それは比喩ではなく、事実だった。
世界は、壊れている。
それは比喩ではなく、事実だった。
——悪魔憑き。
それは説明のつく現象ではない。ただ、「そういうもの」として在る。
透音はポケットに手を入れたまま、夕暮れの交差点に立っていた。赤信号。群衆が止まり、風が吹く。その中で、ひとりだけ呼吸の合わない少女がいる。
世界と、拍動がずれている。
「君」
声をかける。
少女は振り返る。焦点の合わない瞳。だがその奥で、何かがこちらを“測って”いた。
「わたし、壊れてますか?」
いきなり核心だった。
透音は少しだけ考える。考えるふりをする。実際には答えはもう出ている。
「壊れてるよ」
少女の喉が震える。
「でも、壊れてるのは君だけじゃない」
それが慰めにならないことを、透音は知っている。
少女の影が揺れる。足元から伸びた影が、彼女の動きと一致していない。半拍遅れ、いや半拍早い。どちらが本体か曖昧になる。
——内側に、いる。
透音は視線を落とす。少女の胸元。心臓の位置。その奥に、異物が棲んでいる。侵食ではない。共生でもない。
「観測」
世界を拒絶しきれなかった少女の心が、外界と接続するために呼び込んだ“何か”。
「殺してくれるんですか?」
「できれば、しない」
透音は正直に言う。
「君がまだ、君でいるなら」
少女は微笑んだ。美しい笑みだった。だからこそ、その頬がひび割れる音が、やけに乾いて響いた。
影が跳ね上がる。
交差点のアスファルトがめくれ上がる。信号機が軋む。周囲の時間が粘度を持つ。
透音は動かない。
逃げない。
観測する。
影が牙を持つ。少女の輪郭が崩れ、空間が裂ける。内側から覗く“それ”は形を持たない。ただ「否定」だけがある。
世界を拒絶する力。
透音は一歩踏み出す。
「君は、世界を嫌いか?」
問いは愚かだ。だが必要だ。
影が唸る。
「嫌い、です」
少女の声と、異形の振動が重なる。
「だって、世界は、わたしを見ない」
透音は、そこで初めて微笑んだ。
「それは違う」
影の牙が目前まで迫る。
「今、見てる」
透音の瞳が、確かに少女を捉えている。
観測は、肯定だ。
世界が彼女を拒むのではない。彼女が世界を拒んでいるのでもない。ただ、互いに焦点がずれていただけ。
透音は手を伸ばす。
触れる。
影にではなく、少女の手に。
冷たい。
だが、確かに実在する温度。
「君は壊れてる。でも、壊れてるまま存在できる」
影が軋む。空間の裂け目が閉じ始める。
否定が、弱まる。
「世界も同じだ。壊れてる。でも、壊れてるまま続いてる」
少女の瞳に、わずかに焦点が戻る。
「だから——」
透音は言う。
「壊れてることを理由に、消えなくていい」
沈黙。
交差点の喧騒が戻る。信号が青になる。車が走り出す。
少女は立っている。
影は、ただの影に戻っている。
「……終わり、ですか?」
「一時停止だよ」
透音は肩をすくめる。
「再発するかもしれない。そのときはまた、観測する」
「あなたは、何なんですか?」
少女の問いに、透音は少し考える。
悪魔祓いではない。
医者でもない。
英雄でもない。
「通行人だよ」
そう言って、歩き出す。
夕暮れは夜に変わり、ビルの輪郭は再びわずかに溶け始める。
世界は壊れている。
だからこそ、観測が必要だ。
望月透音は、今日も壊れた世界を見続ける。
壊れていることを、肯定するために。
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