廃観の空気は、凍りついたように静まり返っていた。
老仙人の石像を祀る祭壇の背後、湿った闇の中に潜んでいた石忠は、自らの心臓の鼓動が、静寂を切り裂く警鐘のように響くのを感じていた。
(……やるしかない。ここで二人を捕らえねば、故郷の親に届ける薬は、二度と手に入らない……ッ!)
石忠は、震える手で「それ」を顔に当てた。
先ほど祭壇の隅で偶然手に触れた、冷たく、重い石の塊。数百年の埃に塗れた石仮面は、あたかもこの瞬間を待っていたかのように、吸い付くような冷徹さで彼の肌に馴染んだ。
「……よし。これで俺だと悟られずに済む」
石忠は、布帯で仮面を頭部に固く括り付けた。
仮面の裏側には、何らかの意図を持って穿たれた微細な穴が潜んでいたが、暗闇の中、死に物狂いの彼がその不気味な意図に気づくはずもなかった。
「……お前らッ!!」
闇を割って、石忠が躍り出た。
「なっ……何奴だッ!?」
眠りに落ちる寸前だった単福が、弾かれたように跳ね起き、広元から渡されたばかりの撃剣へと手を伸ばす。
「動くなッ! 二人とも、大人しく縛り上げられろッ!!」
石忠は、自分の声が仮面の中で反響し、異質な唸りとなって響くのに戸惑った。彼は短刀を突き出し、広元の喉元へと迫る。単福に剣を抜かせぬための、人質という名の「脅し」だ。
だが、単福の反応は、石忠の想像を遥かに超えていた。
捕まれば死――その極限状態で研ぎ澄まされた単福の感覚は、相手が「誰か」を判別するよりも早く、その殺気に過敏に反応した。
シュンッ!!
抜刀の音さえ置き去りにする、電光石火の一閃。
単福の撃剣が、闇を切り裂く銀光となって、短刀を持つ石忠の右手を薙いだ。
「あ、が……あああああああッ!!」
鋭い斬撃。
石忠が事態を把握するより先に、彼の右手の指が、根元から三本、宙へと舞った。激痛が脳を焼く。それと同時に、欠損した断面から、煮えたぎるような鮮血が噴き出した。
ピチャッ……。
運命の悪戯か。それとも、この廃観をかつて拠点としたという「闇の巨神」たちが仕組んだ呪いか。噴き出した鮮血が、石忠の顔を覆う石仮面の頬に、べっとりと付着した。
その瞬間。
ファァァゴォォォォッ!
闇の中でもはっきりと、石仮面が不気味な燐光を放つのがわかった。血液という名の鍵を得て、数百年の眠りから石仮面が目覚めたのだ。
ドスッ! ドスッ! ドスッ! ドスッ!
間髪入れず、仮面の裏側から、生き物の節足のような「骨の針」が十本近く突き出し、石忠の頭蓋を、脳を、生命の深淵を貫いた。
「な……なんだ、その面はッ!?」
単福が目を見開く。
骨の針は、人間が決して触れてはならない脳の「生命のスイッチ」へと突き刺さっていた。脳漿が不浄にかき回され、神経系が未知のエネルギーによって再構築されていく。
ズキュゥゥゥゥン!!
石忠の全身が、弓なりにしなった。眼球の裏側で火花が散り、視界が真っ赤に燃え上がる。
彼は感じていた。指を失った絶望が、肉体が崩壊する恐怖が、瞬時にして「底なしの飢え」と「溢れ出す破壊衝動」へと書き換えられていく感覚を。
「……あ……が……あ…………」
骨針が再び仮面の内側へと収納され、重量を支えるものを失った石仮面は、石忠の足元に力なく転がり落ちた。
そこにいたのは、もはや単福たちが知る、親の病に涙する心優しい石忠の顔ではなかった。
肌は死人のように青白く透き通り、瞳は血の色に爛々と輝いている。
そして、切り飛ばされたはずの右手の傷口からは、不気味な肉の触手が蠢き出し、瞬時にして失われた指を「再生」させていた。
「……なんだ……これは。……不思議な気分だ……」
怪物は、自らの新しく生えた指を眺め、悦悦とした笑みを浮かべた。
「……腹が……減った。……気が狂うほど、飢えているんだッ!!」
不浄なる「吸血鬼」の誕生。
廃観の空気は、一瞬にして、捕食者と餌食のそれへと塗り替えられた。