6月という中途半端な時期に転校してきた少女、綾瀬七海。
彼女は中学一年生とは思えない妖艶とも言える雰囲気を纏っていた。
問題行動ばかりとる彼女に翻弄されつつも、彼女を理解しようと奮闘する教師。
しかし、彼女が実は大きな事件の関係者である事が分かる。

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狂宴の終わった島から… 〜小聖慈恵結(こひじりじえむすび)島後記

六月の教室は、雨と草の入り混じった匂いがしていた。

湿気を吸ったカーテンは重く垂れ下がり、三階の窓から入る生温い風も少しカビ臭い。

窓から見える空模様と同じようなどんよりとした雰囲気だった。

 

私は出席簿を閉じ、顔を上げた。

「ホームルームを始める前に、一人、転校生を紹介する」

ざわつきは予想より小さかった。

六月に転校生は珍しい。

2ヶ月前に新入生として入学してきた生徒たちにとっても、やっと慣れ始めた、そんな頃にやってきた新たなる来訪者にやや緊張が走った。

クラスという共同体がやっとある程度の形を成し始めた、しかし、どこかまだ互いに遠慮のある探り探りな中途半端な状態、ましてや、彼等はまだ中1だ。小学生から中学生になったばかりで、身も心も変化に適応するので今さら新しい誰かを率先して受け入れる余裕はないのだろう。

面倒な事にならなければいいが…。

私、新庄伸也は心の中で願う。

「えーどんな子?男の子?女の子?」

クラスのお調子者ポジションの生徒が、テンプレの様な反応をしてくれ、クラス全体も同調する様にガヤガヤし出すが、彼等も内心は私と同じだろう。

どんな子?と言われても私だってよく知らない。

1週間前に転校生の話は聞いていたが、本人を見るのは今日が初めてなのだから。

しかし、まあ、この拒絶も本人を見れば少しは変わるだろうと、お調子者の質問には答えず、転校生を教室に招き入れる。

「綾瀬さん入ってきて」

教室の前のドアがガラリと開く。

最初に目に入ったのは、脚だった。

白い。

制服のスカートから伸びた脚が、不自然なほど白かった。

その段階で、女子からは軽い落胆の吐息と、男子のおお!と言う歓声が上がる。

次に顔を見える。

整っている、という言葉では足りない。

だが、美人というのとも違う。

妖艶というか何か別の―もっと説明しにくい印象があった。

男子たちはすでに色めき立っている。

現金なものだ。先ほどの警戒感から一気に歓迎ムードだ。

先ほど落胆していた女子の半分は純粋な「綺麗」な人に対する賛美の声。

しかし、残りの半分からは若干敵意のこもった視線が向けられた。

中学生の女子はとかくクラス内の序列にこだわるから致し方無い。

そんな反応にまるで興味がない様に、少女は教卓の横に立った。

私を見るでもなく、教室を見るでもなく、ただそこに立っていた。

その様子は、「早く終わらないかな」と言っている様に感じた。

彼女のその反応に戸惑いつつら私は職務を思い出す。

「今日からこのクラスに転校してきた綾瀬七海さんだ」

そして、綾瀬に軽く自己紹介をする様に促す。

少女は一礼した。

「よろしくお願いします」

声は静かで、よく通った。

だが、なんだか教室の空気とは異質な印象を受けた。

「しばらくこちらの学校にお世話になる事になりました。短い期間だとは思いますが、仲良くしてくれると嬉しいです」

変に堂々とした、場慣れした様子にこれまでも転校が多かったのかな?と感じた。

にこやかな笑顔の中に演技のような印象だ。

生徒たちの目が彼女に集中する。

興味、好奇心、好意、嫉妬…

特に男子生徒の何人かは、明らかに熱っぽい視線を向けていた。

中学生はすぐにこいをする。

私はそれに気づき、その時は若いって良いなと年相応のその反応を微笑ましく思う。

しかし、女子の一部が綾瀬に向ける嫉妬の混じった視線には注意が必要だと警戒する。

何事もなく平穏にと願いながら、

「席は……」

昨日の放課後に置いておいた窓際の席を指さした。

彼女は静かに歩き、椅子を引き、座った。

その動作の一つ一つが妙に目を誘った。

注目の中、その優雅とも滑らかとも言える一挙手一投足に目を奪われた。

ホームルームを続けながら、私は何度か彼女の方を見てしまう。

彼女は前を向いたまま、微動だにしていなかった。

だが、一度だけ。

本当に一度だけ。

彼女は視線を動かし、私を見た。

その瞬間。

私は、自分の不躾な視線に気付かれてしまったと少し動揺した。

「おい、おい」

私は自身の教師としての未熟さを痛感しつつ、クラスの男子達のこれからを思い、軽くため息をついた。

 

