烏林の地下に築かれた大鉄工所は、昼夜の別なく、大地を揺るがす地獄の如き咆哮を上げ続けていた。
建安十三年の冬の冷気が押し寄せる中、襄陽の全域から根こそぎ集められた二千人におよぶ職人たちの熱気と、真っ赤に溶けた鉄が放つ凶悪な熱風が、巨大な洞窟のような空間を支配している。
徐庶はこの巨大な「破滅の揺り籠」の総監督として、驚異的な執念を以て職人たちを差配していた。
「夜組はひたすら鎖を打て。一瞬たりとも槌の音を絶やすな。そして昼組は、留め金の製作に注力せよ」
数日前の昼組。大鉄工所は襄陽から徴用された彫刻の名工たちの技によって、奇妙な静寂と熱気に包まれていた。
徐庶は名工たちを付きっ切りで監視し、硬い青銅の塊に寸分の狂いもない完璧な彫刻を施させた。それが全軍の船を繋ぐ留め金の、「おおもとの型」となる。職人たちは、その青銅の母型(おやがた)をもとに、毎日数百個、計八千個におよぶ蝋製の原型を正確無比に複製していった。
さらにその蝋製の留め金を粘土(真土)で包み込んで焼き固め、熱によって蝋が溶け出すことでできた空洞へ、今度は灼熱の溶鉄を流し込む。冷え切った後に周囲の粘土型を木槌で粉々に叩き割ると、中から蝋製の留め金と全く同じ形状の鉄の留め金が次々と姿を現す。これこそが、襄陽に伝わる鋳造の秘技「失蝋法(しつろうほう)」であった。
職人たちは、自らが打つ鉄の重みと、毎日大量に出る粘土の破片の始末に追われ、徐庶に何を命じられ、何を作らされているのか、その真意に全く考えが及ばなかった。
日が沈み、知性を剥奪された不気味な屍生人や、その上位存在たる半吸血鬼たちが陣内をうろつき出す夜間になると、徐庶は一転して、彼らの目の前でただ熱心に鉄鎖を繋ぐフリに切り替えた。吸血鬼の監視が届かぬ白日の下、人間の職人たちが忙しなく働く影で、徐庶だけがこの作業の全体像を把握しながら、必要なものを、必要な分だけ作り揃えていったのである。
一方、鳳雛こと龐統は、その徐庶の目に見えぬ動きを、自らの超凡な知性で敏感に察知していた。
(元直は『何か』を仕込んでいる……)
友の命懸けの暗躍を確信した龐統は、自らも牙を研いだ。曹操や程昱といった軍の中枢、そして夜の住人たちが、少しでも鉄工所に近づくことを防ぐため、連日、大幕舎へと自ら足を運んだのである。
「丞相、漢朝の礼制と、これからの天下における施政の理について、不才の身ながら一論を献じたく存じます」
龐統は高潔な学者、あるいは世を憂う隠者としての顔を完璧に演じ切り、曹操が最も好む「唯才」の議論や天下二分の地政学について、深く重厚な談議を仕掛けた。曹操はその鳳雛の深い学識に完全に魅了され、側近たちを従えて幕舎の奥に引きこもり、日中の時間をすべて龐統との問答に費やすこととなった。二人の天才による、音もなき完璧な連携であった。
そしていよいよ、鉄鎖四千条と留め金八千個が完成を迎えんとする前夜。
地下牢の最奥は、凍りつくような冷気と、澱んだ死臭に満ちていた。
その牢だけは、普通の囚人を繋ぐ極太の堅木の檻とは異なっていた。飢えた屍生人たちの異様な怪力から、最重要の人質である劉備の娘二人を「守り、かつ閉じ込める」ために作らせた、鉄製の檻であった。
蔡瑁・張允もそこにいた。彼らも元を質せば一軍の将である。一応の礼は尽くされているということであろうか。
夜陰に乗じて潜入した徐庶は、檻の見張りを任されていた数体の屍生人の背後に音もなく立ち、その頸椎へと微弱な波紋を流し込んで、一瞬の叫びすら許さずに意識を刈り取った。
徐庶は衣服と、鉄工所の鞴(ふいご)に使う乾いた鹿皮とを強く擦り合せ、己の肉体に大量の静電気――この時代の学者が「相感(そうかん)の怪火」と呼ぶ、冬の乾燥が生み出す自然の衝撃を過剰なまでに蓄積させていた。
覆面で顔を隠した徐庶は、檻の中で怯える蔡瑁と張允の前に静かに立った。二人は、突如現れた曲者に声を上げようとした。
「……静かにしろ。逃がしてやる。ここを握れ」
低い声で告げながら、徐庶は目の前の鉄檻の扉を指し示した。絶望の淵にいた蔡瑁たちは、それが呉の密偵か何かの手引きであると誤認し、縋るように鉄の棒を両手で強く掴んだ。
その瞬間であった。
バチチチチチチチッ!
