ドゴォォォォォォン!
大音響とともに、最前線の旗艦の甲板の一番留め金へ叩き込んだ徐庶の全身全霊の一撃が、船団全体を揺るがす衝撃となって拡散した。
その直後。
キィィィィィィィィィン……
かつて諸葛亮孔明が新野を実験台に万象転生陣を発動させたときに微かに聞こえた細く鋭い高周波音。それと同じ音がした刹那、青白い光のような何かが一番留め金から二番留め金、二番留め金から三番留め金へと、跳躍しながら駆け巡り始めた。
まだ船団の中にあり、奥の幕舎に向けて退避の途上にあった曹操のすぐ横で、その不気味な高周波音を聞いた瞬間に、血の気が引いた顔でガタガタと震え出した者がいた。曹仁の部下にして新野の生き残りでもある牛金と満寵の二人であった。
二人は目を見開き、歯の根も合わぬほどに震えながら、口々に悲鳴を上げた。
「こ、この音は……! 丞相、あの忌まわしい新野の夜、すべてが炎に焼き尽くされたあの瞬間に聞いた、悪魔の羽音と同じにございますッ!!」
「間違いない、あの諸葛亮が用いる呪わしい術の音だ! 丞相、一刻も早くここを離れねば、すべてが焼き尽くされますッ!!」
曹操自身には何が起こっているのかすらまだ把握できていなかったが、彼の築き上げた百万の軍勢は、すでに完全な壊滅へと追い込まれつつあった。一番留め金が吸い込んだかのように見えた火が、二番留め金、三番留め金の裏側に仕込まれた幾何学模様の回路を正確になぞるようにして、次々と爆発的な自然発火を起こした。鉄鎖を狂ったような速度で駆け巡る黄金の波紋の循環と、それに伴う凄絶な金属の熱上昇とが相まって、火は一瞬にして船団全体を完全に包み込んでいく。
船団で発生した大火災は、長江の水面だけに留まらなかった。孔明の呼んだ西南の風に煽られた火の粉と猛烈な熱風は、対岸の陸地へと容赦なく降り注ぎ、烏林の沿岸に築かれていた曹操軍の兵舎、輜重倉庫、そして広大な陣地のあらゆるところに一瞬で飛び火して燃え広がった。
肉体が炭化していく屍生人たちの異臭と、人外としての再生能力を波紋の熱によって内側から破壊され、生きたまま灰と化していく怪物どもの絶叫が夜空に木霊する。烏林の大地は、文字通り阿鼻叫喚の地獄へと変貌していった。
その巨大な炎の檻に閉じ込められ、逃げ場を失った曹操一行は、燃え盛る旗艦の崩落に巻き込まれかけていた。
「丞相、こちらへッ!!」
牛金が炎の中に割って入り、身を挺して燃え盛る梁を叩き折る。火傷と波紋の熱に皮膚を焼かれ、咆哮を上げる夏侯惇が、その圧倒的な力技で炎の壁を強引に引き裂いた。人外の眷属たちの凄絶な怪物としての腕力と、程昱が差し向けた知性のない屍生人たちを肉の盾として炎に投げ込む冷徹な使い潰し。これらすべての異常な手段を尽くしたことで、曹操一行は燃え盛る船団という死地から、文字通り傷を負いながらも辛くも陸地へと脱出することに成功したのである。
曹操たちが烏林の泥土を踏みしめた時、長江の水面からは、勝利の歓声を轟かせる呉軍の船団が次々と上陸を開始していた。
「逆賊の息の根を止めよッ! 生き残りの兵どもを一人残さず打ち据えろ!!」
霧と炎を突っ切って躍り出た江東の英傑たちは、大火災によって大混乱に陥り、組織的な抵抗力を完全に喪失した曹操軍の敗残兵たちを、容赦なく一方的に叩き伏せていった。陸地に上がった呉軍の追撃の前に、曹操の軍勢はなす術なく、四散して逃げ惑うほかなかった。
しかし、その敗走の道すらも、あらかじめ人間の理によって完璧に塞がれていた。
