と張り詰めた殺気が同居していた。
広間の主座に座す周瑜は、その端麗な容姿に旅の塵を纏わせたまま、鋭い眼差しで魯粛と諸葛亮孔明を見据えていた。燭台の火が小さく揺れ、周瑜の影を壁に長く、不気味に引き伸ばしている。
「諸葛孔明殿。貴殿の舌鋒が、呉の文官どもを震え上がらせたとは聞いた。だが、軍を動かすのは言葉ではない。利と理だ」
周瑜の声は、研ぎ澄まされた刃物のように冷たかった。彼は孔明が口を開くより先に、断固とした拒絶を突きつけた。
「曹操の軍勢は百万。対する呉の兵は数に劣る。戦えばこの江東は灰となり、民は塗炭の苦しみに喘ぐことになるだろう。降伏こそが、現実的に民を救う唯一の道。わが君にはそう奏上するつもりだ。……呉に開戦を期待して江東までお越しいただいたが……無駄足であったようだな」
孔明は、その拒絶を想定していたかのように静かに微笑んだ。手に持つ羽扇を胸元に引き寄せ、周囲に人影がないことを確認すると、声音の温度を一段下げて語りかけた。
「公瑾殿……あまりに突飛で唐突な話に聞こえるやも知れませぬが……曹操は闇に棲み、人の命を喰らう吸血鬼なのです」
「ふむ……。曹操がこれまでに行ってきた残虐非道の数々を思えば、そのような二つ名がつけられても不思議ない」
周瑜は盃を飲み干しながら、孔明の衝撃の暴露をまるで笑い話であるかのように受け流した。だが。孔明の瞳に宿る確固たる決意と、真実を語る者のみが宿す炎を見て、これが冗談ではないことをすぐに悟った。
「まさか……本当に、そんなことが……? 吸血鬼だと? しょ……証拠はあるのか?」
魯粛も口を開けてパクパクと動かすだけで、言葉を失っている。
「言葉で語っても、俄かには信じられますまい。まずは、わが『理』の端くれをご覧に入れましょう。こちらへ」
孔明は、部屋の隅に置かれた、手を洗うための水桶の前に周瑜と魯粛を誘った。月光が差し込む水面は、鏡のように静止している。
孔明は袖をまくり、一度大きく息を吸うと、細く白い指先を、わずかに、ただ一点だけ水面に触れさせた。その瞬間、周瑜も魯粛も息を呑んだ。孔明の指から、同心円状の波が広がったのではない。水面に、まるで目に見えぬ筆で描かれたかのように、鮮やかな太極図の幾何学模様が浮かび上がったのである。指は動いていない。孔明の呼吸に合わせるように、水面そのものが意思を持ったかのように波立ち、陰陽の勾玉が回転を始めた。孔明が指を離してもなお、その模様は消えなかったが、やがてもとの水面に戻った。
「続いてこちらをご覧あれ」
孔明は続けざまに、傍らの瓶に活けられた山茶花の枝を手に取った。季節相応の冷え込みのせいか、その蕾は赤黒く、石のように固く閉じていた。
孔明はまたもや深く息を吸い込むと、枝を軽く握り直した。孔明の指先から黄金色の、陽炎のような揺らぎが山茶花へ伝わる。刹那、カチリと音がしたかと思うと、固く閉じていた蕾が生き物のように脈打ち、膨らみ始めた。瞬く間に、幾重にも重なる紅い花弁が外側へと弾け、広間の中にむせ返るような花の香りが満ちる。冬の入り口に、不自然なほど大輪の山茶花が、今を盛りと咲き誇った。
「……ッ!」
周瑜が目を見開いた直後、その花は一気に色を失い、ハラハラと床に散り落ちた。
「……これは、何だ?」
周瑜が孔明に問う。
「生命の律動、波紋功にございます。あらゆる生者が持つ呼吸の力を、一点に凝縮し、伝播させたもの。目には見えませぬが、太陽の光と同じ波長を帯びております」
「その波紋功が……どうして曹操が吸血鬼であることの証明になる?」
信じられないものを立て続けに二つも目撃しておきながら、周瑜は冷静さを失ってはいなかった。
孔明は山茶花の散り際を見届けると、静かに周瑜へ向き直った。
「……公瑾殿。今お見せしたのは、あくまでわが『理』の片鱗に過ぎませぬ。これそのものが吸血鬼の証ではない。しかし――吸血鬼でなければ説明できぬ現象は、すでに天下の至るところで起きております」
周瑜は眉を寄せた。
「……説明できぬ、現象……?」
孔明は頷き、淡々と語り始めた。
「曹操軍の行軍、夜戦、兵の動き……いずれも人の理から外れております。一夜にして三百里を駆け、疲労も痛みも見せず、夜になれば異様な戦闘力を発揮し、四肢を切断されても、内臓を貫かれてもなお動く者すらいる。そして彼らは狡猾です。昼間は人間の部隊に行動させ、自らは日が沈んでからしか姿を現しませぬ。昼間の部隊を少々削ったところで、曹操軍の中枢を叩いたことにはならないのです。彼らの弱点は太陽。しかし夜には陽は昇りませぬ。そこで」
