元々廻屋渉は体力に乏しく、その根本的な理由は幼少期の貧困が大半を占めている。
援助があったとはいえ預けられた養護施設の経営が厳しかったのが原因で、その施設は渉の高育入学を機に入所者がいなくなったため閉鎖が決定しているほどだ。
入学後の方が明らかに裕福な生活を送っており、渉は適応するのに苦労したものだが、慣れてしまえば何のことはない。
体力向上を目的として入部したとはいえ水泳部の活動も週3日しかなく、入学してから3ヶ月が経とうとしていた今では改善された食生活も手伝って体力をグングン伸ばしており、時間を持て余し気味だった渉は朝の時間を軽いランニングに充てていた。
最初こそすぐに息が切れて短時間で済ませていたランニングだが体力をつけるにつれて時間を伸ばしており、今では体を動かすのが楽しいとすら思っている。
何をするにしても体が資本であると考えて始めたものだったが、まさか自分がこんな生活を送れるようなるとは、と渉は改めて軽い感動を覚えつつ、日課のランニングを終えて登校前にシャワーを浴びようと寮に入ったところで渉を呼び止める者がいた。
「お、おはようございます、廻屋くん」
声をかけてきたのは白波千尋。
渉のクラスメイトであり、淡い緑のショートカットを弄っている様からは若干の緊張が伺える。
クラスのリーダーである一之瀬帆波を慕う女生徒であり、男性恐怖症の気がある彼女だが、以前の水泳の授業で溺れてしまったのを渉が助けて以降、少なくとも渉とは普通に喋れていただけに少し違和感があった。
「おはようございます、白波さん。すいませんね、こんな様で」
7月も直前で早朝とはいえ高湿高温、ランニングを終えたばかりの渉も汗が滲んでいる。
首にかけたスポーツタオルで顔を拭いながら謝ったが、白波に気にした様子はなかった。
「いえ、大丈夫です。私、廻屋くんを待っていたので」
「私を?」
「はい。あの……実は、相談したいことがありまして……」
= = =
その次の日曜日。
7月のクラスポイント発表を目前に控えた休日に、渉は白波と連れ立ってケヤキモールに繰り出していた。
いくつかの店を回る様子はデートそのものだったが2人にそんな空気はなく、幸いというべきか知り合いに会うことなく目的を終えた2人は渉が常連となっているカフェで昼食をとっていた。
「目的の物は見繕い終えましたし、あとはポイントですね。男子の方はこちらで何とかしますから、女子の方はお任せできますか?」
「うん、任せて。今日は本当にありがとう」
「それは相談を終えてからにしましょうか」
敬語がとれていたように、午前中に渉と店を回って話し合うことで緊張がほぐれていた白波だったが、渉が切り出した話題に硬直した。
ケヤキモールのウインドウショッピングと今回の相談、白波にとってはどちらも重要な用事なのは明白だったが、本命はこちらだったようだ。
「えと……廻屋くんって、男の人に告白されたことあるんだよね?」
「まあ、以前言ったとおりです。――察するに、一之瀬さん絡みですか」
「う。……まあ、分かるよね」
図星を指摘されてきまり悪そうに縮こまってストローでオレンジジュースを啜る姿は小動物を想起させた。
渉には彼女の相談内容にもう予想がついていたが、急かすことなく待っていると白波は意を決して口を開く。
「……実は、私、一之瀬さんが好きで」
「はい」
「友達としてではなく、1人の女性として好きなんです」
「なんとなくですが、そうではないかとは思っていました」
「……引かないんだね」
「マイノリティの自覚はあるようですね。私の趣味も大衆向けではありませんから。もちろん、全く同じ扱いにするわけにはいきませんが」
LGBT――同性愛という性的マイノリティを取り巻く問題は繊細だが、幸運なことに渉は理解がある方だった。
むろん、相談者の白波が異性の渉に相談してきたことはそれなりの重さを持って受け止めなくてはならない問題だろう。
「そうですね……せっかく相談してくれたのですから、アドバイスを1つ」
「アドバイス?」