曹操が命からがら烏林の煙る小道へと逃げ延び、江陵を守る曹仁の元へとひた走ろうとした、その時である。
闇の中から、突如として無数の火矢が放たれ、劉備軍の伏兵たちが姿を現した。
「我が名は趙子龍! 逆賊・曹操、ここを通ることは許さぬッ!!」
林の小道に身を潜めていた趙雲の軍勢が、退路を塞がれて狼狽する曹操たちへ向けて怒濤の如く襲いかかった。まだ敗戦の現実を受け入れられずにいる曹操を、伏兵たちは散々に叩き、追い詰めていく。曹操を守るために牛金たちが必死に刃を交えるが、火傷と波紋傷によって人外としての能力が極限まで激減している曹操軍の将兵にとって、万全の状態で待ち受けていた劉備軍の急襲は、まさに骨の髄まで凍りつくような絶望であった。
――時間は、少し遡る。
呉軍の全水軍が長江を渡り始めた直後。
南屏山の七星壇での祈祷のフリを終えた諸葛亮孔明は、周瑜に全軍の総攻撃を進言すると、あらかじめ用意させていた隠密の小舟に乗って、長江南岸の隠れ港である「樊口(はんこう)」へと移動していた。
夜陰に紛れて樊口の幕舎へと足を踏み入れた孔明は、その傍らに、北岸から救い出し、自らの波紋の息吹によって無事に仮死状態から目覚めさせた、劉備の二人の愛娘を伴っていた。
「……お父上ッ!!」
二人の娘が幕舎の奥へと駆け込んだ瞬間、そこにいた劉備は、我が目を疑うように立ち上がった。
「おお……無事であったか! お前たち、本当によくぞ……!」
虎豹騎に寝込みを襲われ、曹純に捕らわれたあの夜以来、二度と生きては会えぬと自分に言い聞かせていた我が娘たちが、傷一つなく目の前に戻ってきたのである。劉備は二人の娘を強く抱きしめ、その目から大粒の涙を流した。劉備は、娘たちを連れてきてくれた孔明へ向けて、深く深く頭を下げた。
「軍師……感謝の言葉もない。先生のおかげで、我が血脈は繋がった」
「私ではありません、主公。彼女たちを命懸けで救い出し、ここまで送り届けてくれたのは、北岸にいる元直にございます」
「元直……一度ならず二度までも……かたじけない……」
孔明の言葉に劉備は胸を突かれ、古い臣下の変わらぬ忠義に声を詰まらせながら腰の撃剣の柄を強く握りしめた。
娘たちとの涙の再会に、幕舎の中が温き安堵の空気に包まれる。
孔明は再会の余韻を断ち切るように、羽扇を鋭く一振りし、待機していた諸将の前へと進み出た。娘たちの口から「陣は成った」という元直の伝言をしかと受け取っていた孔明は、北岸の連環船が巨大な炎の檻に変わっていることを確信し、ここで一気に、曹操の息の根を止めるための冷徹なる軍令を下し始めた。
「趙将軍、貴殿はただちに烏林の林の小道に伏せ、煙を燻らせて敗走してくる曹操を急襲なされよ」
「張将軍、貴殿は葫蘆谷の険路に伏せ、雨と泥にまみれた敵の不意を突き、その残兵を焼き払いなさい」
「関平、劉封。貴殿らは長江沿いの退路を完全に遮断し、曹操の敗残兵を退路のない華容道へと強引に追い込むのです」
諸将が「ははッ!」と力強く応じ、それぞれの正義を胸に、一斉に樊口の幕舎から闇の中へと飛び出していった。
しかし、すべての命令が下され、諸将が去っていった後も、孔明は関羽にだけは一切の任務を与えようとしなかった。関羽は一歩前に進み出、その重厚な声を響かせた。
「軍師。関某には、どこの地を守れと仰るか」
孔明は関羽の真っ直ぐな、しかし重い宿縁を孕んだ瞳を見据え、冷酷とも言える声音で、ただ一言の命令を叩き込んだ。