「波紋功の出番というわけか……」
周瑜が言葉を遮ったが、孔明は周瑜の理解力の高さに満足げな笑みを見せた。孔明はなおも続ける。
「私は博望坡にて、波紋功を用いてある将の異能を封じました。波紋は、生者には活力を与え、理を外れた者には破壊をもたらす。つまり――波紋が効いたという事実そのものが、敵が生者ではないことの証左なのです」
周瑜は盃を置き、深く息を吸った。
「……では、孔明殿はこう言いたいのか? 曹操軍は、人の姿をしているだけで、その本質は人外であると」
孔明は羽扇の動きを止め、静かに頷いた。
「左様。人間の部隊も半数ほどは混じっているかと思いますが、中枢は吸血鬼の眷属と見て間違いありません。そして――中枢が吸血鬼、という仮説を置いたときだけ、曹操軍のすべてが一つの理で説明できます。おそらく曹操が吸血鬼化して直後のことと思われる徐州の事件や、建安五年の官渡の戦いにおける捕虜八万人の坑殺……これらが吸血鬼の眷属のための食料調達だとしたら?」
「あッ!」
すでに顔面蒼白の魯粛が大きな声で叫んだ。
周瑜と魯粛の表情が険しくなる。
「……吸血鬼という言葉は荒唐無稽だ。だが……その仮説が最も整合性が高い、というのは……否定し難い……」
孔明は一歩踏み出し、声を低めた。
「公瑾殿。私は吸血鬼を信じよと言っているのではありません。吸血鬼と仮定したときだけ、曹操の行動原理が完全に説明できるのです。そして――その仮説を採用したとき、呉が降伏するという選択肢は、もはや存在しなくなる」
孔明が最後の言葉を投げかける。
「もし呉が降伏すればどうなるか? 吸血鬼は労働力を必要とせず、民は資源として扱われるだけ。江東の民は、彼らにとっては養分に過ぎませぬ。降伏は安全ではなく、緩慢な滅びでしかない」
周瑜の拳が、膝の上で静かに震えた。
「……」
長い沈黙ののち、周瑜は盃を取り、ゆっくりと口に運んだ。
「……孔明殿。貴殿の言葉は、どれも信じ難い。だが――信じぬわけにもいかぬ。この戦、避けられぬということか」
孔明は深く頭を垂れた。
「左様。赤壁こそ、天下の命運を決する地となりましょう」
翌朝。柴桑の朝議の広間は、降伏を叫ぶ文官たちの騒音に包まれていた。
だが、周瑜が進み出ると、その冷徹な威圧感に場は一瞬で静まり返った。
「わが君! 曹操の軍勢は、百里に渡る陣を敷き、百万と称しております。だが、その実態は袁紹の敗残兵や降伏した荊州兵の寄せ集め。いわば烏合の衆に過ぎませぬ。加えて、長旅による疲労と合わぬ風土からの疫病の蔓延、水戦への不慣れ……。彼らが誇る鉄騎兵も、水の上ではその足場を失いましょう」
周瑜は、昨夜の孔明との密談を胸に秘めたまま、軍事的な地政学に基づき、曹操軍がいかに勝てる相手であるかを論理的に語った。
「曹操は漢の丞相とは名ばかり、いずれは自分が天子にならんとする逆賊。わが君は先代のご遺業により江東数千里の土地を領し、兵は精鋭、食糧は豊か、英雄も雲の如く集まっております。それが逆賊を懲らしめもせず、降伏はございますまい」
「しかし…勝てるのか?」
孫権が問う。
「曹軍百万の実態は先ほど明らかにした通り。長江の天険、そしてわが水軍の練度を以てすれば、曹操の野心など、この長江の藻屑に変えること容易にございます。今こそ戦うべきですッ!」
主戦論の火が、瞬く間に広間に燃え広がった。孫権は群臣を一人ずつ射貫くように見つめ、静かに、だが鋼のような決意を込めて腰の宝剣を抜き放った。
「……わが呉は、父・孫堅、兄・孫策が命を懸けて拓いた地。これを戦わずして逆賊に差し出すことは、孫家の名を汚すに等しい」
孫権は、目の前に置かれた重厚な机の角を、宝剣で一気に叩き斬った。
カァンッ!
と、乾いた音を立てて木片が転がる。
「これより降伏を説く者は、この机と同じ運命を辿ると思えッ!!」
孫権の咆哮。それは、呉と劉備軍の同盟が単なる軍事協定を超え、人間という種を懸けた対吸血鬼連合へと変貌した瞬間であった。
孔明は、広間の隅で静かにそれを見つめていた。その瞳には、これから始まる凄絶な戦いの予兆が、静かに映っていた。