【三国志×ジョジョ】徐庶(ジョショ)の奇妙な冒険   作:券王

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黒き布、孔明の呼ぶ風

長江の川面にどんよりと漂う不吉な霧は、日ごとにその密度を増し、対岸の烏林からは生気のない死臭が風に乗って南岸の赤壁へと届いていた。

 

呉軍の本陣。その天幕の中で、大都督たる周瑜は長江の地図を前に、抑えきれない焦燥をその端麗な横顔に滲ませていた。背後には、同じく険しい表情の魯粛が控えている。

そこへ、羽扇を静かに揺らしながら、諸葛亮孔明が姿を現した。周瑜は孔明が定位置につくよりも早く、乾いた声を絞り出すようにして切り出した。

「孔明殿。一刻も早く、北岸の曹軍へ向けて攻撃に移らねば…。呉侯からも、軍船をむなしく停泊させているだけで、一体何をしているのかとお叱りがあったところだ。……日々、わが斥候が南岸へ流れ着く曹操軍の筏の数を数えているが、その数は日に日に多く、不気味なほどに膨れ上がっている。これは曹軍の内部で、深刻な流行り病が蔓延している何よりの証拠。敵の足腰が立たぬこの勝機、一刻の猶予もなし。この機を逃してはならぬのだッ!」

周瑜の苛立ちは、地政学的な判断からだけのものではなかった。北岸のただならぬ気配が、人間としての生存の本能を突き動かしていたのである。だが、孔明はその焦燥を静かに受け止め、羽扇をぴたりと止めて対岸を指し示した。

「その通りです、公瑾殿。子敬殿。機は呉軍にある…。しかし…曹軍の大船団を打ち破るため、火計を用いることと推察しますが、万事すべて備われどもただ南風を欠く、がお悩みの種でございましょう?」

「それよ。この真冬の冷たい北風が吹き荒れる水上で、我が軍が火計を用いれば、どのような結果になるかは明白。放った火は逆風に乗って、我が船団を焼き尽くす。だが、風を待っていては敵の病が癒え、百万の物量に押し潰される!」

周瑜が机を叩いた。その言葉を待っていたかのように、孔明の瞳に底知れぬ理知の光が宿った。

 

「風ならば、私が呼びましょう」

「何……?」

「その昔、異人にあって奇門遁甲の天書を伝授され、そこに風を起こす方法が記されておりました。もし大都督が、真冬の長江に南の風をお望みなら、その秘法を以て、必ずや南風を呼んでご覧に入れましょう」

「そ……そんな神術のようなことができるのか……!?」

周瑜は驚愕に目を見開いた。だが、孔明ならあるいは……。周瑜の脳裏に、開戦を決意したあの夜、自らの邸宅の密室で見せられた孔明の秘術の光景が鮮明に甦っていた。水桶に浮かび上がった完璧な太極図、そして一度の呼吸で硬い蕾から大輪の花を弾けさせた、あの人知を超えた生命の律動。この男が「できる」と断言するからには、そこには常人の測り知れぬ確固たる理があるはずであった。

周瑜はすぐに首を振り、縋るような鋭い眼差しで孔明を凝視した。

「……いや、何もしないよりは、はるかに増しだ。頼む、今すぐその秘法を執り行ってくれ!」

 

孔明は深く頭を垂れ、淡々とその条件を突きつけた。

「かしこまりました。それではまず、天の気を引き込むための祭壇を築いてください。来たる十一月二十日は、暦の上で甲子(きのえね)に当たります。この日にかけて私が壇上で祈祷を捧げれば、三日三晩のうちに、長江に猛烈な南風を呼べましょう。祭壇は、本陣の背後にある南屏山(なんぺいざん)の頂上に。……それともう一つ、大都督に手配していただきたい物資がございます」

「何だ、金銀か? それとも儀式の生贄か?」

「いえ。黒い布を、ありったけ。そして、石灰を可能な限り集めてください。黒い布は『呉の勝利のため、兵たちの防寒の衣を仕立てる』と称し、江東の民から広く拠出させるのです」

「黒い布と、石灰……? 奇妙な儀式だ。だが、相分かった。ただちに江東の全域へ早馬を飛ばし、手配しよう」

 

大都督の厳命により、呉の支配下にあるすべての郡へ、激しい太鼓の音とともに伝令が走った。

「呉の勝利のため、すべての民は手元にある黒き布を拠出せよ!」

その触れが出回った時、江東の地で起きたのは、官憲による強制的な徴発ではなかった。非凡な大都督を深く慕い、その施政によって安寧を得ていた国中の領民たちが、自らの意志で動き始めたのである。

