一九一七年。
西部戦線のどこか。
地上では今日も砲弾が飛び交い、機関銃が火を噴き、人間が人間を殺していた。
その地下深く。
戦場には似つかわしくない、巨大な宮殿が存在していた。
白亜の柱。
磨き上げられた床。
豪奢な絨毯。
壁には魔術によって灯された無数の明かりが並び、その中央には巨大な広間がある。
この宮殿を作り上げたのは、一人の吸血鬼だった。
「恋がしたいんですの」
新兀枝・森羅万象令嬢卿。
此度の聖杯戦争を主催する吸血鬼の姫は、極めて真剣な顔でそう言った。
「素敵な殿方と出会って、胸がキュンとして、手と手が触れ合っただけで眠れなくなるような――そういう恋がしたいんですの!」
「すればいいじゃない」
返事は軽かった。
森羅の向かい。
豪奢な椅子に腰掛けた女が、紅茶を飲んでいる。
白い肌。
白い衣。
長い髪。
湖水より深い青の瞳。
森羅が円卓の欠片を触媒として召喚した、謎のサーヴァント。
バーサーカー。
「だから! その相手を探すために聖杯戦争を始めたんですの!」
「知ってるわよ」
「でしたら、もう少し親身に相談に乗ってくださいまし!」
「乗ってるじゃない」
バーサーカーはカップを置いた。
「よそのサーヴァントと恋をすればいいのよ」
「敵ですわよ!?」
「だから?」
「だからって……敵なんですのよ!?」
「恋愛に陣営って関係ある?」
「ありますわよ!」
「そうかしら」
バーサーカーは不思議そうに首を傾げた。
森羅は頭を抱えた。
「そもそも、わたくしは素敵な騎士様を召喚するつもりだったんですの! それなのに出てきたのは女の方で!」
「私じゃ不満?」
「そういう問題ではありませんわ!」
「贅沢ねぇ」
「何がですの!?」
森羅はしばらく憤慨していたが、ふと気を取り直した。
「ところで、バーサーカー」
「…………」
「バーサーカー?」
「…………」
「聞こえてますわよね?」
「…………」
女は優雅に紅茶を飲んでいる。
森羅は眉をひそめた。
「バーサーカー様?」
「なあに?」
「聞こえてたんじゃありませんの!」
「聞こえてたわよ?」
「なら返事してくださいまし!」
「嫌よ」
「なんでですの!?」
「呼び方が気に入らなかったから」
森羅の頬が引きつった。
「では、なんと呼べばよろしいんですの?」
「そうねぇ」
バーサーカーは少し考えた。
「陛下」
「…………」
「陛下」
「二度言わなくても聞こえてますわ!」
「じゃあ呼んでみて」
「嫌ですわよ!」
「…………」
「その顔やめてくださいまし!」
「…………」
「バーサーカー様!」
「もう一声♡」
「なんで召喚した側のわたくしが、ご機嫌取りをしなくてはいけませんの!?」
「さあ?」
森羅は震えた。
だが、目の前の女は本当に返事をするつもりがないらしい。
やがて森羅は観念した。
「……バーサーカー陛下?」
ぱっと。
女の顔に笑みが咲いた。
「花丸をあげるわ♡」
「いりませんわ!」
「でも、そうでしょう?」
バーサーカーは満足そうに足を組み替えた。
「私にこそ『Your Majesty』は相応しいと思わない?」
返事はなかった。
「ねえ、メイド一号ちゃん?」
「――お前にそれだけは絶対に与えない」
低い声がした。
バーサーカーの傍ら。
銀髪の女が立っていた。
着ているのは、なぜかメイド服である。
「私たちが憧れた理想の王国を破壊したのは、お前のくせに」
「あら」
バーサーカーは笑った。
「お茶をお願い、メイド一号ちゃん」
「断る」
「お願い♡」
「断ると言っている」
その瞬間。
バーサーカーの肩に刻まれた王冠の徴が、淡く輝いた。
「…………」
銀髪の女の眉間に深い皺が寄った。
「お茶♡」
「…………いつか必ず殺す」
そう言いながら。
メイド一号はティーポットを手に取った。
こぽこぽと紅茶が注がれる。
森羅は目を見開いた。
「今の何ですの!?」
「便利でしょう?」
「答えになってませんわ!」
広間には他にも人影があった。
何人もの騎士たち。
いずれも並の英霊とは思えない気配を纏っている。
その一人が、メイド一号を見ていた。
否。
睨んでいた。
正確には。
メイド一号に茶を淹れさせているバーサーカーを、憎悪すら感じさせる目で睨んでいた。