「告白するにしてもしないにしても、一之瀬さんに自分の嗜好を押し付けて強制するのだけは止めるべきですね。もちろん嫌われたいなら話は別ですが」
首をぶんぶんと横に振る白波に、渉は穏やかに頷く。
相談事に一区切りがつくと同時に各々の軽食が到着してそこで会話が途切れた。
軽食(日替わりのホットサンド)を終えて食後のコーヒーで一息ついていると、白波が口を開く。
その表情に暗いものはなく、悩みというより純粋に疑問があるように渉は感じた。
「一之瀬さんの事なんだけど、聞いていい?」
「ええ、どうぞ」
「廻屋くんって、一之瀬さんのことよく見てるよね。一之瀬さんも廻屋くんのことよく見てるし、でも付き合ってるようには見えない。廻屋くんって、一之瀬さんのことどう思ってるの?」
「また随分ぶっちゃけた質問ですね」
「私なりに信頼してるんだよ」
廻屋渉という少年のBクラスでの立ち位置は一之瀬帆波とは違う意味で独特だった。
普段の浮世離れした雰囲気とオカルトや都市伝説を趣味として公言するマイペースな人物かと思えば、遊びに誘えば快く応えるノリの良さも併せ持っていること。
首席で入学した事実をはじめとして頭抜けた頭脳を持っている天才と思えば意外と身体能力に難があり、少し踏み込めば部活やランニングで体力改善に努めるストイックな面が見えること。
Aクラスに興味がない事を公言して反感を持つ者もいたが、クラスのリーダーたる一之瀬をはじめとして多くのクラスメイトから頼りにされており、相談事には親身になって応じる面倒見の良さがあること。
特にクラス内で影響力の強い一之瀬に応えていることが大きく、男性恐怖症の気がある白波からもこうして頼られている。
白波については4月の水泳授業での一幕がきっかけとして大きいのだろうが。
ともかく、廻屋渉は入学当初から頭角を出し、様々な面からギャップある一面が垣間見え、男女問わず頼りがいがある――そんな人物だった。
これでマクロな視点に視座を変えれば嫌悪と憎悪に溢れているなど、知っていなければ想像すらできないだろう。
個人間での付き合いの良さが、内心の憎悪を覆い隠す分厚いベールになっていたのだから。
事実、こうして対面している白波にも、入学してから最も多く接している一之瀬にもそうした一面があることを想像すらできていなかった。
「白波さん、貴女のカミングアウトも相談も、非常に勇気がいることだったでしょう。そんな貴女の信頼を勝ち取れたことを嬉しく思います。その勇気に免じて、私も答えなくてはなりませんね」
白波の相談内容は近年寛容になってきたとはいえ繊細で、人を選ぶ内容であることに変わりはない。
相談できる人間を持てずに悩みを抱えきれず、ネットに吐き出しては顰蹙を買って悪循環に陥る――極端だがそんな例もあると思えば渉と関われた白波は幸運だったのだろう。
だがその幸運を掴み取ったのは紛れもなく白波の実力であり、掴み取るために一歩踏み出した勇気は称賛されるべきだ。
渉の言はそう考えてのことだった。
むろん、細かい事情を説明する気は更々ないのだが。
「一之瀬さんについては、そうですね……白波さんが言うような女性としてではありませんが、人間としては好感を持っています。同時に興味の対象でもありますね」
「興味?」
「ええ。あれほど善意に溢れた人物を、私は見たことがありません。その善性への尊敬と、同時にその善意をこのAクラス争奪戦で貫けるのか、という興味です」
「む、一之瀬さんなら大丈夫だよ。外野が勝手なこと言わないで」
「外野も何も私も1年Bクラスの一員なのですが。ああ、そうそう。一之瀬さんですが、交際経験はおろか告白されたこともないそうですよ」
「え、なにそれ。中学の男子は腑抜けだったの?」
「当たり強いですねえ」
小気味よい言い合いに花を咲かせながら、渉は白波を観察する。
一之瀬帆波を懸想して語る白波千尋の目には尊敬と崇拝の色があった。
クラスを観察する中で似たような色は度々見られ、白波ほど顕著ではないにしても類似する感情を抱える者はBクラスに多くいる。