案の定、問題は起きた。

最初の騒ぎは、火曜日の昼休みだった。

職員室でプリントの束を整えていると、廊下の向こうから怒号が響いた。

「来いよ、逃げんなって言ってんだろ!」

椅子が倒れる音。

生徒のざわめき。

私は反射的に立ち上がり、廊下へ出た。

私が担当する一年三組の前に人だかりができていた。

「どけ」

生徒たちの間をかき分け騒ぎの中心へ向かう。

教室の中央で、二人の男子生徒が互いの胸ぐらを掴んで向かい合っていた。

一人は尼崎。

髪を染め、授業態度も悪い、いわゆる問題児だ。

もう一人は稲野。

一年にしてサッカー部の主力で、クラスでもいつも中心にいる様な生徒だった。

まさに正反対、最も衝突しそうにない組み合わせだった。

「何をしている!」

私が声を上げると同時に、胸ぐらを掴む二人の腕を払いのけた。

2人の間に入りながら、それぞれの顔を覗き見る。

尼崎はバツが悪そうにそっぽを向いて、稲野は今にも尼崎に掴みかかりそうな勢いだ。

「こいつがいきなり絡んできたんだよ!」

怒り心頭の稲野が抗議する。

「ああ!お前がなな…」

と言いかけて尼崎は口をつぐむ。そして、

「…チッ!悪かったよ!突っかかっちまって。」

というと尼崎は背中を向けて教室を出て行ってしまう。

「ちょっと待てよ!」

怒り冷めやらぬ稲野はなおも追い縋ろうとするので、

「もうやめておけ!あとは俺に任せろ」

と引き留め、俺は尼崎を追いかける。

教室を出る時、尼崎が何か言いかけて止めた瞬間に見た方向を見てみる。

そこには、何やら妖しく微笑む綾瀬七海がいた。

その様子に、なぜか私は、背中に冷たいものを感じた。

 

その後、廊下を歩く尼崎を指導室に連れて行く。

尼崎を椅子に座らせると、

「何があった?言ってみろ」

真っ直ぐ彼の目を見ながら尋ねた。

尼崎はなかなか話そうとしなかった。

私は待った。

目線だけは彼から離さずに。

やがて根負けした尼崎は舌打ちし、小さく言った。

「…あいつがムカついただけっすよ」

直感で嘘だと分かった。

「お前はそれだけで、あんな騒動を起こす奴じゃ無いだろ」

本音だった。

入学以降、彼はちょくちょく問題行動を起こしていたが、それは全て彼の正義に基づいての行為だと私は思っている。

例えば、他校生と喧嘩した件もそうだ。

同じ学校の生徒が他校の生徒にカツアゲをされ、それを止めようとした生徒も殴られた。

それを聞いて尼崎は犯人探しのために盛り場をうろつき、犯人を突き止め暴力沙汰に至った。

うちの生徒の中には、そんな尼崎を慕う生徒も少なからずいる。

私も手段こそ問題はあったにせよ、彼の行動の原動力となったその心根については、彼の長所だと考えているのだ。

尼崎はそんな私の思いに気付いてか、意外そうに私を見ている。

そして、何かを口に出しそうになったが、

「いや、先生!悪い!やっぱり言えねぇんだ」

と口をつぐむ。

その様子から、誰かを庇っていると感じた。

「綾瀬か?」

単刀直入に尋ねる。

綾瀬の名を出され、

「え?いや…な、何の事だよ!七瀬?か、か関係無ぇよ」

分かりやすく動揺する尼崎。

やっぱり。

私は、嫌な予感が的中していた事に暗澹たる気持ちになる。

「お前さっき教室で何か言いかけて止めたろ。そん時お前がチラッと見た先に綾瀬がいたの見てたぞ」

わざと明るく言う。

沈黙。

しかし、観念したのか、フゥッーと大きくため息を吐いてから、

「綾瀬の奴が言ったんだよ」

そう言いながら、バツが悪そうに頭を掻いている。

「何をだ」

はっきりとさせなければいけない。使命感からさらに聞く。

「別に大したことじゃねえよ」

彼は目を逸らしたまま続けた。

「稲野の奴が行く先々に現れては話しかけてきて、ちょっと怖いってよ。それってアレだろ?ストーカー?って言うヤツ」

一度話し出すと止まらなくなったのか、尼崎の言葉に熱がこもり出す。

「俺もよお、『そんなに嫌なら話しかけるなって言ってやれよ』って忠告したんだけど、綾瀬のやつ、『彼、人気者だし、転校して日の浅い私が拒絶するのもちょっと怖い』ってさ言いやがるんだよ。だから俺も『なら俺がガツンと言ってやるよ』ってさ」

話し終わると、尼崎はしまったと言う顔になり、

「あ、でも綾瀬に迷惑かかると可哀想だからよ。この話はここだけの事にしといてくれよ。頼む」

と両手を合わせて懇願する。

私は

「分かった、分かった。でも次からは、手を出すんじゃなく口で言え!」

と尼崎を軽く嗜めた後、教室に帰るように言う。

尼崎は話してちょっとはスッキリしたのか、

「おう!」

と返事をして、指導室を出ようとする。

私は、

「後、稲野にも謝っとけ!」

と付け加えると、尼崎は一瞬嫌そうな顔をしたが、

「…分かった」

とボソリと呟いて指導室を出で行った。

それを見送りながら、まだまだこの手の諍いが増えてきそうだうんざりしていた。

 