バーサーカーは紅茶を一口飲んだ。
「…………」
もう一口。
「…………」
そして騎士を見る。
「ねえ」
「…………」
「そんな目で見なくてもいいじゃない」
「…………」
「文句があるなら言えば?」
騎士の眉が動いた。
「では申し上げましょう」
「どうぞ♡」
「貴女は生前からそうだった!」
騎士が声を荒らげる。
「男を惑わせて! 騎士たちを惑わせ! あの方を――!」
「はいはい」
「はいはいではない!」
「でも」
バーサーカーは騎士ではなく、メイド一号を見た。
それからもう一度、騎士を見る。
「あなた、お母様を庇おうとしたのね?」
「…………」
「立派な親子愛じゃない。素敵よ」
「何を――」
「結婚するなら、あなたみたいな人のほうがいいんでしょうねぇ」
騎士が固まった。
メイド一号も固まった。
森羅は少し身を乗り出した。
「まあ!」
「真面目だし。家族思いだし。浮気もしなさそう」
「何の話をしている!」
「でも――」
バーサーカーは顎に指を当てた。
しばらく騎士を眺める。
そして。
「いい人止まりって感じ」
「…………」
「燃えないわね」
「誰が貴女の恋愛対象になりたいと言った!!」
「そういうところよ」
「何がだ!!」
「息子を品定めするな!」
メイド一号まで怒鳴った。
「あら。褒めてるのに」
「どこがだ!」
「親子仲良しねぇ」
「「黙れ!」」
バーサーカーは楽しそうに笑った。
森羅は感心していた。
「なるほど……これが恋愛上級者……」
「違う!」
なぜかメイド一号と騎士から同時に否定された。
「あー」
バーサーカーが呟いた。
「でもさ」
「今度はなんですの?」
「陛下より、聖下のほうが上っぽくない?」
沈黙。
「…………」
「…………」
「…………」
騎士たちまで黙った。
「私に合うと思うのよね。聖下」
「思いつきで敬称を増やさないでくださいまし!」
「そう?」
バーサーカーは別の方向を向いた。
「ねえ、メイド二号ちゃん?」
「ボクをここまで苛立たせられるのは、たぶん君だけだよ」
そこにはもう一人。
白い髪の女がいた。
当然のようにメイド服を着ている。
「褒めてくれてありがとう♡」
「褒めてないよ」
「じゃあ、これお願い」
バーサーカーは履いていたヒールを脱いだ。
「…………」
素足を差し出す。
「…………何かな?」
「ネイル♡」
「…………」
「メイド二号ちゃん?」
「自分で塗ればいいだろう?」
王冠の徴が。
ぴかり。
「…………」
メイド二号は目を閉じた。
長い沈黙の後。
「君、本当に性格が悪いね」
「知ってる♡」
メイド二号はしゃがみ込んだ。
小さな瓶を手に取る。
そしてバーサーカーの足の爪に、丁寧に色を塗り始めた。
メイド一号は紅茶を淹れている。
メイド二号はネイルを塗っている。
騎士たちは誰一人としてバーサーカーと目を合わせようとしない。
森羅は感動した。
「これが……王の威厳……!」
「違う」
「違うよ」
「断じて違う」
メイド一号、メイド二号、騎士から同時に否定された。
「ところで」
バーサーカーが自分の肩を見た。
「これだけだと、ちょっと危ないのよね」
「何がですの?」
「いろいろ」
「いろいろとは!?」
「いろいろよ」
「説明してくださいまし!」
バーサーカーは答えなかった。
代わりに森羅の手を見た。
そこに刻まれているもの。
三画の令呪。
「森羅ちゃん」
「なんですの?」
「それ、ちょうだい」
「…………」
「三画とも♡」
「嫌ですわよ!?」
即答だった。
「あら」
「あら、ではありませんわ! 令呪ですのよ!? マスターがサーヴァントに対して持つ、もっとも重要な――」
「命令権?」
「そうですわ!」
「ふうん」
バーサーカーは少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「好きな男の子に命令して、恋が始まると思う?」
「…………!」
森羅に衝撃が走った。
「恋は対等じゃなくちゃ」
「お前が言うな」
メイド一号が即座に言った。
王冠が光った。
「…………」
紅茶が追加された。
「説得力というものが泣いているよ」
メイド二号も言った。