良くも悪くも一之瀬帆波の存在感は大きいということだ。
善意をもって皆の前に立つ女性――渉としては、そんな一之瀬を見て旗振りの聖女ジャンヌ・ダルクを想起してしまう。
多くの戦いで味方を鼓舞して勝利に導いたとされる聖女だが、敵に捕縛されてからは味方であるはずのシャルル7世から身代金を払うことを拒否され、最期には異端審問に掛けられて火あぶりにされてしまった。
死後になって復権裁判を経て列聖され、今では最も有名な聖女の1人となっている。
一之瀬がかの聖女と同じ轍を踏むかどうかは分からない。
ただ、例え失敗してクラスが転落して周りから見放されたとしても、渉が一之瀬への注目をやめることはないだろう。
善意を貫く限り見ている――そう約束したし、それを続ける限りは力を貸すことに異論などないのだから。
「じゃあ、廻屋くんの好みのタイプは?」
「考えたことありませんね。強いて言うなら、好きになった人がタイプでしょうか」
「うわあ、はぐらかされた」
「なんとでも」
顔の見えない人を好きになることはできない――もっともらしい言い訳をしながら、穏やかな仮面の下では大衆への冷たい憎悪が凍り付いていた。
その氷を融かせる存在が現れるかどうか、それはまだ誰にも分からない。
= = =
7月1日、中間試験の結果を反映させたクラスポイントが発表された。
Aクラス:940→1004
Bクラス:900→984
Cクラス:490→492
Dクラス:0→87
5月に他クラスへ嫌がらせを行っていたCクラス以外の全てのクラスがCPを上昇させ、Bクラスは僅かとはいえAクラスとの差を埋めたが、Bクラスの面々の顔色はどうにも優れない。
毎月1日に支給されるはずのプライベートポイントが支給されなかったからだ。
『1年生でトラブルがあって支給が遅れている』という朝のHRで星之宮がした説明は不足もいい所だったが、翌日のHRで続報があった。
――CクラスとDクラスの生徒間で暴力が絡んだトラブル、喧嘩があった。その調査と審問を終えるまで、PPの支給をストップしている。
事件が起こったのは先週の金曜日の放課後。
Cクラスの生徒3人がDクラスの須藤健に暴力を受けた。
『須藤に呼び出されて暴力を振るわれた』と訴えを起こしたのはCクラスだが、Dクラスの須藤は『呼び出されたのは自分だ』と否定して正当防衛を主張。
両者の言い分が食い違い、事件場所が監視カメラのない特別棟のため客観的な証拠がなく、どちらが正しいのか判別がつかない。
そのため情報を公開して目撃者を募り、来週の火曜日に生徒会が開く審問によって対応を決定するとのことだった。
つまるところ、来週の火曜日まではこの暴力事件の調査期間であるのと同時に審問への準備期間。
PPの支給が止まっているのは協議の結果によってCPが上下する可能性があるからだ。
そして早急に解決したとはいえ、5月のCクラスからのクラスぐるみの嫌がらせが記憶に新しいBクラスの面々は、否が応でもそのことを想起した。
これはCクラスが仕組んだ冤罪事件なのでは、と。
「みんな、聞いてくれる?」
朝のSHRが終わると壇上に一之瀬が上がってクラスメイトに呼びかけた。
友人と話していた者でさえも口を噤んで彼女に注目するのだから、高い影響力が伺える。
「まずはクラスポイントの事から。Aクラスとの差を縮めることができたのは、中間試験の平均点で1位を取ることができたからだと思う。過去問があったのは確かだけど、みんなが頑張ってきた結果なのは間違いないからね。みんな、ありがとう」
屈託のない笑みで礼を言う一之瀬にクラスメイトから返礼と共に惜しみない拍手が送られる。
過去問を手に入れた立役者である一之瀬と渉への礼の言葉を一之瀬は曖昧に笑って受け流した。
中間試験の平均点は高い順にB、D、A、Cとなっており、過去問を入手したBとDが上位をとった。
渉としてはAクラスの坂柳有栖が過去問に気付いていないわけがないと確認こそしていないが半ば確信していたが、BはおろかDの後塵をも拝したということは2派閥の片割れである葛城康平に共有しなかったということだろう。