「大都督が、私たちのために戦ってくださるのだ」

「曹操という残虐な支配者が来れば、我らの生活は根こそぎ奪われる。これしきの布、いくらでも持っていってくれ!」

県や邑、あるいは聚落(しゅうらく)の至る所で、民たちが涙を流しながら、家中にある黒い衣、喪服、使い古した布、あるいは大切に保管していた布地を「これで少しでも兵たちの足しにしてくれ」と自ら役所へ持参した。中には、貧しさゆえに小さな布切れしか持たぬ老女が、それを両手で捧げて「どうか勝ってください」と祈りを捧げる姿もあった。曹操の恐怖による支配に対し、江東の民は人と人との紐帯という情の力で立ち上がったのである。

 

集まった膨大な黒布は赤壁の陣へと運び込まれ、江東の女たち数千人が昼夜を問わず、涙と祈りを込めて針を動かした。彼女たちの手によって、大小さまざまな大きさの布切れが縫い合わされ、四丈(およそ九・二メートル)四方の巨大な布となり、更にそれが三十五万枚ほど積み上げられ、巨大な漆黒の布の塊となった。それは、民の執念が編み上げた、光を吸い込むような闇の褥(しとね)であった。

同時に、石灰の調達もまた、軍を挙げた大がかりな文字通りの突貫作業となった。

石灰は、官営の建築倉庫や城壁修復用の備蓄資材庫、さらには長江沿いの民間の漆喰(しっくい)職人の工房から根こそぎ集められた。

陸路では何十台もの牛車が泥道をきしませて急ぎ、水路では呉軍の輜重船(しちょうせん)が船団を組んで赤壁へと急行した。それらは木箱に納められ、水飛沫を遮断した状態で、慎重かつ迅速に運搬された。

南屏山の頂上に、三層からなる見事な七星壇(しちせいだん)が築かれ、膨大な物資が集まったところで、孔明は壇上へと登り、静かに祈祷を開始した。

 

二日が過ぎた。

北風は依然として吹き荒れ、呉の将兵の間に焦りと不信感が広がり始めた二日目の夕暮れ。孔明は七星壇の奥に、密かに魯粛を呼び寄せた。

松明の火に照らされた孔明の顔は、昨日の祈祷師のそれではなく、冷徹な自然の執行者としての鋭さを帯びていた。

「子敬殿。これより、わが最後の指示を伝えます。一言一句、違わずに実行してください」

「は、はっ……何なりと」

孔明は、羽扇で長江の岸辺を指し示し、氷のような声音で命じた。

「明日の夜明け前までに、あの長江の岸に沿って、民が縫い合わせた黒い布を地面に隙間なく打ち付け、完全に固定しなさい。規模は、幅七里(およそ三キロメートル)、長さ二十四里(およそ十キロメートル)に及ぶ巨大な黒の地平です。……そして、日没が近くなったところで、その黒き布の上に、集めた石灰を蒔きなさい。布の黒い部分が完全に目に見えなくなるまで、雪が降り積もったかのように厚く、一律に蒔くのです。……そして、日が完全に沈むと同時に、その石灰の上に一斉に水をかけなさい」

魯粛はそのあまりに巨大で、奇妙な命令に言葉を失った。孔明はその魯粛の目を真っ直ぐに見据え、最後の一言を叩き込んだ。

「水をかける全ての工程を終えたなら、一刻の猶予も残さず、すぐにすべての軍船を対岸へ向けて出発させなさい。……案ずる必要はありません。日が沈むと同時に、この長江には、曹操の全艦隊を焼き尽くす西南の風が必ずや吹き荒れます」

 

諸葛亮孔明が放ったそのあまりに奇妙で、かつ破天荒な命令に、魯粛は己の耳を疑い、しばらくはただ茫然と立ち尽くすほかはなかった。しかし、その日の孔明の瞳に宿る、冷徹なまでに研ぎ澄まされた理の光を前にして、それが単なる荒唐無稽な神術の類ではないことを直感していた。

大都督・周瑜から全権を委ねられた魯粛は、夜陰に紛れてただちに呉軍の兵たちを動かした。

翌朝、東の空が白むよりも遥か前、漆黒の闇に包まれた長江の南岸一帯に、音もなき人の波が蠢いていた。

郷邑(きょうゆう)の民たちの祈りと涙が紡ぎ上げた、号して三十五万枚におよぶ黒き布。それらは、数千人の兵たちの手によって、長江の川沿いに次々と広げられ、隙間なく地面へと打ち付けられていった。

幅七里、長さ二十四里。

夜明けの光が長江の水面を照らし出した時、そこに現れたのは、自然の理を無視して大地を侵食した、果てしのない「漆黒の地平」であった。江東の兵たちは、自らが敷き詰めたその不気味な黒い絨毯を見つめ、理由の分からぬ戦慄に身を震わせていた。

 