彼女を呼び止めたのは、放課後だった。

最後の生徒が教室を出て、校舎が静けさを取り戻し始めた頃。

「綾瀬」

彼女はすぐに足を止めた。

まるで呼び止められる事が分かっていたかのように。

「あれ、せんせ、私も指導室ですか?」

悪びれることもなくニコリと笑いながら振り返る。

「少し、職員室までいいか?」

職員室、と聞いて綾瀬はすこしニヤリとする。

おそらく、得体の知れない転校生に対する私の警戒心に気付いたのだろう。

「はい」

そんな私の心の動揺を知ってから知らずか。彼女は素直に答えた。

職員室にはまだ半分ぐらいの教員が残っていた。

私と綾瀬が職員室に入ると、皆、綾瀬の容姿に一瞬ハッとするが、そこは教師、すぐに自分たちの業務に戻っていた。

兎にも角にも、そんな教員達の存在に勇気づけられながら、私の席に着くと綾瀬と対峙する。

窓の外では、運動部の掛け声が遠く響いていた。

私は自分の席に座り、彼女は私の前に立ったまま、こちらを見ている。

さてどうしたものか。

尼崎との約束もあるし、いきなり聞く訳にはいかない。

今日はあくまで様子見と、牽制だ。

教師が何かに気付いているぞと生徒に思わせておくだけでも問題行為の抑止になるのだ。

「すまんな、呼び出して。まあ、たいした話がある訳じゃないから気を楽にしてくれ。」

ひとまず私は綾瀬の事を何も知らない。

「どうだ、転校してから何日か経ったけど、困った事や、不都合はないか?」

あの日、尼崎と話した後、稲野とも話したが、ストーカー行為と思われる事は何も出て来なかった。

稲野も美人の転校生に興味深々だったが、まだ遠巻きに見ている程度という事だ。

確かに2度ほど話をしたとは言っていたが、2回ともむしろ綾瀬の方から声を掛けてきたらしい。

「えー?特には、無いかな」

いきなり例の喧嘩の件を聞かれると思っていたのか、拍子抜けしたように答えた。

「そうか、誰か仲の良くなった奴とか出来たのか?」

少し考えた後、嬉しそうに、

「うん、みんな良くしてくれるよ。特に伊藤さん、林さんはいつもお昼一緒に食べてるよ」

と教えてくれる。その時の表情が年相応の笑顔に見えて少しホッとする。

「そうか、それにしても今日はびっくりしたろ?いきなり尼崎と稲野が喧嘩おっ始めたから」

この話題に綾瀬が少し警戒する。

質問の意図を押し測っている気配があった。

刹那の沈黙。

しかし、すぐに綾瀬は口を開く。

「私、暴力って大っ嫌い」

その声には少し怒気が含まれていた。

でもすぐに、

「あの2人って、いつもああなんですかー。だったらちょっと怖いかもー」

といつもの雰囲気に戻っている。

「いや、普段はあんな事ないんだけどな。二人には注意したから安心しなさい」

と言いながら、今日はここまでだな、と考えていた。

とにかく今日は、

綾瀬は喧嘩への関与も、ストーカー行為についても話さなかった。

という事実が分かっただけで収穫だ。

その後、勉強どうだ?とか部活は入るのか?など話しをして帰って貰った。

これで多少は牽制になったんじゃないかなと考える。

中学生は多感な時期だから、いきなり踏み込んでしまうと良くない方向に振り切れてしまう事がある。

焦りは禁物だ。

しかし、先ほどの雑談の中で気になる事もあった。

以前の学校での事を聞いた時だ。

手元の資料には学校名しか記載されていなかったから気になって聞いたのだ。

こっちに転校するまでの2ヶ月間は通っていたはずの学校。

なのに綾瀬は、無表情に、

「分かりません」

と答えた。

私はそんな事無いだろうと、部活や友人の事を聞くと、

逃げ場のない目になり、

「先生は、知らないままでいた方がいいと思います」

と静かに言った。

まるでそれはそれ以上聞かない方が良いぞと忠告しているようであった。

 

その後も、クラスで仲の良かった男女が喧嘩を始めたり、

クラスで人気だった男子を誘惑しただとか、

綾瀬が幼馴染をパシリにしていると揉めたり。

その騒動の中に、必ず綾瀬がいた。

その都度、中を取り持ったり、誤解を解いたり、叱ったりと大忙しだった。

しかし、何故か綾瀬を恨む気にはなれなかった。

どうも彼女は自ら悪役を演じているように見えるのだ。

いつか本当の綾瀬を知りたいと密かに願っていた。

クラスメートの何人かも、そんな綾瀬の本質に気付いてか、協力してくれた。

6月の最後の方には、綾瀬の性格のキツイ悪役っぷりも、「ツンデレ」としてイジる場面すらあった。

それにつられて綾瀬も、少しずつ、本当に少しずつだが年相応の笑顔を見せるようになった。

 

そうこうしているうちに、1学期の学年末試験が行われる。

そこで、私は違和感を覚える。

綾瀬はあまり成績が良くなかった。

まあ、それは良い。

なにか歪なのだ。

例えば小学校5、6年で習う歴史については壊滅的だった。

そして、国語も読解力には全く問題ないのに、5年生以降に習う漢字は全くだった。

その癖、転校してからの漢字は完璧だった。

他の教科も同じ。

とにかく5年生から転校するまでの学力がすっぽり抜けているのだ。

私は不登校を疑い、前の学校の履歴等を調べようと前の学校に問い合わせたが、個人情報保護の観点から教えられないと先方に断られる。

 

そんなこんなで身動きが取れなくなっていた頃、

その日、私は職員室での仕事が長引いた。

保護者への連絡書類、生活指導の報告書、月末の会議資料。

時計を見ると、すでに午後六時半を回っていた。

急いで帰り支度をして校舎を出ると、外は薄暗くなり始めていた。

駅に向かう道すがら本屋に立ち寄ると、綾瀬を見かけた。

気まずさから引き返そうかなとも思ったが、逃げちゃダメだという教師の使命感と、本を読む綾瀬の顔が教室にいる時とは違い年相応の子供の顔だった事もあり、何をそんなに熱心に読んでいるのか気になり声をかける事にする。

