世界は、壊れている。
それは比喩ではなく、事実だった。

1 / 1
量子幽霊を考えてるときに作った試作品を供養します





誰も気づかぬ夜のビル

 世界は、壊れている。

 それは比喩ではなく、事実だった。

 望月 透音(もちづき とうね)は、壊れていないものを探すことのほうが難しいと知っている。街路樹の影は歪み、通行人の輪郭は微かに剥離し、夜のビル群は空へ向かってわずかに溶け出している。誰も気づかない程度に、しかし確実に。

 

 ——悪魔憑き。

 

 それは説明のつく現象ではない。ただ、「そういうもの」として在る。

 

 透音はポケットに手を入れたまま、夕暮れの交差点に立っていた。赤信号。群衆が止まり、風が吹く。その中で、ひとりだけ呼吸の合わない少女がいる。

 

 世界と、拍動がずれている。

 

「君」

 

 声をかける。

 少女は振り返る。焦点の合わない瞳。だがその奥で、何かがこちらを“測って”いた。

 

「わたし、壊れてますか?」

 

 いきなり核心だった。

 

 透音は少しだけ考える。考えるふりをする。実際には答えはもう出ている。

 

「壊れてるよ」

 

 少女の喉が震える。

 

「でも、壊れてるのは君だけじゃない」

 

 それが慰めにならないことを、透音は知っている。

 

 少女の影が揺れる。足元から伸びた影が、彼女の動きと一致していない。半拍遅れ、いや半拍早い。どちらが本体か曖昧になる。

 

 ——内側に、いる。

 

 透音は視線を落とす。少女の胸元。心臓の位置。その奥に、異物が棲んでいる。侵食ではない。共生でもない。

 

 「観測」

 

 世界を拒絶しきれなかった少女の心が、外界と接続するために呼び込んだ“何か”。

 

「殺してくれるんですか?」

 

「できれば、しない」

 

 透音は正直に言う。

 

「君がまだ、君でいるなら」

 

 少女は微笑んだ。美しい笑みだった。だからこそ、その頬がひび割れる音が、やけに乾いて響いた。

 

 影が跳ね上がる。

 

 交差点のアスファルトがめくれ上がる。信号機が軋む。周囲の時間が粘度を持つ。

 

 透音は動かない。

 

 逃げない。

 

 観測する。

 

 影が牙を持つ。少女の輪郭が崩れ、空間が裂ける。内側から覗く“それ”は形を持たない。ただ「否定」だけがある。

 

 世界を拒絶する力。

 

 透音は一歩踏み出す。

 

「君は、世界を嫌いか?」

 

 問いは愚かだ。だが必要だ。

 

 影が唸る。

 

「嫌い、です」

 

 少女の声と、異形の振動が重なる。

 

「だって、世界は、わたしを見ない」

 

 透音は、そこで初めて微笑んだ。

 

「それは違う」

 

 影の牙が目前まで迫る。

 

「今、見てる」

 

 透音の瞳が、確かに少女を捉えている。

 

 観測は、肯定だ。

 

 世界が彼女を拒むのではない。彼女が世界を拒んでいるのでもない。ただ、互いに焦点がずれていただけ。

 

 透音は手を伸ばす。

 

 触れる。

 

 影にではなく、少女の手に。

 

 冷たい。

 

 だが、確かに実在する温度。

 

「君は壊れてる。でも、壊れてるまま存在できる」

 

 影が軋む。空間の裂け目が閉じ始める。

 

 否定が、弱まる。

 

「世界も同じだ。壊れてる。でも、壊れてるまま続いてる」

 

 少女の瞳に、わずかに焦点が戻る。

 

「だから——」

 

 透音は言う。

 

「壊れてることを理由に、消えなくていい」

 

 沈黙。

 

 交差点の喧騒が戻る。信号が青になる。車が走り出す。

 

 少女は立っている。

 

 影は、ただの影に戻っている。

 

「……終わり、ですか?」

 

「一時停止だよ」

 

 透音は肩をすくめる。

 

「再発するかもしれない。そのときはまた、観測する」

 

「あなたは、何なんですか?」

 

 少女の問いに、透音は少し考える。

 

 悪魔祓いではない。

 

 医者でもない。

 

 英雄でもない。

 

「通行人だよ」

 

 そう言って、歩き出す。

 

 夕暮れは夜に変わり、ビルの輪郭は再びわずかに溶け始める。

 

 世界は壊れている。

 

 だからこそ、観測が必要だ。

 

 望月透音は、今日も壊れた世界を見続ける。

 

 壊れていることを、肯定するために。

 

 

 




もし面白いと思っていただけたら、量子幽霊も読んでみてください。



  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。