第二章:世界の屋根、黄金の呼吸(波紋功)
徐庶元直は、吹き荒れる熱風に煽られ、刻一刻と形を変える砂の壁を見上げていた。
初平四年(西暦一九三年)。中原の動乱を捨て、西の果て、世界の屋根を目指した彼の旅は、想像を絶する「呼吸との戦い」であった。
敦煌の関門を越え、タクラマカン砂漠の縁を辿る道中。太陽は慈悲なく地表を焼き、大気はすべての水分を吸い尽くして、乾ききっている。肺腑に吸い込むたびに、大気は鋭いナイフとなって喉と気管を切り裂き、体内の潤いを奪い去っていく。
「……はあ……はあ……。まだだ……。まだ倒れるわけにはいかないッ!」
徐庶は、石徳の形見である生薬「徐長卿」の乾いた根を、ボロボロになった麻布に包んで鼻に押し当てていた。わずかに漂う清涼な香りが、熱に浮かされ、狂いそうになる意識を辛うじて現世へと繋ぎ止める唯一の錨であった。
この灼熱の地獄で徐庶が学んだ最初の教訓は、「人間は、呼吸する機械である」という冷徹な物理的事実だった。
砂漠の熱砂の中では、浅く速い呼吸は、体内の水分を蒸発させ、即座に生命力を枯渇させる。徐庶は生き延びるために、無意識のうちに自らの歩幅と心拍、そして肺の拡張を同期させる「律動」を模索し始めていた。
一歩、深く吸う。三歩、息を止めて圧を高める。そして一歩、静かに吐き出す。
それは武芸の型というよりは、死の淵で掴み取った、剥き出しの「生存の法則」であった。
だが、砂漠という炎の試練を抜けた彼を待っていたのは、さらに過酷な「真空」の世界であった。
パミール高原。
見上げる空の色は、中原のそれとは根本から異なっていた。吸い込まれるような、底なしの濃紺。
標高が上がるにつれ、大気は薄く、冷たく、そして明確な「拒絶」の意志を帯び始める。
一歩進むごとに、酸素を求めて悲鳴を上げる心臓が肋骨を突き破らんばかりにのたうち、酸素不足に喘ぐ脳は、こめかみを巨大なハンマーで叩かれるような激痛に支配された。
(……空気が、足りない……。肺が……動かない……ッ!)
徐庶は岩場に膝をついた。
目の前には、万年雪を頂いた峻厳なる峰々が、神々の指先のように天空を突いている。
そこは、本来人間が踏み入るべきではない神域。だが、石徳が殺され、広元(こうげん)が喰らわれ、自らが死を覚悟したあの廃観の闇を思えば、この酸素の欠乏、肺を刺す冷気さえも、まだ「生きている証」に過ぎなかった。
その時である。
移動によって見える岩肌の角度が変わったためか、風化した石窟の壁に刻まれた、奇妙な浮彫(レリーフ)が目に入ってきた。
それは異国の宗教の悪神だろうか。人らしきものを丸呑みしようとするそれは、異質で異様な『三人の巨神』の姿であった。
(……人を喰らう。……命を喰らう……)
徐庶はその禍々しい意匠から目を逸らさなかった。自分が今ここにいる理由。それは、吸血鬼という不浄を滅ぼす力を得ることに他ならない。
この石の瞳に見下ろされている間も、故郷の中原では闇の力が蠢いているのだ。徐庶はしばし立ち止まってその浮彫を凝視し、己の「怒り」がまだ消えていないことを確かめると、再び一歩を踏み出した。
「……死ねない。……まだ、死ぬわけにはいかないッ!」
徐庶は血の混じった唾を、純白の雪の上に吐き捨てた。
震える足で立ち上がり、さらに高みを見据える。
視界の端、雲海を突き抜けた頂。陽光を弾き返す氷の寺院――「寒氷観(かんぴょうかん)」が、蜃気楼のように揺らめいていた。