本を覗き込むと「職業図鑑」という絵入りの、どちらかというと小学生が読むような本を読んでいる。

「なんだ綾瀬、何か気になる職業でもあるのか?」

本を覗き込んだ後ろめたさもあり、少しイタズラをしているような心持ちになる。

綾瀬は一瞬ギョッと言う顔を見せたが、相手がクラスメートではなく担任の私だった事で少し安心したのか、いつものツンとした表情になる。

「世の中には色んな仕事があるんだなって思って。」

その言葉に、どこか「自分には関係ない」というこの年代にはありがちな感覚があると感じた私は、

「そうだぞ。綾瀬もいつか働くようになる。何かなりたい仕事はあったか?」

と職業図鑑を指差して聞いてみる。

「えっ?私?…私、働けるのかな?」

いつものツンとした返答が返って来ると思っていたが、本当にそんな事考えた事もないという反応に少し驚きつつ。

「そうだ。日本はどんな仕事に就いたって良いんだ。今からならどんな仕事でもなろうと思えばなれるさ」

自分でもいかにも教師が言いそうなセリフだなと思いつつ、大事な事だと言葉にする。

「はは…やりたい仕事か…、でも私、ズルいし自分の事、優先しちゃう悪い人間だよ」

と言う。

「いいか綾瀬、ズルくて自分本位な人は、そもそも他人にその事を言わないものだ。その点、綾瀬は本当はズルくも自分最優先って人じゃないと先生は思う。」

真剣に話す俺の言葉を、キョトンとして聞いている綾瀬。

「それにな、世の中、ズルくて自分本位な奴ほど出世するんだぜ!本当に綾瀬が自分はズルいって言うなら将来は金持ちになってるかもな。」

私は笑いながらそう伝える。

「なら先生は出世しなさそう」

遠慮なく本当の事をいう綾瀬に、

「だから教師の道を目指した!」

と開き直る私。

「それ偉そうに言う事じゃ無いじゃん」

と綾瀬は笑った。

「それで綾瀬はどんな仕事がしたい?」

しばらく考える綾瀬。今度は真剣だ。

「私も先生になりたいな」

小さな呟くような声で言う。

「綾瀬なら余裕だろ。俺でもなれたんだから」

と笑う。

「うん!先生になれたんなら、私に出来ないはずはないよね!」

と悪ノリする綾瀬。

「こいつ!少しは先生を敬え!」

などと軽口を叩きながら本屋を出る。

 

ふと視線を感じて振り向くと、道路側に一台の車が停まっていた。

黒いセダンだった。

見慣れない車だった。

エンジンはかかったままらしく、わずかに振動しているのが分かる。

誰かの人を待っているのかな?

まあ、珍しいことではない。

だが、なぜか気になった。

ふと、私の後ろに立って綾瀬を見ると、顔が真っ青になっている。

彼女は慌てて急いで車に駆け寄る。

車の方は近づこうとはしない。

待っている。

綾瀬が近づくと、車の後部ドアが開いた。

綾瀬は何か後部座席の人と何か話している。

親御さんかな?

と思い、挨拶をしようと近づこうとする。

しかし、中から誰かが降りる気配はない。

あまり教師と関わりたがらない親御さんなのかな?と近づきあぐねる。

綾瀬はまだ中の人と話している。

何やら説明をしているような雰囲気だ。

しばらくその状態が続く。

ふいに綾瀬と中の人との会話が終わったようだ、と思っていると、私の方を向き、

「先生、私帰るね。バイバイ」

と言って車に乗り込んだ。

その時、チラッと見えた彼女の顔は、自分のうちの車なのに少し緊張しているように見えた。

彼女が乗り込むや否や車はそのままUターンして走り去っていった。

せめて通りすがりに頭を下げがてら親の顔を見てやろうと考えていた私は当てが外れて、ちょっと残念などと呑気に考えていた。

綾瀬の緊張した顔のことなど、その時にはもう頭に残っていなかった。

 

そのまま帰路に着いたが、ふと綾瀬の緊急連絡先を思い出す。

保護者名。

電話番号。

確か書いてあったはずだ。

分からなければ直接親御さんに聞いてみれば良い。

そんな軽い気持ちだ。

翌日、私は職員室の机に置いてあった出席簿を開いた。

綾瀬七海。

緊急連絡先は…、あった。これだ。

連絡先の保護者名は星穰一。

遠縁の親戚だと教頭から聞いている。

ふと、綾瀬の車に乗り込む時の少し緊張した顔を思い出す。

あまり、仲の良い関係ではないのかもしれないなと思う。

教師がいるのに車から降りても来ない保護者。

遠縁という事で遠慮があるのかもしれない。

だとすると、あまり電話をかけるのは良くないのかもしれない。

緊急連絡先の欄に書かれた番号を、私はしばらく見つめていた。

だが、私はついに受話器を取っていた。

番号を押す。

規則的な呼び出し音のコールが鳴る。

一回。

二回。

三回。

ガチャッ

繋がった。

『はい』

男の声だった。

低く、落ち着いた声。

私は一瞬、言葉を失った。

「…あの、私、一年三組の担任の者です。綾瀬七海さんの件で」

わずかな間。

『どうされましたか』

自然な受け答えだった。

「簡単な確認事項がございまして、少々お時間を頂いても宜しいでしょうか?」

出来るだけ機嫌を損ねないよう、丁寧に。用件を伝える。

『ハアァー』

心底、面倒臭いという感じのため息が聞こえた後、

『仕事で立て込んでおりますので手短にお願いします』

と答える星氏。

「以前、通われていた学校ですが、どんなご様子でしたか?ちゃんと通われていたのでしょうか?引き継ぎの資料が少なくて」

しばしの沈黙。

今度の沈黙は、明確だった。

考えている。

『事情がありまして』

相手は言った。

『しばらく、学校には通っておりませんでした』

心臓が、わずかに速くなる。

「どれくらいの期間でしょうか」

沈黙。

『さあ、私があの子を引き受けてから出すと半年ほどですかね。それ以前は分かりません』

それ以前?