冬の乾燥した大気に、暗がりの中ではっきりと見える、青白い、鋭い火花が飛び散った。通常であれば、少し指をすくめるだけの、冬の悪戯に過ぎない衝撃。しかし、徐庶は過剰な量の静電気に、自らの、極めて高密度の波紋を練り込んでこれを伝導させたから堪らない。
鉄の檻全体を伝った静電気の奔流は、蔡瑁と張允の神経を一瞬で麻痺させた。二人は声も出せず、泥のように冷たい床へと崩れ落ち、意識を失った。
徐庶は手早く檻の中に侵入すると、失神した蔡瑁の懐に、あらかじめ看守の詰め所から盗み出しておいた「牢の鍵」を忍ばせた。さらに、二人の衣服を激しく引きむしり、檻の鉄棒に彼らの拳を強引に打ち付け、看守の首を絞めたかのような指の傷や、打撲痕を二人の身体に刻み込んでいった。
あたかも「蔡瑁たちが牢番の隙を突いて鍵を奪って脱獄を企て、牢番の屍生人と激しい格闘になったが、相打ちとなって二人とも失神し、逃げ損ねた」かのような現場の状況証拠を、完璧に偽装したのである。
工作を終えた徐庶は、檻の最奥で身を寄せ合っていた劉備の娘二人を抱きかかえ、地下から静かに脱出した。
人の目の届かない、資材倉庫の裏手まで来ると、徐庶は娘二人を下ろし、覆面を取った。
「よく今まで頑張ってこられましたな、お嬢様方。もう少しの辛抱です」
二人は月明かりで徐庶の顔を確認すると、安堵が少し混じった、驚きの声を上げた。
「あ……あなたは……新野の城におられた軍師……徐庶さま!」
「徐庶さまは今、曹操に仕えておられるのですか?」
二人が矢継ぎ早に話しかける。徐庶は困ったような苦笑いをしながら答えた。
「曹操に仕えるフリをしているだけです。わが心は今もお父上と共にあります。それより、お父上の下に戻るため、お二人にはもうひと眠りしていただかなくてはなりません。なぁに、目が覚めたら、そこに孔明がいて、彼が必ずやお父上の下にお連れすると約束します。私を信じて、お休みいただけますかな?」
「はいっ!」
二人は声を揃えて答えた。
徐庶は一度大きく息を吸い込むと、二人の胸元にそっと両手を当て、二種類の波紋を流し込んだ。水豆腐修行で得た、異なる波紋の制御。くっつく波紋と、はじく波紋。くっつく波紋は心臓の動きを止め、はじく波紋は血流が流れ続けるようにして、二人を「仮死状態」へと導入した。波紋はそもそも血流から得られるエネルギーなので、血流とは極めて相性が良かった。血流が完全に止まってしまえば脳細胞が死滅するが、それを防ぐための措置であった。
(陣内をうろつく屍生人や半吸血鬼は、松果体が異様に発達しており、生きた人間の呼吸や拍動といった生気を本能的に感知する。これによる発覚を完全に防ぐためには、一時的に二人の命の灯火を消すほかなかったのであるッ!)
徐庶は、死んだように動かなくなった二人の身体を、程昱が発案した「疫病を送り付ける筏」に乗せる死体同様、粗末な筵(むしろ)や死衣でぐるぐる巻きにし、一見するとただの不浄な死体にしか見えない塊へと擬装した。
そして、それを闇に紛れて龐統が乗ってきた小舟の底へと運び込み、隠した。
次に龐統の部屋に忍び込むと、徐庶は声を潜めて言葉を交わした。
「明日の朝、日の出とともに呉へ帰れ。乗ってきた小舟に土産が隠してある。それを孔明に渡してくれ」
「……しかと引き受けた。元直、お前も息災でな」
龐統は静かに頷き、徐庶は再び、何事もなかったかのように夜明けの大鉄工所へと戻っていった。
翌朝。東の空が白む頃、総監督たる徐庶はいつものように何食わぬ顔で鉄環づくりを指導していた。職人たちの叩く槌の音が響く中、彼の胸中には、やり遂げたという充足感が静かに満ちていた。
大鉄工所での凄絶な突貫作業が終わりを告げ、長江の北岸に再び血のような朱い夕日が沈みゆく頃、徐庶は戦装束の埃を払い、絶対の闇が支配する曹操の大幕舎へと足を運んだ。
「丞相。鉄鎖四千条、および留め金八千個、すべて寸分の狂いもなく完成いたしました。これより、全艦隊を縦横に緊縛いたします」
闇の奥座から、曹操の満足げな低い笑い声が響いた。
「見事だ、徐庶。……程昱、百官を集めよ。鳳雛が献じた、水上の鉄城を見に行くぞ」
