東征の前線、寿春の行在所(あんざいしょ)には、骨の髄まで凍りつくような死の気配が満ちていた。
曹操の孫権討伐軍に無理やり帯同させられ、心身ともに病床に伏せっていた荀彧の元へ、主君である曹操からの使者が訪れ、食饌(しょくせん)を収めた漆塗りの器を届けていった。
食饌とは、主君が自らのために調えさせた最高級の料理を、最も信頼する重臣へと分け与えるための、特権的な御膳である。曹操は官渡の戦いよりも遥か以前に吸血鬼化していたが、他者の血を吸うだけでは人体の構成成分を完全には維持できぬため、表向きの肉体を保つべく通常の食事も欠かさず行っていた。
かつて官渡の戦いをはじめとする数々の大戦において、曹操が荀彧の智謀を天下に誇示し、その絶対的な信頼を証明するために、数年に一度だけ夕暮れ時に前線で振る舞ってきた至高の名誉の食事。それがこの食饌であった。
だが、病床の荀彧の前に置かれたその重箱は、かつての温かな栄誉の輝きを失い、不気味な死の気配を纏っていた。
荀彧が震える指先でその重々しい蓋を開けた瞬間、その瞳は絶望に染まった。
重箱のなかは、三段のすべてが、不気味なほど完全に「空」であった。
「……お前に食ませる禄はない」
それは、人間としての最後の一線を越え、完全に人外の王となった曹操からの、冷徹極まる絶縁状であり、事実上の死刑宣告であった。正直に空だと言えば主君の不手際を謗った罪になり、中身があったと嘘をつき通せば主君を欺いた罪になる。どちらを選んでも死罪となる、退路を完璧に断たれた不条理な罠。荀彧は、かつて志を同じくした友の変わり果てた冷酷さを悟り、ただ静かに、自らの運命を受け入れるように目を閉じるのであった。
同じ夕暮れ時――許都の丞相府の地下深く、光すら届かぬ最奥の暗闇において、極秘の軍令が執行に移されようとしていた。
発信主は、前線の寿春にいる軍師・程昱である。その冷酷な軍令に応じるように、重厚な石の壁の向こうに四年間繋がれていた一人の男が、ついに解き放たれた。曹純であった。
表向きは病没したことになっていた曹純は、暗く冷たい地下環境の中で四年の歳月を経過したことで、かつて過剰に投与された不浄の死血に、時間をかけて肉体を完全に適合させ、人外としての凄絶な超進化を遂げていた。
光を一切反射せぬ黒曜石の如き漆黒の結晶肌。その異形の相となった曹純は、夜の闇に紛れて許都の地下牢を這い出た。
そのまま城外へと歩を進め、寒風吹きすさぶ、暗い街道へ躍り出ると、一昼夜に三百里を駆ける虎豹騎の最強の軍馬の背肉へ跨った。その刹那、曹純の下半身がズルズルと潜り込み、落馬の概念すら無き不気味な人馬一体――いわゆるケンタウロス態となって、漆黒の闇の向こうへと怒涛の速度で疾駆していった。名臣を確実に屠るための人外の処刑人が、ついに前線へ向けて出発したのである。
同じ刻限――司馬懿の邸宅ではいつもの通りの稽古が行われていたが、徐庶の心はここになかった。ここに向かう道すがら、文学掾である司馬懿が、徐庶を伴って歩きながら、周囲に聞こえぬよう極めて声音の調子を落として語りかけてきた、その内容ゆえであった。不敵な笑みを浮かべながら司馬懿が語ったのは、
「行軍に随行した荀彧殿が、前線の寿春で消されるらしい。死んだはずの曹純殿まで駆り出すようだ。いずれにしても、大掛かりなことよ。……確かあの方の生まれは潁川。徐庶、貴様も潁川の出であったな。一回り歳は離れているものの、あちらは名家の名士。もしかして面識があるのではないかと思ってな」という丞相府の最高機密だったのである。