「それ以前はご両親様のお宅にいらっしゃだだという事でしょうか?」

『ハアァー』

再びため息が聞こえるが、今度のため息には答えを間違ったという後悔の感情がこもっている。

『ああ、そろそろ宜しいですかな?少々忙しいものでね。必要な手続きは、すべて完了しているはずですが、何かございましたら、書面でご質問いただけますかな?』

男は言った。言葉は丁寧だったが、それ以上踏み込むことを明らかに拒絶していた。

『それでは切らせていただいて宜しいかな?』

確認ではない。

有無を言わせない断定の言葉だった。

『それでは失礼致しますよ。今後とも、よろしくお願いいたします』

通話は、そこで終わった。

切られたのか、切ったのか、分からなかった。

受話器を置いた後も、私はしばらく動けなかった。

少なくとも半年。

学校に通っていなかった。

しかし、それ以前もおそらく年単位で行っていないだろう。

義務教育の空白。

ありえないわけではない。

だが、一般的な不登校とは違う、何か綾瀬本人の意思とは違う意思があるように思えてならない。

何か嫌な予感していた。

 

次の日、綾瀬は学校に来なかった。

昨日の電話のこともあり、何か良くない事が起きている。

そんな不安が拭えない。

そんな気持ちで午前中を過ごす。

昼休みになり、再度、昨日の連絡先に電話をかけて聞いてみようかと悩んでいた。

そんな時、職員室の内線が鳴り、受話器を取る。

『応接室に来て下さい』

教頭の声だった。

理由は告げられなかった。

受話器を置いた瞬間、なぜ呼ばれたのか、私は理解していた。

応接室のドアをノックする。

「失礼します」

中から、

「どうぞ」

と教頭の声。

教頭は応接室のソファーに座り、にこやかにこちらを見ていた。

顔を上げ、穏やかに微笑む。

五十代半ば。

常に冷静で、声を荒げることのない人物だった。

「座ってください」

私は教頭に向かい合う形でソファーに腰を下ろした。

「先生、最近どうですか?」

教頭はすぐには本題には入らなかった。

「いやあ最近の生徒は難しくて往生しております」

私も当たり障りのない返答をする。

ふと、教頭の雰囲気がしんと冷たくなったように感じる。

「最近、綾瀬さんの件で、色々と気にかけていただいているようですね」

言葉の中に「余計なことを」という意味が含まれているように思えた。

「担任としてできる範囲ではありますが」

誤解をされないよう私は答えた。

その私の気持ちが伝わったのか伝わっていないのか

教頭はゆっくりと頷いた。

「もちろん、それは結構なことです」

穏やかな声。

「ですが」

そこで一度、言葉を区切った。

「一人の生徒に、過度にかかりきりになるのは、いかがなものでしょうか」

部屋の空気が、わずかに重くなった。

「いやはや、私自身この時期での転校生は何分初めての事でして…」

なんとなく予想はしていた。

「決して過度というほどでは…」

と言いながらも、ここ最近の自身の仕事を考えると、確かに彼女に振り回されている感は否めないなと心の中で自嘲する。

教頭は穏やかな顔のままで、

「以前の学校への問い合わせ」

と教頭は言った。続けて、

「保護者様への電話連絡」

淡々と、読み上げるように、さらに続ける。

「昨日は学校外で会っていたそうですね。」

私の心臓の鼓動がトクンと一際大きく高鳴った。

「いや、昨日は本当に偶然でして…」

本当の事なのに、冷や汗が出てくる。

そんな私に構わず、

「他にも先生の生徒さんからも特定の生徒への依怙贔屓があるという声がチラホラ上がっているみたいですよ」

穏やかな顔のまま、目だけはジロリとこちらを見つめる。

「私は、転校生が少しでもクラスに馴染めるようにと…」

確かにクラスの女子から浮き始めていた彼女をフォローはしていた。

そのせいでクラスの一部から不満が上がりつつあるのも承知している。

しかし、それはクラスで揉め事が起きないよう私なりに最善の…。

と考えながらも、本当か?という疑念が頭の反対側で湧き起こる。

フォローと言いながらも私は綾瀬七海に魅了されてしまっていたんじゃないか?

しかし、あれは問題を抑えるためには仕方のない…

教頭に説明をしながらも、などと頭の中でグルグル考えていた。

「ああ、もちろん、分かってます。分かってます。」

私の混乱する思考を中断する様に教頭が声を掛ける。

「先生が一生懸命やっていただけているのを、私はちゃんと分かっていますよ」

宥める様な、優しい口調だった。

私を見る教頭の目は、穏やかだった。

ただ若干「私は」という部分が気になった。

「ただ本校は、正式な手続きを経て、綾瀬さんを受け入れています。それだけは忘れないで下さい。」

言葉は丁寧だった。

しかし、これ以上の詮索は無用だと言うふうにも聞こえた。

「先生の熱意は理解しています」

教頭は続けた。

「ですが」

噛んで含めるように教頭はいう。

「他の生徒にも、同じように目を向ける必要があります」

正論だった。

反論の余地のない。教育者として、正しい言葉。

だからこそ、私はそれ以上、何も言えなかった。

教頭は少しだけ身を乗り出した。

「綾瀬さんについては」

静かに続ける。

「学校として、問題はないと判断しています。先生も宜しいですね?」

これは学校としての判断なのだと、

お前も学校という組織の一員ならこれ以上余計な事はするな。

そういう事なのだろう。

「…分かりました」

私は答えた。

それ以外に選択肢はなかった。

教頭は満足そうに頷いた。

「よろしくお願いしますよ」

最後に再び念を押した後、話は終わった。

 