「関羽殿。貴殿は、この樊口の陣営に留まり、静かに『待機』なされよ。……出撃は、一切許しません」
ほんの少し前までの喧騒が嘘のように静まり返った樊口の幕舎。孔明は、一人その場に留め置かれた関羽を残し、劉備に向かって言葉をかけた。
「では主公。我らは周瑜織りなす大水上戦を見物とまいりましょう」
孔明の言葉に劉備も頷き、二人は近くの高台へと出かけていった。長江の水面で繰り広げられる、歴史的な一大水上戦をその目で見届けるためである。
一人、誰もいなくなった樊口の陣営に、出撃を一切許されぬまま留守居を命じられた関羽が取り残された。
静寂が支配する天幕の中で、関羽はただじっと、傍らに立てかけた青龍偃月刀を凝視していた。その胸中には、かつて曹操から受けた、武人としての最大級の礼遇の記憶が重く、深く去来していた。建安五年(西暦二〇〇年)の秋、強硬に五関を突破しようとした自分たち一行を、あそこまで大切に、寛大に見送ってくれたあの男の温情。
関羽は深く息を吐くと、自らの武人としての義理に突き動かされるようにして、青龍偃月刀を固く握り締めた。孔明の軍令を完全に無視し、深夜の樊口を密かに脱走して、曹操の敗走路へと向けて赤兎馬を駆ったのである。
一方、北岸の烏林から江陵の城を目指し、雨と泥濘にまみれた地獄の険路――華容道を進む曹操一行の敗走は、凄絶を極めていた。
赤壁の本戦において万象転生陣の波紋傷と大火傷を負った曹操は、人外の王でありながら、その超常的な治癒能力と膂力を極限まで破壊され、やわな人間以下の満身創痍の肉体へと成り下がっていた。
丸二昼夜におよぶ過酷な行軍の中、一行は最低でも一度、致命的な毒である「日の出から日没までの十時間」を生き延びねばならなかった。
だが、孔明の放った生石灰反応による熱蒸気と船団が燃える猛烈な黒煙とが長江の上空で交じり合い、太陽の光を完全に遮断する不気味な暗雲を作り出していた。さらに牛金たちは、華容道の底なし沼の粘土質の泥を曹操の全身に分厚く塗りたくり、長江に漂っていた「死体の筏」の残骸から剥ぎ取った粗末な筵を何重にも被せて、直射日光からその肉体を守り抜いた。
確かに惨めな敗走であったが、黒煙、濃霧、死体の筏など、すべての不条理な運の重なりが、皮肉にも曹操を生き延びさせていた。人外と言えど、まさに王の王たる所以であった。
それでも、背後からは容赦のない追撃が次々と押し寄せていた。葫蘆谷の険路では、突如として闇を切り裂く喚声とともに張飛、関平、劉封らの軍勢が泥にまみれた曹操軍の残兵へと襲いかかり、退路を断つための激しい火の手を上げた。これら度重なる執拗な急襲を浴び、夏侯惇や牛金たちが周囲の敵を引き離すために散り散りとなって戦うなか、曹操の周囲は、ごく僅かを残すのみとなっていた。
敗走を始めてから二日目の夜。ようやく華容道の最奥へと辿り着いた曹操は、激しく息を切らせながら辺りを見回し、突如として哄笑を上げた。
「ハハハハハッ、ハハハハハハハッ!!」
周囲の満寵らが狼狽し、縋るように問いかける。
「丞相、何がそんなにおかしいのですか? このような死地にあって……」
「いやなに、孔明や周瑜が天下の知恵者とはやし立てられているが、余からすれば大したことはない。このあたりの地形を見よ。左右は切り立ち、道は狭隘。ここにほんの僅かでも兵を伏せられたなら、我らはもはや降参するしかあるまいに。こんな手抜かりをやるようでは、このたびの赤壁での戦いも、奴らにとってはただの偶然の勝利とみたわ!」