数えで五つの長男・司馬師には、正しい呼吸を整えさせた後に撃剣の功夫を授け、数えで二つの次男・司馬昭には、その小さな胸に直接手を当てて正しい呼吸の律動を教え込む。その手を動かしながら、徐庶の脳裏には、二十三年という時を遡る鮮烈な走馬灯が駆け巡っていた。
建安十七年から遡ること二十三年前、永漢元年(西暦百八十九年)、少帝が廃され、献帝が不条理に即位させられた激動の年。数えで十五であった少年・単福(徐庶)は、故郷である潁川の私塾にて、一人の若き俊才の背中を見つめていた。
中央の朝廷で早くから将来を嘱望されながらも、暴虐の王である董卓が権力を握ると、その限界といずれ訪れる乱世をいち早く見抜き、未練なく官を捨てて帰郷した名士――荀彧である。
若くして天を突くほどの智謀と、不条理を拒む正義感を併せ持ち、まさに「英明果断」と称すべきその若き俊才の教えを請おうと、近隣からは多くの若い書生らが彼の元を訪れており、単福もその一人であった。
数か月の教えの後、荀彧は周囲の楽観を冷徹に突き崩し、「ここは四戦の地となる、すぐに避難せよ」と疎開を説き始める。信じない者が多かったが、単福の一家は荀彧の先見の明を信じ、荊州方面へと早くに避難した。果たして故郷・潁川は董卓配下の李傕らの軍勢に襲われ、残った人々は悉く惨殺・略奪の地獄に沈んだ。単福と母は、荀彧の言葉を信じたからこそ、最初の地獄を生き延びたのである。
しかし、荊州での避難生活も困窮を極め、母が病に倒れてしまう。その窮地を無償の薬で救ってくれたのが、同じく荊州へ避難していた親友・石広元の叔父、石徳であった。石徳の薬で母は奇跡的に回復し、その後、董卓が殺されたことで、単福の一家は石の一族と共に潁川へ戻り、単福は恩返しのために石徳の薬屋を手伝うこととなる。それが、あの仇討ち、大恩ある石徳の愛した薬草(徐長卿)の名を胸に刻み、石仮面の闇と戦うために自ら「徐庶」という名を名乗るに至る、すべての原点であった。
(あの時、あの方に救われた命だ。今こそ、この命を懸けて守る義理がある……)
徐庶の心の乱れを、司馬懿の鋭い観察眼は見逃さなかった。
司馬懿は、徐庶と荀彧の間に浅からぬ因縁があることを完全に悟った。稽古を終え、陽も暮れた門での別れの際、司馬懿は徐庶の目をじっと見据え、冷徹に言い放った。
「荀彧殿を救うのか、それともお前の母親を救うのか。どちらか肚を決めることだな」
徐庶は司馬懿を一瞥するも、何も語らず、役人に引き連れられて牢へと戻った。
その翌朝、地下牢の中庭にある隔離施設での、母への波紋治療の刻限。
徐庶はどこか考え事をし、少し塞ぎ込んでいた。己の引き裂かれそうな苦悩を必死に隠そうとする徐庶であったが、波紋によって人間の正気を留めていた母の前では無駄であった。
さらにその翌朝、努めて平静を装うも、明らかに口数が少なくなっている我が子の姿を見て、母の澄んだ瞳はすべてを察した。
「もういい、やめて。……福」
母は、拒絶しつつも優しく微笑んだ。
「私はもう十分に生きた。お前がどこかに行かなければならないことくらい、この母にはわかります。お前のことだ、誰かの命にかかわることなのでしょう? ならばそちらへ向かいなさい。孝は大事だが、義理の方がもっと大事。そんなこともわからない大人に育てた覚えはありませぬ。さぁ、早くお行きなさい。間に合わなかったらどうする? 私は犬死ではないかえ?」