応接室を出る。

ドアを閉めた瞬間、背中が汗でびっしょりになっている事に気がつく。

廊下はいつもと同じだった。

生徒の声。

足音。

その音の中にいながら、あと一歩進んでいたらこの日常には戻れなかったのだと、私は理解した。

綾瀬の保護者は、学校側に大きな影響力を持っているようだ。

私が考えているよりも、ずっと深く。

昨日の私と綾瀬の様子を見た彼女の保護者が邪推したのかもしれない。

誤解なのだけど、それを解く術は私にはないし、この事にこれ以上関わるべきではない。

今は極力、綾瀬に関わらない。

学校側が私に期待している事はそういう事だ。

綾瀬の前の学校での事も、私が知らされていないという事は知らなくても良いという事なのだ。

そう自分に言い聞かせる。

一度クビになった教師を他の学校は雇いたがらない。

かと言って今更、民間企業で通用する様なスキルなんて持ち合わせていない。

私は、失業する訳にはいかないのだ。

何、気にするなというなら気にしなければ良いだけの事じゃないか。

何かをしろという訳じゃ無い。

簡単な事だ。

私は何度もそう自分に言い聞かせた。

 

そんな事を考えながら、応接室を出た瞬間、息が詰まった。

廊下の先。

窓際に、綾瀬七海が立っていた。

まるで、最初からそこにいたかのように。

関わらないと決めたばかりなのにと

逃げ場はなかった。

彼女は私を見ると、小さく笑った。

「先生、ごめんね」

その言葉に、私が彼女を避けようとしているのがバレたのかと内心焦る。

「私のせいで怒られちゃったんだよね」

予想に反して、その声は、申し訳なさそうだった。

少し、その顔にこちらが恥ずかしくなる。

彼女は一歩、こちらに近づいた。

彼女の目が腫れぼったく見える。

その視線に気付いてか、

「星さんにちょっと怒られちゃった」

と言い、綾瀬はイタズラがバレた子供のようなに舌を出した。

しかし、よく見ると右手の甲に包帯を巻いている。

思わず、手の甲を取って見ようとしたが、その瞬間、関わるなと忠告してくれた教頭の顔を思い出し、出した手を不自然に引っ込めてしまう。

その様子を見て、綾瀬は一瞬目を見開いたがすぐに作り笑いを浮かべて、

「ハハハ…」

と力無く笑った。

その表情の下にあるものを、私は知っていた。

それは、諦めだった。

そして、深い、深い失望。

もう私は、目を合わせる事すら出来なかった。

「…すまん」

目を逸らしながら、それだけを、何とか絞り出した。

教師としてではなく、一人の、大人としてすら不甲斐ない自分で申し訳無かった。

少しだけ間をおいて、綾瀬は小さく息を吐いた。

そして、

「だから知らない方が良いよって言ったのに」

責める声ではなかった。

確認するような声だった。

「あーでも」

彼女は窓の外を見た。

「私、多分、転校になるんだろうなー」

軽い口調だった。

「結構、この街、気に入ってたのにな」

と呟く。言葉の最後の方は少しくぐもった声になっていた。

そして、笑顔を見せてくれた。本当の年相応の子供の笑顔。

「先生、私、ちゃんと学校の先生になるからね」

と言いながら後ろを向く。

後ろを向く時、目の辺りにキラリとした物が見えた。

「じゃあね」

振り返りもせず、綾瀬はそのまま帰ってしまった。

視界から遠ざかる綾瀬を、臆病な私は呼び止める言葉さえ無くして、ただ見送るだけだった。

 

次の日、綾瀬は転校して行った。

あっけないものだった。

しばらくは私も義憤のような、拍子抜けしたような、モヤモヤした気持ちでいたが、数ヶ月もすると元の日常の中にいた。

しかし、その年年末に行われた職員たちの忘年会の席で酔った教頭から、再び綾瀬の名を聞く。

「いやあ、あの娘はとある方から預かった賓客だったのに先生が余計な事調べるから、あの時は焦ったよ。先生も結構危ない立場だったんだよ」

と口を滑らせる教頭。

この機を逃す者かと、教頭に酒を勧め、ついに綾瀬を預けたという人物の名を聞く。

私もニュースで聞いた事があるその名。

久遠トラスト金融株式会社代表取締役 恵府院・J・自由。

彼はとある罪で刑務所に送られ、そこで謎の死を遂げたという。

確か、今年の夏の終わり頃だったと思う。

自殺だったとか。

自殺した時間帯の防犯カメラのデータが無かった事で、ネットで暗殺説がまことしやかに語られていたので覚えている。

その男の罪は未成年者不純異性行為。

その罪で人生を数回刑務所で送らなければならないほどの懲役を受けた。

規模が大きかったのだ。

彼の保有する島には数百人規模の未成年少女が軟禁されており、そこでその男のみならず、その男が招いた資産家や政治家、大学の教授などの著名人たちの相手をさせられていたという。

その男はそれにより各界より巨大な後ろ盾を持っていた。

彼は3桁に及ぶ年数の懲役を喰らいながら、それの権力を使って出所する気だった。そして、その時のために、少女の中からお気に入りの子を数名、警察の目を掻い潜り隠したという。

その一人が綾瀬七海だったのだと。

金と権力でがんじがらめにされ、逃げる事も、助けを呼ぶ事も出来なかった少女。

私は自分の無力さを痛感しする。

しかし、その時は教頭の

「まあ恵府院氏も亡くなったし、実家に戻されてるんじゃ無い?」

という言葉を信じて、綾瀬のこれからの未来が幸福である事を願った。

 

