壁に手をつく。
息を整える。
ポケットに手を入れた。
取り出す。
クラブの2。
トランプを、幽鬼はぼんやり見つめた。
「……取っちゃったな」
別に、欲しかったわけじゃない。
でも、取れたから取った。
それだけだった。
少し考えてから、またポケットにしまう。
白士に見せたら、何と言われるだろう。
たぶん。
「馬鹿か、お前は」
とか。
「余計な面倒を増やすな」
とか。
そんなところだろう。
幽鬼は、小さくため息を吐いた。
あの日から何日経っただろうか。
たぶん、七か八か九日目。
この国に来てから、毎日ゲームに参加していた。
最初は、意味が分からなかった。
でも、少しずつ分かってきた。
この国にはルールがある。
ゲームごとに、性質が違う。
スペード。
ダイヤ。
クラブ。
そして、ハート。
トランプのマークごとに、求められるものが違う。
幽鬼は振り返る。
おとといのゲーム。
会場は、たしか工場だった。
すぺえどのろく。
ゲーム:「ふえおに」
二、三十人規模のゲームだった。
最初に鬼が十人いる。
鬼に触れられると、自分も鬼になる。
ただし。
鬼は五人鬼にすると、人間に戻れる。
ゲーム終了時に鬼だったらゲームオーバー
ルールだけ聞けば単純だった。
走って。
逃げて。
捕まらない。
それだけ。
少なくとも、幽鬼にはそう見えた。
そして、そのゲームでは墨家が異常だった。
速い。
強い。
躊躇がない。
鬼を撒いて。
囮になって。
時には鬼を蹴り飛ばしていた。
「いや、おかしいだろあの人……」
幽鬼が本気でそう思うくらいには、めちゃくちゃだった。
結果、クリア。
墨家さんが大活躍だった。
昨日のゲーム。
会場は、バッティングセンター。
だいやのなな。
ゲーム:「とばく」
これは、正直よく分からなかった。
オッズ。
期待値。
インコース。
アウトコース。
知らない単語が、次から次へと飛び交っていた。
墨家が珍しく、鼻息を荒くしていた。
「おい白士! 今の見たか!」
「期待値が――」
「いや、ここは張るだろ普通!」
やたら楽しそうだった。
だが。
ゲームが進むにつれて、様子がおかしくなった。
途中から。
バッターを妨害したり。
投球を邪魔したり。
挙げ句の果てには、ボールを飛ばすマシンを壊し始めた。
「いや、これ本当にダイヤか?」
幽鬼は本気で思った。
頭脳戦じゃないのか。
なんで最後、物理で解決しているんだ。
結局。
勝ったのか負けたのかもよく分からないまま、クリアした。
白士は平然としていた。
墨家は満足そうだった。
幽鬼だけが、何も分からないままだった。
……ああ、そういえば。
あのゲームには、見覚えのある顔がいた。
このあいだのゲーム。
学習塾――クラブの2のときにいた、あの短髪の女。
男みたいな雰囲気のやつ。
たしか。
「我妻……だったっけ」
名前を思い出す。
あいつ、いたな。
ゲームが終わったあと、会場にはいなかった気がする。
たぶん、途中で死んだんだろう。
我妻の隣には、もうひとりいた。
やけに冷静な女。
生きるか死ぬかの場なのに、妙に落ち着いていた。
まるで。
日常の延長線みたいな顔で、そこに立っていた。
何を話していたかまでは覚えていない。
でも、一つだけ妙に記憶に残っている。
髪の話だ。
最近、髪を伸ばしているとか、そんな話をしていた。
なんでそんなことを覚えているのか、自分でも分からない。
こんな国で。
明日生きているかも分からない場所で。
髪を伸ばすだの、そんな話をしていたのが妙に印象に残ったのかもしれない。
……いや。
待て。
あの子、なんて名前だったっけ。
そこまで考えたところで。
ゴッ。
頭に衝撃が走った。
「痛っ!?」
白士のげんこつだった。
かなり痛い。
普通に痛い。
「おい、聞いていたのか?」
白士が呆れた顔でこちらを見ていた。
聞いていなかった。
「もう一度説明する。よく聞け」
白士は静かに言った。
その声色が、少しだけ重かった。
幽鬼は姿勢を正す。
今度は、本当に聞く。
「最近、妙な噂がある」
白士が言う。
「毎晩、同じ場所がゲーム会場になる場所があるらしい」
幽鬼は眉をひそめた。
同じ場所?