激しい葛藤に襲われ、徐庶は血の滲むような思いで身悶えした。そんな我が子の姿をじっと見つめ、母は静かに言葉を続けた。
「最後に福、一つだけ頼みがある。私は化け物になって生き続けるなど、まっぴらごめん。どうかお前の手で終わらせておくれ」
母の気高い最期の命令であった。徐庶は涙を振り絞り、震える手で母の胸に手を当てる。そして、心臓の鼓動を優しく密着させて止める「くっつく波紋」だけを流し込んだ。母は、苦しむことなく、人間としての美しい微笑みを湛えたまま、静かに息を引き取った。
母の手元には、チベットでの修行を終え、下山する折、免許皆伝の証として師父から授かった外套を、数年の歳月をかけて糸にほぐし、強固に編み直した、長さ六条に及ぶ波紋の鞭(むち)が遺されていた。徐庶が建物を出ると、そこにはすべてを察していた司馬懿が冷徹に待っていた。
「決心がついたようだな」
徐庶は司馬懿を見ようともせず、うつむいたまま牢へと戻った。
しばらくして、司馬懿が地下牢へ一束の木簡を携えて下りてきた。前線の程昱が許都に残していった本物の署名入り白紙木簡を密かに盗み出し、司馬懿が完璧な筆跡模写で偽造した、徐庶の「極秘移送命令書」であった。
そこには、『最高軍師の荀彧殿危篤。命を繋ぎ止めるため、徐庶の波紋が必要。大至急、徐庶を寿春まで護送せよ。護送任務は派遣した特務部隊に担わせるべし。城外に出るまでの検問その他は便宜を図るべし。尚、危篤は最重要機密につき、口外不要、確認次第この木簡は直ちに焼却廃棄せよ』と記されていた。
司馬懿は、前線からの至急の軍令であると称し、冷酷な官僚の仮面を崩さぬまま、一切の反論を挟ませぬ圧倒的な規律を盾に看守長を完全に威圧した。
徐庶は司馬懿が仕立て上げた偽の特務部隊に引き立てられ、地下牢を出た。木簡の指示通り、城外に出るまでの検問その他は便宜が図られ、許都の城門を通過した。
許都の郊外、人気の絶えた街道の影で、一頭の快速馬を引いた司馬懿が待っていた。
司馬懿は馬の手綱を徐庶へと放り投げ、冷淡に告げた。
「お前の母親を懇ろに弔うよう、下知しておいた。……曹純は二日前に出立したそうだ。何せ一晩で長坂の三百里を駆けたとされる化け物、果たして追いつくかどうかもわからんが…荀彧殿を救うか、あるいは共々に人外の胃袋に収まるか……好きにするがいい」
司馬懿の口元に、彼らしいひねくれた笑みが浮かぶ。声の調子を潜め、冷徹に囁いた。
「だが徐庶、勘違いするな。我が息子たちの呼吸の理は、まだ半分も仕込みきってはいないのだ。ここで貴様に死なれては、私の投資がすべて無駄な大赤字になる。……この月謝の前払い分、必ず我が司馬の血脈に報いてもらうぞ、徐庶」
徐庶は母の形見である六条の鞭を懐に抱き、馬の背に飛び乗った。
「……恩に着る、とは言わんぞ、司馬懿。だが、必ず生きて戻る」
すでに、処刑人として超進化した化け物、曹純は、二日前に許都を発っていた。
日光を直接浴びる昼間の移動だけは絶対に不可能という吸血鬼の制約を背負いながらも、夜間、馬と融合した超常の速度で漆黒の街道を疾駆する曹純。
対する徐庶には、人間の生命力の限界を越えた呼吸法があった。
二日の遅れを、昼も夜も関係なく、二十四時間ぶっ続けで馬を駆り続ける「昼夜兼行」の強行軍で削り落としにかかる。許都から寿春まで、千里(四百キロメートル)。
蹄音が、夜気を裂く。
恩人の命を救うため、そして人外の牙を砕くため。徐庶は漆黒の街道を、一陣の熱風となって激しく駆け抜けるのであった。