しかし、10年ほど後、テレビのニュースで大人になった綾瀬を見つける。

あの頃と容姿が殆ど変わっていなかったからすぐに分かった。

ニュースによると彼女自身、資産家星穰一の愛人だったようだ。その星氏のもと、数名の未成年の少女を集めて、別の資産家や政治家、大学教授などの著名人達にあてがっていたらしい。

その事件で、主犯の星氏と一緒に捕まったのが綾瀬七海だった。

ニュースでは数年前にとある資産家が起こした事件との類似性を指摘していた。

そのニュースに私は愕然とした。

彼女は逃げられ無かったのだ。

恐らく恵府院氏の客の1人である星穰一が島での快楽と権力の味を忘れられず、あの男と同じ事をやったのだろう。

しかも、被害者の1人である綾瀬まで使って。

私は怒りで目の前が真っ暗になった。

しかし、何も出来ない私は

「クソッ!クソッ!」

と地面を叩いて泣く事しか出来なかった。

 

後日、綾瀬の初公判があると言うので裁判所を見に行く。

一言謝りたい。

自己満足なのは分かっている。

それでもじっとしていられなかった。

被告席に綾瀬が連れて来られる。

私は思わず、

「綾瀬!」

と叫んでしまう。

その時の、綾瀬は確かに私の方を見た。

しかし、そこには大人びていながらもまだ少女の部分を残したあの頃の綾瀬はいなかった。

容姿はあまり変わっていないのに、何か魂が違うのだ。

声に反応し、こちらを見た。

こちらを見た綾瀬の目を見て愕然とする。

綾瀬は暗く澱んだ目をしていた。

何にも興味はない、何も写してはいないそういう目だった。

しかし、その目が私を捉えた瞬間、彼女は絶叫しながら暴れ出す。

絶叫の中、

「先生に見られた!先生じゃ無い!最低になった私を見られた」

と繰り返し叫んでいた。

その時、理解した。

綾瀬は先生になるという夢を忘れてなかったのだ。

しかし、悪夢のような現実の中で、私だけは彼女が教師になっていると、私の中だけには学校の先生となって活躍する自分が存在しているという事を支えに生きてきたのだろう。

そんな私が今の綾瀬を知ってしまった。

そして、その事を綾瀬も知る。

私は彼女の支えすら壊してしまったのだ。

一人の生徒を救えなかった私が、彼さらに女にトドメを刺したと自覚する。

ここにくるべきでは無かったのだ。

後悔に私も叫ぶ。

謝罪の言葉を叫びながら、涙を流す。

慟哭する私に裁判長が退廷を申しつける中、ただただ泣き叫んでいた。

 

後日談

その後、私は綾瀬の足跡を辿った。

贖罪の気持ちもあったし、知る事で自分を痛めつけようと言う自責の念もあった。

彼女は町の小さな工場を経営する男の三人姉妹の長女として産まれた。

工場は、家族と数人の従業員のみで細々とやっていたが、不景気の煽りを食らい経営が行き詰まる。

その時、彼女は島に差し出されたようだ。

その後、工場は持ち直し、今では30人程度の従業員を抱えるほど成長している。

まあ、その成長を娘を人身御供に差し出したおかげだとまでは綾瀬の父親も言わなかったが、

「あの子のおかげで従業員達を食わしてやる事が出来た」

と感謝をしていた。時系列的にもかなりの利益供与があった事は間違いないだろう。

ともかく、そうして島に差し出された綾瀬は地獄を見る。

島とは世間から「乱交島」と呼ばれる悪名高き島。正式名称は小聖慈恵結島。

元々は恵府院氏の個人的な趣味から作られた島だった。

しかし、外部から人を招き、同じ行為を共有する事により、相手と共犯関係になれると知ってから恵府院氏は政財界、マスコミ等々多くの人を島に招く様になった。

共犯意識を持つ事で、お互いが紳士協定として島での秘密を漏らさない。

というのが表向きの理由であるが、これは罠だ。

この秘密とは別に島での行為のみに限定できるものではないのだ。

他の罪で恵府院氏が逮捕されてしまうと、芋蔓式に島の悪事もバレる。

結局、島に来た人達は恵府院氏のありとあらゆる犯罪行為に目をつぶらざるを得なくなってしまった。

そんな目的があったので恵府院氏は精力的に著名人や権威のある人達を島に招いた。

当然そうなるとまとまった数の少女が必要になる。

綾瀬もそのくらいの時期に島に送られた。

島で性の奉仕をさせられる。

それを承知で、両親に「行く」と、志願したらしい。

両親や従業員たちを救いたい一心だったようだ。

しかし、綾瀬も多くの人々と同じく、少女性愛者の本当の怖さを知らなかった。

まだ10代になったばかりの彼女が、脂ぎったジジイたちの相手をさせられと言うだけでも身の毛がよだつが、実際はそんな生優しいものじゃない。

いわゆるロリコンと呼ばれる人達を「幼児性」などと生温く矮小化して世間では言う事が多いが、実際はもっと凶悪である。

彼等の欲望の根源は恐ろしく肥大化した「支配欲」なのだ。

そして、その支配欲が「自分より若さという可能性を持つ存在」に大きな傷を残す事で、その支配欲を満たしている。すなわち彼等の行動には「可能性の搾取」と「傷付ける」が必ず伴うという事だ。

ここに恵府院氏の誤算があった。

相手が自分の犯罪行為に目をつぶるという事は、自分も相手の犯罪行為に目をつぶらざるを得ないという事だ。

少女達を名前ではなく番号で呼ぶ様になったのも不味かった。

元々少女をどうこうする趣味のない人間を共犯関係に巻き込む為に、名前ではなく番号、すなわち人としてではなくて、商品として扱う事で罪悪感を軽減させ行為へ誘導する為の処置だった。