曹操が傲然言い放ち、人間の浅知恵を嘲笑った、まさにその時であった。
闇の奥から、静かに、しかし冷徹極まる男の声が響き渡った。
「いや……これでよい。孔明はやり切った。これでよいのだ……」
「何やつ!?」
曹操が血走った眼で闇を睨み据えた瞬間、泥濘の影から、一人の戦装束の偉丈夫が音もなく姿を現した。覆面を外し、曹操への烈火の如き怨念の瞳を爛々と輝かせた男――徐庶であった。
孔明の「華容道はあえて開けておく」という思考を完璧に読み切っていた徐庶は、誰よりも早くこの最奥の地に先回りし、不浄の王を仕留めるために隠れ伏していたのである。
「徐庶……貴様、あの炎の中で生きていたか……!」
「……これ以上の言葉は不要。曹操、貴様の喉元にこの拳を突き立てるためだけに、私は生きて戻ってきた」
徐庶の腰には剣があったが、今の曹操を前にして彼が選んだのは、その一振りを引き抜くことではなかった。
完全消滅。曹操の細胞一つすら残さない、全身全霊の波紋を叩き込むことによる完全消滅以外に選択肢はなかった。徐庶は、石仮面により命を落とした親友の石広元とその従兄弟石忠、そして吸血鬼曹操とその眷属らに命を奪われた多くの無辜の民の無念のすべてをその指先へと集中させ、両の拳に地上最高密度の黄金の波紋を極限まで練り込んだ。
「おおおおおッ!!」
徐庶の怒濤の如き拳打が、能力の減衰した曹操の肉体へと容赦なく叩き込まれた。一拳、一拳が突き刺さるたびに、曹操の不浄の肉体は内側からパチパチと太陽の波長によって激しく炭化し、人外の王は泥にまみれて惨めな悲鳴を上げた。曹操の命の灯火が完全に消えかけ、徐庶がとどめの一撃を振り下ろした――その刹那。
ガキィィィィィィィン!
凄絶な金属音とともに、闇から躍り出た関羽の青龍偃月刀の重厚な刃が、徐庶の放ったとどめの一拳を強引に阻み、弾き飛ばした。
息を切らせて駆けつけた関羽の目には、その凄惨な現場が、「無抵抗で弱り切った曹操の首を刎ねもせず、素手で一方的に嬲り殺そうとしている」という、武人の礼を完全に失った非道な行いに映ってしまった。
「これほどの深手を負った者を、刃も交えず素手でいたぶるとは……。これのどこが武人の戦か! 徐先生、正気を持てッ!!」
誇り高き関羽は、自らの激しい誤解、非武道的な振る舞いを見過ごせぬという烈火の如き義憤によって、徐庶の前に毅然と立ちはだかった。さらにその根底には、かつて曹操から受けたあの建安五年(西暦二〇〇年)の恩義を、ここで軍令を破ってでも返さねばならぬという、関羽自身の「義」の呪縛があった。
「邪魔をするな、関将軍!! 貴殿は何もわかっていないッ! この男がどれほどの不浄の化け物か、貴殿は何も知らんのだッ!!」
徐庶は血を吐くような思いで叫んだが、関羽はその青龍偃月刀を微塵も動かさず、冷徹に徐庶の前に立ちはだかり続けた。二人の人間の「怨念」と「義」が、最悪の形で噛み合って膠着する。
そして、その一瞬の隙。無惨に引き裂かれ、炭化しかけていた曹操は、泥にまみれながら、必死の執念で北の闇の向こうへと這いずり、逃げ去ってしまった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
あと一歩のところで積年の怨念を逃した徐庶の、胸を掻きむしるような絶望の咆哮が、夜の華容道に虚しく響き渡った。
後に残されたのは、復讐を阻まれた徐庶の凄絶な絶望と、軍令を破ってまで己の義を貫き通した関羽の、重苦しい沈黙だけであった。
(第八章・完)