王冠が光った。
「…………」
足の爪がさらに綺麗になった。
「今まさに二人を強制的に働かせていますわよね!?」
「これは恋愛じゃないもの」
「無敵ですの!?」
バーサーカーは笑った。
「別にあなたの邪魔なんてしないわよ」
「本当ですの?」
「あなたはこの戦争で、理想の恋を見つければいいの」
「…………」
「聖杯そのものが欲しいわけじゃないでしょう?」
「それは……まあ」
森羅は視線を逸らした。
彼女の目的は根源ではない。
魔法でもない。
世界征服でもなければ、人類の救済でもない。
恋がしたい。
それだけだった。
「それに」
バーサーカーが、地下宮殿のさらに奥へ視線を向けた。
そこには。
此度の聖杯戦争のために森羅が作り上げた聖杯がある。
「あなたの聖杯、もうとっくに飽和してるでしょう?」
「…………」
「西部戦線で何万人死んだと思ってるの」
地上では、三年前から戦争が続いている。
流された血。
失われた命。
積み重ねられた死。
それらを呑み込み続けた聖杯は、既に願望機として必要な量を遥かに超える魔力を蓄えていた。
「サーヴァント一騎を受肉させるくらい、わけないわ」
メイド二号の手が。
ほんの一瞬だけ止まった。
「……?」
「動かないで。はみ出すでしょう?」
「誰のせいだと思ってるんだい」
「あなた♡」
「君だよ」
森羅は自分の令呪を見た。
「でも……」
「嫌ならいいのよ」
「…………」
「無理にとは言わないわ」
「…………」
「残念だけど」
バーサーカーは紅茶を飲んだ。
「…………」
森羅は令呪を見る。
「…………」
バーサーカーは紅茶を飲む。
「…………」
森羅がちらりと見る。
バーサーカーは何も言わない。
「…………」
「…………」
「……何かありませんの?」
「何が?」
「説得ですわ!」
「嫌なんでしょう?」
「そうですけれど!」
「じゃあ仕方ないわね」
「…………」
「せっかく、モテる秘訣を教えてあげようと思ったのに」
「…………」
森羅の目が動いた。
メイド一号が顔を上げた。
メイド二号も顔を上げた。
騎士たちまで一斉に森羅を見る。
「やめておけ」
「やめたほうがいいよ」
「絶対にやめろ」
忠告が重なった。
森羅はバーサーカーを見た。
「…………具体的には?」
「森羅!」
「やめろ!」
「正気かい?」
バーサーカーは笑った。
「令呪三画♡」
「三画全部?」
「全部♡」
「…………」
森羅は考えた。
長い。
長い沈黙だった。
彼女は何百年も生きている。
死徒として数多の魔術師を見てきた。
欺瞞も、策略も、裏切りも知っている。
だからこそ分かる。
これは。
とてつもなく怪しい。
「……ちゃんと教えてくださいますのよね?」
「もちろん」
「絶対?」
「ええ」
「途中でやっぱりなしとか言いません?」
「言わないわ」
「…………」
森羅は覚悟を決めた。
「分かりましたわ!」
「森羅!!」
メイド一号の制止は遅かった。
三画の令呪が輝く。
契約を結ぶための魔力が動く。
主から従者へ。
マスターからサーヴァントへ。
本来ならば決して手放すべきではない三つの命令権。
それが。
すべてバーサーカーへと渡った。
「はい!」
森羅は期待に満ちた目を向けた。
「これでよろしいですわね!」
「ええ」
「では!」
「うん?」
「モテる秘訣ですわ!」
「ああ」
バーサーカーは立ち上がった。
ヒールに足を通す。
数歩歩いて。
ふと振り返った。
「まず男の子と話すとき、自分の話ばっかりしちゃダメよ」
「…………!」
森羅は真剣な顔になった。
「なるほど……!」
「相手の話を聞くの。人間、自分に興味を持ってくれる相手には自然と好感を持つものだから」
「さすがですわ、バーサーカー陛下!」
「聖下でもいいわよ♡」
「調子に乗らないでくださいまし!」
「ふふっ」
バーサーカーは笑った。
そして。
地下宮殿の奥へ歩いていく。
西部戦線で死んだ、数え切れないほどの人間。
その魂を呑み込み。
既に飽和するほどの魔力を蓄えた。
聖杯へ。
メイド一号が、ティーポットを置いた。
メイド二号が、ネイルの瓶を閉じた。
騎士たちも。
森羅だけを残して。
歩いていくバーサーカーの背中を見つめていた。