しかし、罪悪感の軽減は、元々支配欲を満たす者達のブレーキをも壊すことにつながった。

島では異常性愛者たちの暴力による、少女達の怪我や絶命が日常化した。

賢い子だった綾瀬は、生き残る為に恵府院氏に擦り寄る。

彼の好みを調べ上げ、彼の前でその通りに振る舞う。

ただでさえ容姿の優れた綾瀬が、恵府院氏のお気に入りになるまでにそれほど時間はかからなかったという。

他の少女が番号で呼ばれる中、綾瀬だけは「七海」と名前で恵府院氏は呼ぶ。

周りから一目置かれ、命の危険は去った。

しかし、その事が今度は綾瀬を苦しめる。

世間的に見ると綾瀬も恵府院氏の相手をしなきゃいけない訳だから、立派に被害者なのだが、自分だけ命の危険がない立場にいる事を許せなかったようだ。元々綾瀬は優しい子だったのだ。

それが他の少女を押し退け、自分が恵府院氏の愛妾におさまる。

他の少女が傷つき、倒れる中で、自分だけ安全圏にいる。

綾瀬は自分は悪い人間だと自分を責めるようになった。

私の生徒になった頃、綾瀬が悪い子を演じていたのはこの延長だったのだろう。

 

さて、綾瀬の葛藤とは関係無く、彼女の周辺は大きく動く。

恵府院氏の作り上げた地獄のような楽園は、血に塗れた本当の地獄と化していた。

しかし、それでも維持しなければならない。

共犯関係が終われば、恵府院氏の悪事を隠蔽する手段は無くなるからだ。

島を維持する為には、怪我や死亡などにより出た欠員を補充しなければならない。

ただでさえ少女との性行為は違法である。

島に少女を集めるのは相当の困難があっただろう。

しかし、度重なる人集めに少しづつ麻痺していったのだろう。

その上、ただでさえそんな島に自らの子供を送るなんてまともでは無いのに、命の危険まであると広まっては人を集めるなんて不可能に近い。

徐々にその方法は乱暴かつ単純になっていく。

結局、警察上層部の抑えも効かなくなり、恵府院氏の犯罪が露呈してしまい、恵府院氏は刑務所へ。

多くの共犯者がいたはずだが、恵府院氏の謎の死により真相は闇の中に。

 

恵府院の死後、身元引受人だった星穰一にそのまま引き取られ、愛人となった。

恵府院氏のお気に入りの少女を我が物にする。

星氏の最初の動機はそんな所だったのだろう。

綾瀬も愛人という立場ではあったが、命の危険が無い分まだ比較的マシだったようだ。

自分の代わりに誰かが傷付かずに済む。それだけで苦しまずに済んだ。

しかし、ロリコンの愛人の寿命は短い。

歳を重ねるごとに、少しずつ扱いが悪くなる。

綾瀬は実家の為、また、切り捨てられないようにする為、成長抑制剤を服用して容姿の保全に努めた。

それでも、性的な相手をしている分にはまだ大事にされた。

時を同じくして、恵府院氏の愛妾を引き受けた事により、星氏の注目が上がっていた。

元々恵府院氏と共犯関係を結ぶほどに星氏にも財力と権力があった。

恵府院氏の後継者として次の楽園を欲していた元共犯者たちに祭り上げられたのだ。

多くの権力や財力が集まる中、星氏にとって綾瀬の存在は大きくなり、成人である18歳を過ぎた辺りから性的な関係は無くなったが、切り捨てられずに済んだ。

しかし、着々と第二の小聖慈恵結島を作るべく動いていた星氏の元に少女たちが集められるようになる。恵府院の手法に倣って規模は彼ほどではないにしろ、共犯者抱き込みの為の施設の整備が進められる。

再び、少女達が犠牲になる日々が始まる。

その事が綾瀬を追い込んだ。

その上、第二の小聖慈恵結島を作り上げた星には、もう綾瀬という以前の様の主の残滓は必要ない。

少女達を守る為。

自分の命を守る為。

綾瀬は少女達の管理を引き受ける事になる。

少女達の教育や躾。

危険な客を見抜き、この島から排除する。

客の好みを調べ、最適な少女をあてがう。

それが綾瀬の仕事だった。

恵府院氏の失敗を見ていた星氏もこれを容認した。

しかし、どんなに制限しても、どんなに相手をリサーチしても、性接待の性質上、密室で行われる為、取りこぼしが出てしまう。

その都度、綾瀬は壊れていった。

そして、死亡者が両手で数えきれなかなった頃、やっと警察が動いた。

リークしたのは綾瀬であった。

 

第二の乱交島での綾瀬を知るという被害者の一人の話を聞くことが出来た。

「綾瀬さんには本当にお世話になった。逃げ出そうとして捕まった子達も、酷い目に合う所を、商品は大事に扱えって庇ってくれたし、食事や寝床なんかも、ちゃんと整えてくれたのは綾瀬さんっで聞いた。あっそうそう。時間が空いた時なんか、みんな集めて、勉強会とかやってくれたっけ。皆んながふざけて『綾瀬先生』って呼んだら嬉しそうにしてたな」

被害者の少女が話している。

それを聞きながら、私は

「ちゃんと先生やれてだじゃないか」

と、綾瀬の嬉しそうな笑顔を思い浮かべていた。

私の頭の中に浮かんだ彼女の笑顔は、あの日本屋で「先生になりたい」と言ってた時と全く同じだった。


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