坂柳とは既知の仲だが応援するような仲ではないし、葛城を支援する義理もないため渉が干渉することはなかった。
そして最後に目に見えてCPの上昇が少ないCクラスについては、一之瀬がこれから話すだろう本題にも通じている話だ。
その意図を汲んだ一之瀬の視線に渉が頷いて返すと、彼女は小さく笑った。
「それで今回の暴力事件だけど、5月にCクラスからクラスぐるみで嫌がらせを受けたのはみんなも覚えてると思う。廻屋くんが言うにはペナルティの検証実験ということだったけど、今回の事件がそれの延長線上にあるなら私たちにも無関係な話じゃない。その上でどうするべきか、みんなの意見を聞きたいんだ」
一之瀬の話にクラスメイト達が顔を見合わせて話し合うが、どうにも緊張感に欠けている様子が否めなかった。
嫌がらせの当事者であった5月当時は渉がCクラスに乗り込んで早急に解決したため被害が長引かなかったのと、今回は対岸の火事のため致し方ない部分はあるのだが……。
「一之瀬はどう思ってるんだ?」
「私? そうだね……言い分が食い違っているなら、どちらかのクラスが嘘を言っていることになる。嘘を吐いた方が勝つとそれが前例になっちゃうから、それは防ぎたいかな」
「じゃあ、Cクラスが嘘を言ってると思ってるのか?」
「決めつける訳にはいかないけど、5月にあんなことがあった分、心象としてはね」
「じゃあ、それでいいんじゃないか? なあ、みんな」
柴田颯の言葉と呼び掛けに賛成の意が多く集まる。
一之瀬が呼びかれば大した不平なく注目が集まって自然と話を聞く雰囲気になる点と、自身の判断すら彼女の考えに委ねてしまう点。
どちらも一之瀬帆波というカリスマがもたらす表裏一体の影響と言えるだろう。
リーダーという特定個人によるクラス運営は他のクラスも似たような状態のため、Bクラスに限った問題ではないのだろうが。
ふと渉が目をやれば、神崎の表情が若干険しい。
彼も問題に気付いているようだったが、解決の糸口が見えないといったところか。
それもそのはず、現在のBクラスはAクラスを追いかけているが両クラスのCP差は20とごく僅かで、危機感を覚えるべき状況とは言いがたい。
この状態で抜本的な改革を進言したところで、いったいどれ程の生徒が真剣に耳を貸すだろうか。
ドイツ帝国の初代宰相ビスマルクは『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』と言ったが、ここでいう歴史は他人の経験と言い換えてもいい。
さらに言えば、愚者は手痛い失敗を経験しなければ自分を見つめなおすことはないだろう。
一方で、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』とも言われるとおり、人間は失敗を繰り返す生き物だ。
ビスマルクの言う愚者とは世の中の大半を占めるものだが、渉にしてみればそんな彼らが経験から学ぶことを期待するのは高望みもいいところだった。
「(そうだ、だから私は)」
奴らを許すな、愚か者に鉄槌を、安全なところから兄を追い込んだ衆愚に相応しい裁きを。
兄が自殺してから、渉の胸中には復讐を叫ぶ怨嗟が絶えず蠢いている。
その一方で、本当にそれでいいのか、それしか道はないのか、という迷いも存在していた。
それを考えるために、外界から隔絶されたこの学校に逃げるように転がり込んだのだが、ここでも人間のエゴから逃れられないのは皮肉でしかない。
人間が集まれば社会が形成されるのは自然のため、当然といえば当然なのだが。
「ねえ、廻屋くんはどう思う?」
どこか困ったように問いかける一之瀬に、渉は思考を切り替えた。
実際問題として、件の須藤健は廊下で肩がぶつかった他クラスの生徒の胸ぐらを掴んだり、食堂で割り込みをして注意されたら逆切れしたりするなど、その短気と暴力性はクラスの垣根を越えて知れ渡っている。
