建安十三年、冬。
長江の広大な水面を支配するのは、もはや自然の猛威ではなく、人知を超えた絶望の影であった。
北岸の烏林から赤壁の対岸にかけて、曹操軍が展開した陣形は、長さにして百里。その艦隊の威容は、狂気的な執念の結晶であった。
かつて曹操が禁忌の森を根こそぎ伐採し、幾年も前から南方攻略に向けて密かに準備してきた一千艘の軍船。それらは、屍生人たちの呪わしい労働によって掘り抜かれた巨大な運河を通り、華北の闇から長江へと一気に運び込まれたのである。そこに江陵で接収した荊州水軍の巨艦群が加わり、水面はさながら、黒い鱗を持つ巨大な怪物の背中のように塗りつぶされていた。
南岸の断崖の上に立つ周瑜と魯粛。若き水軍都督、周瑜の瞳が、冷徹に敵の威容を射抜く。
「……あれが、曹操の艦隊か」
数に勝る曹操軍は、早くもその威圧を形にするべく、蔡瑁と張允に命じて百艘あまりの戦船を繰り出してきた。長江を分断せんとする、圧倒的な物量の暴力である。
だが、周瑜の口元には微かな冷笑が浮かんでいた。
「子敬殿。北方の兵に、この江の理は分からぬと見える。数さえ揃えれば、この水面を支配できると思っているのだ」
周瑜の采配の下、呉の精鋭水軍が静かに、だが恐るべき速さで動き出した。呉の船は、曹操軍の巨大な安宅船に比べれば一回り小さい。だがその動きは、まるで獲物を狙うハヤブサのように鋭く、自由であった。
「……射てッ!!」
周瑜の号令一閃。呉の水軍は、正面からぶつかることをせず、変幻自在な陣立てで曹軍の側面に回り込み、一斉に火矢を放った。
曹操軍の主力たる北方の兵たちは、足元から伝わる長江の不規則な律動に、なすすべもなく翻弄されていた。大地を踏みしめて戦う術しか持たぬ彼らにとって、激しく揺れる甲板はもはや戦場ではなく、底なしの恐怖を孕んだ檻であった。水流が船体を叩くたびに、兵たちは平衡感覚を失い、武器を杖代わりにしがみつくのが精一杯であった。ある者は激しい船酔いに胃を返し、ある者は船を制御するための綱や舵の扱いがわからず、ただ無為に右往左往するばかり。操舵を助けようと走り回るほどに船の重心は乱れ、さらに揺れを増幅させるという悪循環に陥っていた。呉の快速船が死角を縫うように走り、正確無比な火矢を放っても、彼らはそれに応射することすら叶わず、ただ燃え盛る甲板の上で、崩れるように膝を突くしかなかった。
蔡瑁と張允は、船上から必死に指揮を執るが、その声は兵たちに届かない。波の動きと風の機微を完全に制した周瑜の操舵の前では、旧態依然とした陣形など、ただの動かぬ標的に等しかった。
「退け! 立て直せッ!!」
蔡瑁の悲鳴に近い叫びと共に、曹操軍の先鋒は一矢も報いることなく北岸へと逃げ帰った。
北岸、日光を完全に遮断した曹操の天幕。逃げ帰った蔡瑁と張允が、泥と返り血にまみれて平伏していた。
「……わが軍に泥を塗った罪、万死に値する。……程昱、この無能どもを地下の奥深くへ放り込んでおけ」
曹操の声は、地の底を這うような不気味な冷たさを帯びていた。
兵たちによって引き立てられ、暗く湿った地下牢へと連行された蔡瑁と張允は、絶望に打ち震えていた。だが、最奥の檻に辿り着いた時、二人はその闇の中に佇む影を見て、思わず息を呑んだ。
「あッ!……お前はッ!」
蔡瑁の驚愕が冷たい石壁に反響するが、その動揺を飲み込むように、鉄の扉が重々しく閉ざされた。
蔡瑁と張允が無残に引きずられて消えた後、残されたのは凍り付いたような静寂と、敗北の苦い残り香だけであった。
「焦触、張南ッ!」
「はッ!」
曹操の呼び声に応じ、二人の将が闇に跪いた。
「貴様らは長江の出であったな……貴様らを新たな水軍都督に任ずる。……これより先、わが許可なく戦を仕掛けることは許さぬ。まずは北方兵の足腰を叩き直し、この泥水の上で吐かずに立てるようになるまで、徹底して調練を続けよ」
「はッ!」
曹操はそこまで一気に命じると、幕舎を包む静寂の中で、対岸から漂う風の気配を不快げに吸い込んだ。肉眼で見るまでもなく、彼の感覚は南岸に座す敵の「熱」を、忌々しいほど鮮明に捉えていた。
(……周瑜。あの若造が振るう采配一つに、わが理が揺さぶられるとはな)
曹操の手が、腰の倚天の剣の柄をぎりりと握りしめる。
「目障りな周瑜め……。奴さえいなければ、呉の蹂躙など容易いものを……」
その時、幕舎の入り口の厚い帳がわずかに持ち上がり、一人の文官が滑り込んできた。蒋幹である。彼は卑屈な笑みを浮かべ、恭しく額を床に擦り付けた。
「主公、その憂い、この蒋幹が霧散させてご覧に入れましょう。周瑜は確かに難敵ですが、私にとっては九江で学問を共にした旧知の間柄。彼の性格の隙は、この掌の中にございます。懐かしき友としての再会ならば、周瑜とて剣を抜くことはできませぬ。その懐に飛び込み、周瑜を口説いて、お味方につけるよう働いてみとうございます」
曹操の冷徹な眼光が、闇の中から蒋幹を射抜く。
「……行け。だが覚えておけ。この闇の中で、失敗を許す寛大さはわが内には持ち合わせておらぬ」