王景を討ち果たした夜、単福は逃げなかった。
「……これを、石徳様にお返ししてくれ」
彼は石徳から贈られた大切な撃剣を、震える広元の手に委ね、返り血を浴びたまま、石徳の亡骸の傍らに、ただ静かに座っていた。駆けつけた役人たちに囲まれ、抜き身の刃を突きつけられても、彼は抵抗一つしなかった。
「……石徳様。あなたの仇は、この手が確かに。……あとのことは、天に任せます」
単福は、重い鉄鎖で縛り上げられ、引きずられるようにして冷たい石牢へと放り込まれた。
萬金堂の主・王猛の怒りは凄まじかった。溺愛していた跡取り息子を殺された彼は、役人たちに莫大な黄金を積み、単福を公の裁判にかけることさえ禁じ、即座の処刑を要求したのである。
死罪を待つ単福。その絶望の静寂を切り裂いたのは、石広元であった。
ガシャァァンッ!!
真夜中の牢獄に、鋭い金属音が響き渡る。
広元は店に残されていたありったけの薬草と金を使い、強欲な牢番を買収し、あるいは自らの知恵で練り上げた眠り薬を飲ませ、単福の鉄格子の前へと辿り着いたのだ。
「……単福! 立てッ! 死なせてたまるかッ!!」
「広元……!? 莫迦な、お前まで捕まれば、叔父上の家系が絶えるぞ……」
「いいから来いッ! お前がいなくなったら、叔父上が命を賭けて守ろうとしたこの街の良心に、誰が正義を示すんだッ!」
広元は預かっていた撃剣を単福の胸に力強く押し付け、単福が立ち上がるのを促した。
二人は、追手の怒号を背に、夜の潁川を駆け抜けた。
王猛が放った私兵たちも、松明を手に飢えた狼の如く街中を捜索している。
「逃がすなッ! 単福と広元の首を持ってきた者には、望むだけの黄金を出すぞッ!!」
街の出口はすべて封鎖されつつあった。
逃げ場を失い、身を隠しつつ、追い詰められた二人が向かったのは、町の北外れ、険しい森の奥にひっそりと佇む、あの「禁忌の廃観」であった。
「……あそこなら、王猛の犬どもと言えども、恐れて容易には近づけまい」
広元が肩で息をしながら言った。
かつて、彼ら三人が――単福、広元、そして広元の従兄弟である石忠が――肝試しで足を踏み入れ、得体の知れない恐怖に震えながら逃げ出した場所。そこだけが、今の彼らに残された唯一の聖域であった。
一方、その頃。
萬金堂の奥座敷では、一人の男が平伏し、膝を屈していた。
石忠である。
「……旦那様。……どうか、親の薬を。……この通りです、伏してお頼み申し上げます」
王猛は、冷酷な爬虫類のような瞳で、足元の男を見下ろした。
「……単福と広元。奴らの居所を突き止め、生け捕りにしてこい。……そういえば、貴様は広元の従兄弟であったな。奴らが行きそうな場所に、心当たりがあるのではないか?」
王猛の言葉には、拒絶を許さぬ圧があった。
「……貴様の代わりなど、いくらでもいるのだ。とにかく捕らえてこい。できねば、貴様の親に与える薬はないと思え」
石忠は、震える手で短刀の柄を強く握りしめた。
幼馴染を、親友を、自らの手で捕らえなければ、親の命が露と消える。
彼は、かつて三人で遊んだあの日の、忌まわしくも鮮明な記憶を頼りに、単福たちが向かうであろう唯一の断絶の地へと、闇に紛れて走り出した。
ゴゴゴゴ……。
廃観の重い門が、数百年ぶりの客人を嘲笑うかのように、不気味な軋みを立てて開いた。
単福と広元は、そこに待ち受けているのが、単なる「追手」ではなく、人類の理(ことわり)を根底から塗り替える「魔の装置」であることを、まだ知る由もなかった。