パミール高原の希薄な大気が、徐庶の肺を千切らんばかりに締め付けていた。
あれから三日。死線を彷徨(さまよ)うような歩みの末、ようやく辿り着いた氷の寺院――『寒氷観』。
そこで彼を待っていたのは、薄絹一枚を纏い、極寒の吹雪の中で陽炎のごとき白煙(ゆげ)を立てて瞑想する男であった。
徐庶は雪の中に膝をつき、凍えた指先を震わせながら声を絞り出した。
「……中原より……参りました……。太陽の……恩恵を帯びる……呼吸功を……学びたく……」
男は目を開けなかった。だが、周囲の空気が一変するほどの鋭い威圧感だけが放たれる。
「……去れ。ここは己の『死』を見据えぬ者が来る場所ではない。復讐に身を焦がすだけの若造など、この一晩の吹雪で凍てつく屍(しかばね)に変わるのが関の山だ」
「死なら……とうに見てきましたッ!」
徐庶は吐血混じりの雪を噛み、顔を上げた。
「私の内にあるのは、ただの火ではない。……あの日、廃観で親友を喰らい、太陽に焼かれて消えた……石仮面から生まれたあの不浄な『闇』。奴らを討ち果たすためなら、この身が灰になろうとも構わないッ!」
男――二世紀のストレイツォは、その言葉に初めて微かに眉を動かした。彼はゆっくりと立ち上がると、徐庶の前に歩み寄った。その肉体からは、波紋エネルギーの循環による凄まじき熱が放出され、周囲の雪が、触れてもいないのにシュゥゥ……と音を立てて蒸発していく。
「……石仮面と言ったか?……あの石仮面が発動したというのかッ!?」
ストレイツォは徐庶の目を覗き込んだ。そこにあるのは、単なる憎悪を超えた、世界の理不尽に対する激しい拒絶の意志であった。
「いいだろう。だが、お前がその復讐の火を、闇を照らす『黄金の輝き』へと昇華できぬのなら、お前はここで己の血を凍らせるだけだ。……波紋を学ぶということは、自らの器(肉体)を一度壊し、再誕させることに他ならぬ。……まずは、その呼吸を殺す覚悟を見せろ」
「呼吸を……殺す?」
「そうだ。お前がこれまで『生きるため』にしてきた浅い呼吸は、闇の民の前では死を招く欠陥でしかない。肺の隅々にまで酸素を行き渡らせ、血液を太陽の波長と同期させる……。そのためには、一度、その肉体の『器』を壊さねばならん」
ストレイツォは、一切の躊躇なく、徐庶の鼻梁(びりょう)に鉄槌のごとき拳を叩き込んだ。
バキィィィィッ!!
「ぎゃああああああああああああああッ!!」
鼻骨が粉砕される、生々しく嫌な音が脳内に響き渡る。鮮血が雪を赤く染め、劇痛で意識が飛びかける。だが、ストレイツォの手は止まらない。彼はのけ反る徐庶の横隔膜を、今度は指先で深く、鋭く突き上げた。
「叫ぶなッ! その痛み、その鮮血、すべてを肺への『道標(みちしるべ)』に変えろッ! 鼻の孔が歪み、血が溢れる今こそ、大気の奔流を、脊髄の奥底まで直接叩き込むのだッ!!」
激痛のあまり、徐庶の体は反射的に空気を求めて大きく痙攣した。
鼻骨を折られたことで、むしろ鼻腔の奥が強引に抉り広げられたのか。今まで触れたこともない肺の最深部――「肺胞の深淵」へと、氷のような空気が激流となってなだれ込む。
その瞬間、徐庶の心臓が、まるで停止していた機械が火花を散らして再起動したかのように、鐘を突く音を立てて脈動した。
「……あ……はあ……あ……ッ!!」
「そうだ。それが『波紋功』の産声だ。お前の血が、今、初めて太陽と共鳴した」
ストレイツォは、鼻血にまみれて喘ぐ徐庶を見下ろし、ようやく彼を「弟子」として認めるように、闇の真実を語り始めた。
「徐庶よ、ゆめゆめ忘れるな。吸血鬼という種族は、人間を三つの形に仕分けする。
一つは、単なる『食事』。血と命を吸い尽くし、自らの死血を注がず、そのまま腐らせる。
二つ目は、『使役』。自らの死血を注ぎ込み、知性なき『屍生人(アンデッド)』に変える。
そして三つ目が、『適合』。死血を相当量注入し、それに耐えうる強靭な魂を持つ者を『半吸血鬼』として側近に置く。……石仮面で吸血鬼となる者が現れたなら、早晩、この理(ことわり)を理解するだろう。そして人間を『家畜』として管理し始めるのだ」
ストレイツォは、氷の壁に刻まれた、歪んだ肉塊のような不気味な図象を指差した。
「……だが、石仮面の力には、さらに残酷な陥穽(かんせい)がある。波紋なき超活性化は、肉体の『不純な増殖(ガン細胞)』をも無限に肥大させる。……心を制御できぬ者がその力を得れば、最後には己の野心そのものに肉体を食い破られ、人の形ならざる『異形の塊』へと成り果てるのだ」
徐庶は、激痛に震えながらも、その言葉を脳髄に刻み込んだ。
親友を喰った怪物。これから大陸を蹂躙するであろう、石仮面を被りし「闇の王」。それに対抗する唯一の手段は、この砕かれた鼻から吸い込む、黄金の輝きしかない。
「……波紋功を極めた者の血液は、奴らにとっての猛毒となる。……お前の血が太陽の波長を帯びた時、それは奴らの歪んだ細胞を内側から焼き尽くす、究極の拒絶反応を引き起こすのだ」
ストレイツォは、徐庶に一枚の重い鉄のゲートルを投げ与えた。
「……立て。修行は、これからだ。中原へ戻るまで、お前には一日の眠りも、一息の安らぎも与えん」