そうした一面が今回Cクラスのリーダー・龍園翔の目に留まり、クラスを隔てた生徒間の諍いのモデルケースとして利用されたとすれば、自業自得と言えるだろう。
他者の悪意にハメられたことには同情しないでもないが、経験から学ばず同じ過ちを繰り返す愚者以下の存在を救済する義理など、廻屋渉は持ち合わせていなかった。
「先程一之瀬さんは嘘つきが勝つのを防ぎたいと言いましたね。その志は立派ですが、審問の結果がどう転ぼうと実証データが得られるという一点は変わりません。私には、CクラスもDクラスもまだ勝負の土俵に立っていないように思います」
「言いたいことは分かるがな、廻屋。CPが動く可能性がある以上、その結果が勝ち負けと考えることはできるんじゃないか?」
「1年生1学期のポイントと序列が重要かは甚だ疑問ですね。それよりも、今話し合うべきは今回の事件のことではなく、自分たちがターゲットになったと想定して対策を練ることではありませんか?」
神崎に答えた渉の言葉に一部のクラスメイトの顔色が変わる。
特に、5月にCクラスからの嫌がらせの標的となった面々の表情は強ばってすらいた。
こうなっては、他クラス同士の問題に首を突っ込んでいる場合ではない。
その空気を悟った一之瀬は対策を話し合う方に議題を変え、結局は5月に渉が提示した複数人での行動やボイスレコーダーの携帯といった対策を確認し合ってその場は解散となるのだった。
= = =
その日の夜、夕食を終えて自室で図書室から借りた本を読んでいた渉の端末が震え、チャットの通知音を知らせる。
見れば差出人は佐倉愛里、先月末のストーカー騒動を経て連絡先を交換した1年Dクラスの女生徒だ。
内容は『直接話したいことがあるので部屋に行ってもいいか』というものだった。
Dクラスといえば、同騒動で佐倉と同じく連絡先を交換していた櫛田桔梗をはじめとする何人かが今回の件の目撃者を探すために放課後Bクラスを訪れていたようだが、教室を出て図書室に向かった渉とは入れ違いになっていた。
そのことについては櫛田本人から連絡を受けており、今回の佐倉の相談も暴力事件に関することであろうことは容易に想像がついた。
余談だが、Bクラスを訪れた櫛田は聞き込みの体を崩さず渉に会いに来たことを仄めかし、かつ親切心から渉に連絡を取ろうかと聞いた一之瀬に『自分で聞いてみる』と返すなど、渉に対する興味や連絡先を知っていることを隠さず、Dクラスの池や山内から強烈な嫉妬の念を向けられていた。
丁寧な形とはいえ親切を無碍にされた一之瀬の反応は言葉を濁す微妙なもので、櫛田にしてみれば期待していたほどの反応ではなかったが、外堀を埋めるのは得意分野のため今はこれで十分と表面上はにこやかにその場を後にしたのだった。
ともかく、佐倉のチャットに了承の意と部屋の番号を返した渉がコーヒーメーカーを動かして歓待の準備をしていると控えめなノックが響き、扉を開くと佐倉が立っていた。
「ようこそ、佐倉さん。さあ、どうぞ」
「お、おじゃまします……」
観察眼に優れた渉でなくとも分かるほど佐倉の動きは硬くて呼吸も浅く、緊張しているのは明白だった。
尊敬やリスペクトはしているが佐倉を異性として意識しているわけでもない自分とは違い、人付き合いが得意ではない彼女が男性の部屋に入るとなればそうなることは予測済みだったため、椅子を勧めてミルクと砂糖を添えたコーヒーを淹れた来客用のマグカップを出した。
目を白黒させておっかなびっくりといった様子でカップを傾けていた佐倉だったが、次第に落ち着きを取り戻したのか物珍しそうに渉の部屋を見回す。
「どうしましたか?」
「い、いえ。男の子の部屋ってこんな感じなんだな、と。色々な本があるんですね」
「私が一般的かどうかは議論の余地がありますが、お気に召したものがありましたか?」
「えっと……」
「ささ、遠慮なさらずに」
ストーカー事件の際に見せたような機知と優しさに富んだ穏やかな瞳とは比べ物にならないほどキラキラした瞳で返答を待つ渉の姿に押されつつ、佐倉愛里は思い出した。