船と船を結ぶのは鉄鎖であるが、鉄鎖と鉄鎖を結ぶのが留め金である。徐庶は留め金の設置にあたり、詳細な配置図を作成していた。その図面にはどこの船にどの留め金を設置するべきかが厳密に記されており、図面と留め金の双方にはすべて一対となる番号が振られていた。徐庶は作業にあたる職人たちへ、冷徹なまでの声音で厳命を下した。
「必ずこの図面の位置通りに、寸分違わぬ位置に留め金を設置すること。そして留め金は、図面にある番号のものを使用せよ。留め金には、すべて竹の番号札が掛けられている。必ず番号を確認して設置せよ」
日没後の冷気と、ねっとりとした霧が立ち込める長江の水面。そこには、人知を超えた狂気の光景が広がっていた。
かつて禁忌の森から切り出された赤黒い魔船群、そして荊州から接収した一千艘の巨艦。合わせて二千余艘。それらが、極太の鉄鎖と、失蝋法によって寸分違わず複製された八千の留め金によって、文字通り一体の巨大な鉄の陸地へと変貌していた。
波がいくら船体を叩こうとも、艦隊は微動だにしない。甲板を歩けば、それは長江の上であることを忘れさせるほどに、堅牢な大地の質感を湛えていた。
曹操は程昱らを従えて甲板を踏みしめ、その壮観な夜景に目を細めた。
「これは見事だ。揺れが完全に消えておる。これならば北方兵とて、地上となんら変わらずに戦えよう。さすがは鳳雛、天下の傑物よ」
曹操がその不敗の檻の完成に陶酔した、まさにその瞬間であった。
背後の烏林の陣から、血相を変えた複数の兵たちが駆け込んできた。地下牢を監視していた守衛たちである。
「報告ッ! 地下牢の最奥にて脱獄騒ぎが発生いたしました! 劉備の娘二人が……忽然と姿を消してございますッ!」
「何だと……?」
曹操の顔から笑みが消え、周囲の空気が一瞬にして凍りついた。
急ぎ地下牢の最奥へと引き返した曹操一行の前に広がっていたのは、徐庶が冷徹に作り上げた完璧な脱獄の舞台であった。
檻の見張りであった数体の屍生人は、頸椎を激しく破壊されて物言わぬ死体と化していた。そしてその鉄の檻の中では、衣服を無残に引き裂かれ、身体中に凄絶な打撲痕を刻まれた蔡瑁と張允が、泥のように冷たい床の上で、未だ意識を失ったまま倒れていたのである。
さらに、蔡瑁の懐からは、看守の詰め所から盗まれたはずの牢の鍵が、これ見よがしに頭を覗かせていた。
「起こせ」
程昱の冷徹な号令の下、冷水を浴びせられた蔡瑁と張允は、激しく咳き込みながら意識を取り戻した。
「あ、これは丞相…。面目次第もございませぬ……! 昨夜、突如として覆面の男が現れ、檻を掴めと……気づけば、このような姿に……!」
「嘘を言うなッ!」
程昱がその弁明を冷酷に一蹴した。
「現場の状況はすべてを物語っている。貴様らは牢番の隙を突いて鍵を奪い、脱獄を企てて暴れたのだ。だが、牢番の執念の反撃に遭い、相打ちとなって逃げ損ねた。……そして、貴様らが引き起こしたその格闘の騒ぎ、どさくさに紛れて、檻の奥にいた大事な劉備の娘二人に逃げられてしまったのだ。違うかッ!」
「ち、違う! 違うのです、丞相! 我らは嵌められた! 娘たちの行方など何も知りませぬ!」
蔡瑁と張允は額を床に叩きつけ、血を流しながら必死に叫んだ。しかし、曹操の瞳に宿る光は、すでに人間としての慈悲を一切排した、人外の王のそれであった。
「……見苦しい言い訳だ。己の脱獄の不手際によって、わが覇道のための大事な資源を紛失した罪、万死に値する。人間とは、どこまでいっても無能で、信を置けぬ存在よ」
その様子を見ていた程昱が、衣服を整えてさらに残酷な進言を口にした。
「丞相、この裏切り者どもには、相応しい罰が必要にございます。此奴らを殺すのは容易いですが、それでは全軍への見せしめになりませぬ。此奴ら、この連環の艦隊を文字通り繋ぎ止めるための一部として働いてもらうのです」
曹操の口元に、残虐な笑みが浮かんだ。
「ふふふ、それは面白い。お前たちに永遠の責め苦を与えよう」
曹操は腰の倚天の剣を抜き放つと、自らの両手の指に切り込みを入れた。傷は瞬時に塞がろうとするが、赤黒い血が滴った。曹操はその指を二人の喉元に突き立て、その身から溢れ出るどす黒い死血の呪いを、二人の肉体へと強引に流し込んだ。