この国のゲーム会場は毎回違う。
少なくとも、幽鬼はそう思っていた。
「しかも」
白士が続ける。
「そこに向かったやつは、誰一人戻ってきていない」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
墨家も、さっきまでの軽い雰囲気を消していた。
幽鬼は少し考えてから、適当に答えた。
「ゲームの準備、面倒になったんじゃないですか」
白士が無言でこちらを見る。
しまった。
ちょっとふざけすぎたかもしれない。
だが。
白士は怒らなかった。
その代わり、静かに言った。
「いや」
短く。
はっきりと。
「多分、何かある」
その声には、確信に近いものがあった。
白士が、少し目を細める。
「重要な何かがな」
幽鬼は、ごくりと唾を飲み込んだ。
白士がここまで断言するのは珍しい。
つまり。
本当に、ただ事じゃない。
部屋の空気が、さらに重くなる。
そして。
白士は、ゆっくり口を開いた。
「今夜、そこへ行く」
幽鬼の心臓が、どくりと鳴った。
その夜。
幽鬼たちは、例の場所へ向かった。
会場は、思っていたよりずっと遠かった。
位置だけ見れば、トチノキ荘の近く――
少なくとも、生活圏内ではあるはずだった。
なのに。
幽鬼には、まったく見覚えがなかった。
通ったことがない。
いや、正確には。
通ろうと思ったことすらない場所だった。
街灯は少ない。
道も狭い。
人通りも、ほとんどない。
周囲に並ぶのは、古びた雑居ビルばかりだった。
どれも小さい。
どれも古い。
どれも、今にも潰れそうだった。
昼なら、まだ違ったのかもしれない。
だが、夜に見ると、その一帯だけ時間が止まっているみたいだった。
妙に静かだ。
静かすぎる。
足音だけが響く。
コツ。
コツ。
コツ。
白士は、無言で前を歩いていた。
墨家も珍しく静かだった。
いつもの軽口もない。
そのことが、かえって幽鬼を不安にさせた。
「……」
幽鬼は、なんとなく口を閉じた。
何か喋る空気じゃない。
しばらく歩く。
やがて。
白士の足が止まった。
「……ここだ」
低い声だった。
幽鬼は顔を上げた。
最初、どこなのか分からなかった。
そこには、ビルとビルの隙間みたいな細い路地があった。
狭い。
かなり狭い。
人ひとりが通れるくらいしかない。
その奥。
暗闇の中に。
光が見えた。
ぼんやりと。
不自然なくらい、そこだけ明るい。
幽鬼は目を細めた。
「……なんだ、あれ」
近づく。
見えてきた。
入口だった。
地下へ続く階段。
古いコンクリートの階段が、下へと伸びている。
まるで。
地下に店を構えているバーか何かみたいだった。
それも。
かなり入りにくい部類の店だ。
隠れ家的、なんて言えば聞こえはいい。
でも。
ここは、隠れすぎていた。
初見で見つけられる場所じゃない。
見つけようとして来なければ、絶対に気づかない。
入口の上には、古びた看板があった。
だが、文字は消えかけていて読めない。
営業している気配もない。
なのに。
階段の先だけが、白く光っていた。
まるで。
下へ来い、と誘っているみたいに。
ぞわり。
背筋に冷たいものが走る。
幽鬼は、ごくりと唾を飲んだ。
「……ここ、ほんとにゲーム会場なんですか」
思わず聞いた。
墨家が、珍しく真面目な顔で答える。
「そうだろうな」
短く。
それだけだった。
白士は階段を見下ろしていた。
その目が、わずかに鋭くなる。
「気をつけろ」
白士が言う。
