一九一七年。
ロシア帝国首都、ペトログラード。
欧州各国が、それぞれの思惑を胸に聖杯戦争への準備を進める中。
ロシア帝国もまた、一人のマスターを選出していた。
選ばれた男は魔術師ではない。
軍人でもない。
貴族でもなければ、帝国に忠誠を誓った臣民ですらない。
ついでに言えば――。
「なあ。これ、外してくれない?」
手錠を鳴らして、中年男は言った。
「却下だ」
「俺、これから帝国のために命張るんだけど」
「お前は銀行強盗だ」
「昔の話だろ」
「逮捕されたのは先月だ」
「昔じゃないか」
「先月だ」
ロシア帝国代表。
ピョートル。
自称である。
◇
召喚場所として用意されたのは、ペトログラード市内の帝国軍施設だった。
部屋の中央には召喚陣。
触媒。
魔力供給を補助する魔術師。
そして、手錠を外されたばかりのピョートル。
「失敗したら?」
「死ぬ可能性がある」
「先に言えよ」
「先に言ったら逃げるだろう」
「当たり前だ」
帝国軍人が無視して、召喚を促す。
ピョートルは溜息を吐いた。
魔術なんてものを信じていたわけではない。
だが、牢獄から連れ出されて以来、常識では説明できないものを散々見せられてきた。
今さら召喚陣が光った程度では驚かない。
――いや。
さすがにこれは驚いた。
風が吹いた。
閉め切られた室内に、荒野を駆け抜けるような風が吹き荒れる。
魔力が渦巻く。
光が弾ける。
そして。
人影が現れた。
「――問おう」
力強い声だった。
「お前が、私のマスターか?」
ピョートルは少し考えた。
自分の手を見る。
召喚陣を見る。
周囲の魔術師を見る。
最後に、現れた人物を見る。
「たぶん」
「たぶん?」
「俺も今日いきなり連れてこられたからな」
「…………」
「よろしく」
差し出された手を、英霊はしばらく見つめた。
やがて苦笑して握り返す。
「妙な男だな」
「よく言われる」
「私はライダー。この戦い、お前の脚となろう」
「ライダー?」
ピョートルの目が細くなる。
「騎兵みたいなもんか?」
「まったく同じではないが……まあ、それで構わん」
「乗り物に乗る?」
「当然だ」
「速い?」
「無論」
そこで。
ピョートルの顔つきが変わった。
「逃げ足に自信は?」
「…………」
ライダーは露骨に嫌そうな顔をした。
「逃げるのは好きじゃない」
「うん」
「だが――」
英霊としての自負を込めて、胸を張る。
「これでもライダーだ」
「なるほど」
ピョートルは頷いた。
「よし」
そして立ち上がった。
「じゃあちょっと金を下ろしに行こうぜ」
「金?」
「ああ。戦争するんだろ? 軍資金は必要だ」
ライダーは納得した。
「それは道理だな」
「だろ?」
「銀行か?」
「銀行だ」
帝国軍人が二人を見送る。
この時。
彼らは誰も気づかなかった。
ピョートルが銀行口座など持っていないことに。
◇
「金を出せ」
「…………」
銀行員は固まった。
ライダーも固まった。
ピョートルの手には拳銃があった。
「聞こえなかったか?」
「ピョートル」
「なんだ?」
「何をしている」
「金を下ろしてる」
「これは金を下ろすと言うのか?」
「似たようなもんだ」
「似てないだろう!」
銀行内にライダーの声が響いた。
「口座から金を受け取るものではないのか!?」
「俺の口座からじゃないだけだ」
「それを強盗と言うのではないか!?」
「詳しいじゃないか」
「今知った!」
銀行員が震える手で金を差し出す。
ピョートルはそれを鞄へ詰めた。
「よし」
「何がよしだ!」
「軍資金確保」
「帝国から貰え!」
「俺を牢屋に入れた連中だぞ。なんで頭下げて金貰わなきゃいけないんだ」
「お前は今、その帝国の代表だろう!」
「そうだったな」
「忘れるな!」
その時だった。
外から笛の音が響いた。
「警察だ!」
銀行員の顔が明るくなる。
ライダーの顔が暗くなる。
ピョートルは窓の外を覗いた。
警官が集まってきている。
「思ったより早かったな」
「どうするつもりだ?」
「ライダー」
「なんだ」
「逃げ足に自信あるって言ったよな?」
「私は好きではないと言った!」
「できないとは言わなかった」
「お前――!」
「行くぞ!」
ピョートルは鞄を抱えて銀行を飛び出した。
「待て!」
「強盗だ!」
「止まれ!」
警官たちが一斉に追いかける。
「ライダー!」
「ええい! 一度だけだぞ!」
英霊が叫ぶ。
次の瞬間。
地面を蹴る轟音。
現れた馬へ、ライダーが飛び乗った。
「乗れ!」
「待ってました!」
ピョートルが後ろへ飛び乗る。
「止まれ!」
警官が銃を構える。
馬が走り出した。
石畳を蹴る。
一歩。
二歩。
三歩。
そして――。
四歩目は、地面になかった。
「…………は?」
警官が空を見上げた。
馬が空を駆けていた。
ペトログラードの建物を飛び越え、屋根より高く。
冬空へ向かって駆け上がっていく。
「おおおおおおおおっ!?」
後ろに乗ったピョートルが叫ぶ。
「飛ぶのかよ!」
「ライダーだと言っただろう!」
「いや普通そこまでとは思わないだろ!」
「落ちるなよ!」
「金が落ちる!」
「自分の心配をしろ!」
眼下では、警官たちが呆然と空を見上げていた。
銀行員も外へ出てきた。
通行人も立ち止まった。
誰もが、空を飛んで逃げていく銀行強盗を見ている。
神秘の秘匿。
その言葉を知る者がこの場にいたなら、頭を抱えたことだろう。
ピョートルは知らない。
だから笑っていた。
「こいつはすげえ!」
「何がだ!」
「お前と組んで正解だった!」
「私は早くも間違いだった気がしている!」
「いいじゃないか! 金も手に入った!」
「盗んだ金だ!」
「金に名前は書いてない!」
「そういう問題ではない!」
ペトログラードの空を、一騎の馬が駆け抜けていく。
その背には英雄。
そして、銀行強盗。
こうして。
ロシア帝国代表は、聖杯戦争の軍資金を確保した。
なお。
ロシア帝国政府には一切相談していない。
なんやこのおっさん?!
ライダー……強く生きて……。