「ぎゃあああああああッ!!」
人間であった蔡瑁と張允の肉体が、死血の力によって無理やり作り変えられていく。皮膚は土気色に裂け、牙が伸び、知性と人間の誇りを完全に剥奪された半吸血鬼の怪物へと、一瞬にして変貌を遂げた。
言葉も失って呻く蔡瑁と張允は、艦隊の旗艦の甲板にしつらえられた、頑丈な木の箱の中へと引き立てられた。彼らの身体は太い鉄鎖で雁字搦めにされ、その首へと繋がれた鉄の環は右を向き、胴体へと繋がれた鉄の環は左を向くように、船体の駆動部へと厳重に固定された。
それは、常に首と胴体が逆の方向へと引っ張り続けられる、凄絶な刑罰であった。自らの人外の怪力で鎖を右へ左へと引き続けなければ、己の首と胴体が瞬時に泣き別れてしまう。彼らは死ぬことも許されず、ただ連環船を繋ぎ止めるための生きた生体部品として、夜の闇の中で永遠の苦痛の呻きを上げ続けることとなったのである。
その様子を、徐庶は百官の影で、冷徹な鉄面皮を保ったまま、静かに見つめていた。
――時間は、少し遡る。
その日の昼間。まだ北岸が脱獄の騒ぎに揺れる前のこと、長江を埋め尽くすように流れる、疫病兵の死体の筏の隙間を縫うようにして、一艘の小舟が静かに南岸の赤壁へと到着していた。
小舟を操っていたのは鳳雛、龐統である。
彼は呉軍の陣営に逗留していた諸葛孔明を密かに呼び出し、激しい水飛沫の中で、久しぶりの再会を果たした。
「そなたは士元!」
「やあ、孔明。久しいな」
驚く孔明に対し、龐統は隠密の小舟の底を指さし、不敵に微笑んだ。
「積もる話もあるが、まずは元直からの土産を受け取ってくれ」
孔明が小舟の底を覗き込むと、そこには程昱が放った筏の死体と全く同じように、粗末な筵と死衣によってぐるぐる巻きにされた、一見するとただの不浄な死体にしか見えない二つの大きな塊が横たわっていた。
「……これは?」
「『孔明の息を吹きかけてやってくれ』、と。それが元直からの伝言だ。……では、私の役目はここまで。私はこれでお暇するとしよう。折あらば、どこぞの戦場で相まみえよう」
鳳雛はそれだけを告げると、自らの知略が完璧に、江東と劉備軍の盤面を整えた満足感を胸に、長江を背にして山の方へと、風のように鮮やかに去っていった。
一人残された孔明は、小舟の底の不気味な筵を、慎重に、だが手早くほどいていった。
何重にも巻かれた死衣が剥がされた瞬間、孔明の息が止まった。
中に横たわっていたのは、死んだように冷たく、動かなくなっている、主公・劉備の二人の愛娘であった。
(……仮死状態か!)
「息を吹きかけよ」という元直の言葉の真意を、孔明の天才的な頭脳は瞬時に理解した。元直は、何らかの波紋の業で、彼女たちの肉体に対し、脳死を防ぎながら心臓だけを停止させるという、神業に近い仮死状態を作り出していたのだ。
孔明は一度、深く大きく息を吸い込んだ。
自身の肺の深奥で、血流のエネルギーを極限まで練り上げ、細く長く吐き出しながら、微量の、しかし極めて純度の高い波紋を両の掌へと集中させる。
孔明はその掌を、動かない二人の娘の胸元、その心臓の位置へとそっと当てた。
「……目覚めなさい」
次の瞬間、ドクンッ! と、静かな小舟の中に、力強い生命の拍動が鳴り響いた。
止まっていた時間が動き出すように、二人の娘の頬に血色が戻り、大きく息を吸い込みながら、その瞳がゆっくりと開かれた。
二人は、自らを包んでいた死衣の筵と、傍らに立つ見慣れた軍師の姿に気づくと、涙を浮かべながら、しかし元直から託されていた重要な言葉を、はっきりと孔明に告げた。
「孔明さま。私たちを助けてくれた徐庶さまから、大切な大切なお言付けをお預かりしています。……『陣は成った』、と」
孔明の瞳に、激しい知性の炎が灯った。
周瑜は火計を用いるつもりだ。龐統は北岸で何かを吹き込み、徐庶は仕込みを終えたという。そして己は…己の果たすべき役割は…。不浄の王を包囲する、破滅の回路が、今この瞬間に完全につなぎ合わされた。
孔明は南岸の空を見上げ、来たるべき決戦の刻限を、静かに見据えていた。