「今までとは、何かが違う」
その一言で。
幽鬼の心臓が、また嫌な音を立てた。
今までとは違う。
師匠がそう言うなら、本当にそうなのだろう。
白士が、一歩踏み出す。
地下へ。
墨家が続く。
幽鬼も、遅れて階段へ足をかけた。
コツ。
一段。
また一段。
下りるたびに、空気が重くなる。
冷たい。
湿っている。
妙に息苦しい。
下から、微かな電子音が聞こえた。
フォン。
その音を聞いた瞬間。
幽鬼の全身に、嫌な緊張が走った。
始まる。
また、ゲームが。
しかも。
今までで一番、嫌な予感がする。
幽鬼たちは階段を下り切った。
次の瞬間だった。
ぶつっ。
急に、視界が暗転した。
「――っ?」
何も見えない。
本当に、何も。
目を閉じたわけじゃない。
開いているはずなのに、真っ暗だった。
完全な暗闇。
一寸先すら見えない。
「師匠?」
幽鬼が声を出しかけた、そのとき。
プシュー……
妙な音が聞こえた。
どこからか。
何かが噴き出している音。
ガス?
霧?
煙?
分からない。
でも。
嫌な予感だけは、はっきりしていた。
息を止めようとした。
遅かった。
何かが、肺に入った気がした。
視界が揺れる。
頭がぼうっとする。
立っていられない。
「な……」
足元が崩れた。
意識が、急速に沈んでいく。
最後に思ったのは。
ああ、これ、やばいやつだ。
そんな間抜けな感想だった。
そして。
幽鬼の意識は、途切れた。
あたたかい。
最初に感じたのは、それだった。
あたたかい。
それに――いい匂いがする。
何の匂いか、と聞かれると分からない。
花でもない。
香水でもない。
料理でもない。
でも。
懐かしかった。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
優しい匂いだった。
あたたかくて。
柔らかくて。
幸せだった。
まるで。
幸せそのものに包まれているみたいな感覚。
半分起きていて、半分寝ている。
あの状態。
一番気持ちいい瞬間。
夢と現実の境界が曖昧になる、あの感覚。
その、三倍くらい気持ちいい。
このまま。
ずっと眠っていたい。
何も考えず。
何も怖がらず。
ただ、このままで――
ふに。
頬に、何かが触れた。
むに。
揺れる。
むにむに。
誰かが、幽鬼のほっぺたを触っていた。
「……」
うざい。
誰だよ。
寝かせろよ。
そう思った。
だが。
むにむに。
むにむに。
いつまでたっても終わらない。
しつこい。
かなりしつこい。
さすがに鬱陶しくなって、幽鬼は観念した。
重いまぶたを、なんとか開ける。
視界が、ぼやける。
少しずつ焦点が合っていく。
そこにいたのは。
白士。
そして、墨家。
「……」
幽鬼は、しばらく無言だった。
脳が、状況を処理しきれなかった。
いや。
待て。
何かがおかしい。
かなり、おかしい。
白士を見る。
白い。
いつも通り、全身白い。
でも、違う。
服が違う。
墨家を見る。
こっちも違う。
そして。
ようやく、幽鬼は理解した。
二人とも。
スモックを着ていた。
青いスモック。
幼稚園とか、保育園とかで子供が着るやつだ。
あの、スモック。
なぜ。
どうして。
なんで。
幽鬼は、嫌な予感を覚えながら、自分の服を見る。
着ていた。
青いスモックを。
「……」
数秒、沈黙した。
理解が追いつかない。
これは何だ。
夢か?
まだ夢の中なのか?
白士と目が合う。
幽鬼は、ぽつりと言った。
「……似合ってないですよ、師匠」