「……次は、お前だ……。単福……」
怪物の足元には、枯れ木のように痩せ細った広元が横たわっていた。喉笛を裂かれ、生命の奔流をすべて奪い去られた親友の瞳には、もはや一欠片の光も残っていない。
「……美味い。……美味いぞ、単福ッ! ……命を直接喰らうという感覚が、これほどまでに脳を痺れさせるとはッ!」
血色の良い、しかし死人のように滑らかな肌。そこにはかつての、親の病に怯えていた気弱な青年の面影は微塵もなかった。そこにいるのは、人知を超える力を得て、残酷な傲慢さに酔いしれる「捕食者」であった。怪物は、動けぬまま横たわる単福に引導を渡すべく、指先を鋭い吸血の爪へと変え、眉間を狙って突き出した。
(……これまでか。……すまない、広元。……石徳様……)
単福は撃剣の刃先を掌に握りしめたまま、静かに目を閉じた。
だが、死の衝撃は訪れなかった。
ピカァッ!
「……!? ぎ……ぎゃああああああああああああああッ!!?」
突如として廃観に響き渡ったのは、耳を劈(つんざ)くような石忠の絶叫であった。屋根の大半を失った廃観の内部に、一条の鋭い光がナイフのように突き刺さっている。
夜明け。
地平線の彼方、万物を等しく照らす「太陽」が、ついにその顔を覗かせたのだ。
(……朝……?)
単福が目を見開くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
その「光」に触れた石忠の右腕が、まるで沸騰した油を浴びせられたかのように激しく泡立ち、黒く変色し、煙を上げながらボロボロと崩れ落ちていく。
「熱い……ッ! 溶ける! 燃える! 太陽に……焼かれるゥゥゥゥッ!!」
石忠は日陰へと逃れようとのたうち回るが、夜明けの進撃は止まらない。崩落した屋根が、かつての聖域を剥き出しの処刑場へと変えていた。光の帯が廃観の床を支配し、触れた箇所から吸血鬼の肉体は塵(ちり)となって霧散していく。再生の速度を遥かに上回る破壊。太陽の光は、不浄なる石忠の生命を内側から食い尽くしていった。
(……太陽だ。……あの輝きが、この怪物を『浄化』しているというのか)
石忠の身体は、最期に一度だけ単福の名を呼ぼうとしたかのように口を動かし、しかしその前にすべてが灰へと還った。
後に残されたのは、凄まじい廃材の山と、怪物に命を吸い尽くされた親友の亡骸。そして朝の風に舞う、虚しい灰の粒子だけであった。
静寂が戻った。
単福は、血を吐きながら広元の遺体を抱き寄せた。
「……広元。……見ていたか。……あいつは、消えたぞ」
冷たくなった親友の頬に、朝日は等しく暖かさを与えていた。単福の脳裏に、かつて薬草を求めて山をさまよっていた際に出会った、未踏の地で独り仙術の功夫(クンフー)に明け暮れる老仙人の言葉が蘇った。
『……太陽の恩恵を呼吸から取り込み、血液の流れで増幅させて身に帯びる功夫でな。高峰そびえる西の地から伝わったという気功の一種とでも言おうか……。三十年修行しているが、これがなかなかに難しくてな……』
老人はそこで空を仰ぎ、昇りゆく太陽を細めた目で見つめた。
『呼吸とは命の律動。人の血が太陽と同じ鼓動で巡るとき、その身は光と同じ力を帯びる――それがこの功夫よ』
別れ際、老人はふと笑い、こう言った。
『まあ、名など覚える必要はない。世の人は――左慈と呼ぶらしいがな』
当時は(莫迦な修行を……)と笑い飛ばした言葉。しかし、「太陽」「増幅」、そして「西の地」という単語が、今、目の前の光景と結びつき、強烈な必然性を持って腑に落ちた。
(……これだッ! これのことだったんだ。太陽を弱点とするものに対抗しうる、唯一の手段……。行くしかない。あの老仙人が語った、高峰そびえる西の地へ。 人を拒む神々の頂に、あの太陽の輝きをこの拳に宿す術があるはずだ)
しばしの休息の後、単福は広元の遺体を巨木の根元に埋葬した。
彼は今や、親友を失った悲しみに暮れるだけの若者ではなかった。いつか現れるであろう「石仮面の闇」からこの大陸を守るための武器を探し出す――その大きな使命感と、まだ見ぬ功夫への希望が、彼の傷ついた胸を熱く満たしていた。
「……さらばだ、単福。……俺は今日、過去を捨てる」
彼は、石徳が邪気を払い、心を鎮めると信じて慈しんでいた薬草、徐長卿(じょちょうけい)の名から一字を取り、自らの姓とした。
そして、あの廃観を焼き払った太陽の如く、あまねく(庶)世界を照らす光の楯となることを誓い、自らを「徐庶(じょしょ)」と名付けた。
背負うべきは、亡き友の遺志と、自らの名に刻んだ光の宿命。
「……徐庶。……俺は今日から、徐庶元直(げんちょく)として生きる」
青年は一度も振り返ることなく、西の空、神々の住まう頂を目指して歩き出した。
(第1章・完)