日は昇り、真冬の鋭い陽光が遮るもののない沿岸へと降り注ぐ。

その瞬間から、孔明の仕掛けた「第一の理」が静かに牙を剥き始めた。

もしこれが通常の泥土や草地であれば、冬の日差しは冷たい地面と長江を渡る冷たい風に遮られ、大地を暖めるには至らない。しかし、地平を埋め尽くした三十五万枚の黒布は、降り注ぐ陽光の熱を、まるで飢えた獣のように貪欲に吸収し、その下の地面もろとも蓄熱し始めたのである。

日中、南屏山の七星壇の上で羽扇を揺らす孔明の肌には、背後の山側から吹き下ろす、わずかに生温い空気の対流が感じられていた。黒布の地平は、白日の下にその熱量を極限まで高めていた。

やがて、冬の短い一日が終わりを告げ、太陽が西の山並みへと傾き、日没が近づいた刻限。

魯粛の怒号が、張り詰めた沈黙を破った。

「石灰を蒔けッ! 黒き布が完全に見えなくなるまで、厚く、一律に蒔くのだッ!!」

輜重船から陸揚げされ、油紙の包みから解かれた大量の石灰が、兵たちの手によって黒布の上へと一斉にぶちまけられた。

白。数瞬前まで陽光の熱を孕んでギラついていた漆黒の地平が、見る間に純白の粉雪に覆われたかのように塗りつぶされていく。幅七里、長さ二十四里の「白き世界」が長江の縁に出現した。

そして、ついに陽が完全に沈み、長江が夜の闇へと突き落とされたまさにその瞬間、孔明の最終命令が執行された。

「水をかけよッ!!」

 

沿岸に配された数千の兵たちが、長江から汲み上げた冷水を、その白き地平へと一斉に浴びせかけた。

水が石灰の粉末に触れた、その刹那、孔明の仕掛けた「第二の理」が発動した。

水を得た石灰は、人知を超えた壮絶な化学反応――煆石灰(かせっかい)の消化熱を爆発させたのである。

ジュウゥゥゥゥ、ゴウゴウと激しい音を立ててもうもうたる水蒸気が立ち昇り、地表の温度は瞬く間に摂氏百度の沸点を軽く超えた。幅七里、長さ二十四里におよぶ巨大な白き地平そのものが、長江の南岸に出現した「超巨大な、巨大な火床(ひどこ)」と化したのである。

この地表の異常な熱量が、周囲の冷たい大気を、一瞬にして猛烈に膨張させた。

軽くなった大気は、数条の竜巻のような勢いで、天に向かって真っ直ぐに立ち昇り、目に見えぬ「巨大な熱の柱(上昇気流)」へと変貌した。南岸の地表付近の空気が、一瞬にして天へと吸い上げられたのである。

 

軽くなった空気が上昇し、気圧が極限まで下がった南岸の地表の空間(局所的低気圧)を埋めるべく、物理の理に従って、背後の山々から、冷たい大気が激しい勢いで低気圧の中心へと駆け下りてきた。ここにおいて、孔明の「第三の理」が完成を迎えた。

これこそが、孔明の呼び寄せた風の正体であった。

最初は真南から湧き上がった大気の奔流。しかし、それが長江の水面を北へと渡る際、地球の自転がもたらす偏向の理――見えざる転向力(コリオリの力)によって、風の軌道は右へと、美しく歪められていった。孔明は、この星の自転の理すらも、あらかじめ自らの算術のなかに完全に組み込んでいたのである。

歪められた風は、完璧な軌道を描く暴風――真冬には絶対に吹くはずのない、狂暴なまでの「西南の風」と化して長江を渡り、北岸、曹操軍の船団に向かって一直線に吹き抜ける、不敵な突風となった。恒常の北風を完全に力技で叩き潰し、長江の気流を逆回転させたのである。

 

七星壇の麓、その風の暴風の中に立つ周瑜は、自らの髪を激しくなびかせる西南の風に、ただただ言葉を失って戦慄していた。奇門遁甲という神術の皮を被った、これが諸葛孔明という男が執行した「大自然の理」の全貌であった。

孔明は壇上から静かに歩み下り、風の中で立ち尽くす周瑜の目を真っ直ぐに見据えた。

「大都督。南の天に、巨大な風の穴を開けました。……西南の風は、今、仕上がりました。一刻の猶予もありません。ただちに全艦隊出撃の号令をおかけくださいますよう」

「あ…あなたは…人なのか…?」

周瑜は畏怖と畏敬とが入り混じった目で孔明の目を見つめ、震える声で問うた。

孔明はわずかな微笑を湛えながら、周瑜を再び促す。

「ただちに、です」

周瑜は我に返ると、その瞳に燃えるような人間の執念を宿らせ、腰の宝剣を抜き放って長江の闇へと向けた。

「全軍、出撃ッ! 黄蓋の先鋒船を筆頭に、長江を渡り、逆賊・曹操を長江の藻屑に変えるのだッ!!」

 

江東の英傑たちの喚声が、孔明の呼んだ西南の暴風に乗って、対岸の不浄の王の喉元へと向けて、一気に解き放たれた。

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