廻屋渉は重度のオカルト・都市伝説オタクである、という噂を。
そしてその噂が真実であることを実感し、しかし跳ね除けることもできず、遠慮がちに心霊写真特集の本を指差すのだった。
「――というわけで、総括すると世の中で心霊写真と呼ばれる写真の大半は目の錯覚や意図的な仕掛けによるものなのですが、一部には本物もあると考えられるのです」
「そ、そうなんですね……」
「ところで佐倉さん、何か話したい事があったのでは?」
そして佐倉が渉の解説やら蘊蓄やらに相槌を打っていると十数分が経ち、ようやく一息付けたころには入室当初の緊張は何処かに行ってしまっていた。
緊張と一緒に本来の用事も忘れかけていたのはなんともはやだが、一頻り語って満足した風の渉に促されることで事なきを得た佐倉はハッと持ってきていたカメラを取り出す。
「……廻屋くんは、私のことを勇気があるって言ってくれましたよね」
「はい。自分の悪い所を自覚して改善しようと実行するのは、誰にでもできる事ではありません」
「その言葉を嘘にしたくなくて。だから、目撃者だって名乗り出たんです。須藤くんの事件の」
そう言って差し出されたカメラのデータを見てみれば、斜陽差し込む特別棟の一画と思われる場所で蹲る3人の男子生徒と、カメラに背を向ける形で拳を握って彼らと相対する赤髪を短く刈り込んだ男子生徒が映った写真があった。
顔に痛々しい痣や打撲をこしらえた3人が訴えを起こしたCクラスの生徒で、赤髪が加害者として訴えられた須藤健だ。
「なるほど、確かにこれは事件の証拠ですね。自撮りの撮影スポットを探していた際に偶然出くわしたというところですか。しかし、これはDクラスに有利な証拠ではないですね」
「……そうなんです」
名乗り出たときに同じことを言われたのか、肩を落とす佐倉。
写真は物的証拠として強いが、その内容はどう見ても須藤がCクラスの3人に暴力をふるった場面であり、現時点でわかっていることを補強するものだ。
だが同時に『Dクラス内から出たとはいえDクラスを有利にするものではない』という点ではでっち上げの証拠ではない、とある程度の信憑性が認められる可能性がある。
あとは審問の場での議論で状況証拠からどれだけ損害を減らせるか、だろう。
事実として須藤が暴力を振るっている以上、損害はゼロにはならない――尋常な手段では。
「……佐倉さんはこの事件、どんな結末を望んでいますか?」
「結末?」
「はい。何を思って目撃者として名乗り出たのか、と言ってもいいでしょう」
「私は……」
佐倉は言い淀むが、ベッドに座って手を組みながら視線を逸らさずに見つめる渉に少し顔を赤くして、それから大きく息を吸って口を開いた。
「……何か具体的な希望があるわけじゃないんです。ただ、私を助けて、認めてくれた廻屋くんや一之瀬さんみたいになりたくて。憧れている2人が私なんかに勇気があるって言ってくれたから、それに応えたくて。それで、なんというか勢いで名乗り出ちゃったんです。後は、無事に終わってくれることを願うぐらいで……」
「審議の結果、クラスポイントが減らされることになっても、ですか?」
「それは……仕方ないと思います。ポイントはあるに越したことはないし、Aクラスを目指している堀北さんとかには申し訳ないけど、私は正直実感がなくて」
「なるほど、分かりました」
渉は立ち上がり、佐倉にカメラを返す。
「幸い一之瀬さんもこの事件に関心を向けていますし、私たちも調べてみることにします」
「本当ですか!?」
「はい。佐倉さんは安心してください。貴女の勇気ある行動に敬意を」
渉の言葉にどこか安堵したように、佐倉は自室に帰って行った。
それに見送りつつ、渉は胸中で独り言ちる。
この事件、おそらく何もせずとも納まるところに納まるだろう。
生徒会が仲裁する以上、自分たちは部外者でしかなく、介入したところで審問の結果に関与できるかどうかは微妙だ。
無論、方法はあることにはある。
しかし――。
「使うかどうかは、展開次第ですかね」