霞が関駅の地上へ出た瞬間、冬の空気が肺の奥まで鋭く入り込んだ。
僕は小さく息を吐く。
白い霧が口元からゆっくりと流れ出る。
母に頼まれた父の着替えを手に、警察庁へ向かう途中だった。
念のため父へ電話を入れる。
ぴ、ぴ、ぴ――
『留守番電話サービスに……』
僕は眉をわずかに寄せた。
「……珍しいな」
父は会議中でない限り電話に出る。
それが出ない。
胸の奥に、ほんのわずかな違和感が沈殿する。
警察庁の受付へ入ると、そこには奇妙な光景があった。
揉めている。
受付の男と、ひとりの女性。
遠目にも分かる。
黒いロングヘア。
背筋の伸びた立ち姿。
声の調子は決して荒くない。
だが、言葉には揺るぎがない。
――本部と昨日約束をした。
――それなのに本部に誰もいないのはおかしい。
そんな主張をしているようだった。
僕は立ち止まる。
――本部に誰もいない。
その言葉が頭の中で反響する。
父の電話は留守電。
そして本部は空。
……何かが起きているのか。
僕は受付に着替えを渡した。
すると受付の男が僕に向かって話し始める。
保険金殺人事件の話。
以前、僕の助言で解決した事件だ。
それをこの女性の前でわざわざ話す。
そしてこう聞いてきた。
「キラ事件も推理しているのか?」
僕は軽く笑った。
「ええ。うまくいけばLを出し抜けるかも」
その瞬間だった。
女性の視線がこちらへ向く。
僕はその目を見た。
――大きい。
だが、それだけではない。
瞳の奥にあるもの。
それは単なる好奇心ではない。
決意。
執念。
何かを必ず達成する人間の目。
その種類の目を僕はよく知っている。
なぜなら。
僕自身が同じ目をしているからだ。
僕は自然な調子で言った。
「父はキラ事件本部の長なんです。よければ取次ぎますよ」
受付の男が横で小言を言う。
一般人にそんなことを、と。
だが僕は気にしない。
そして女性をもう一度観察する。
顔の筋肉。
呼吸。
立ち方。
焦りはある。
しかし、混乱はない。
理性が勝っている。
――信用できる。
少なくとも、軽率な人間ではない。
「この女性は信用できます。目を見れば分かります」
僕はそう言った。
半分は本当。
半分は計算だ。
女性は軽く頭を下げた。
外へ出る。
冬の街を歩きながら、僕たちは話し始めた。
キラ事件。
彼女の言葉は驚くほど整っていた。
推理の筋道。
情報の扱い方。
仮説の組み立て。
どれも素人のものではない。
そして彼女は言った。
キラは顔と名前が必要だと。
そこまでは警察と同じだ。
だが。
それ以上の能力がある、と。
僕は一歩先に進んでみた。
「キラは、人を殺すだけでなく死ぬ前の行動も操れます」
女性は歩みを止めた。
そして僕を見た。
その視線には驚きがあった。
「私と同じ考えを持っていたなんて……」
僕は内心でわずかに驚いた。
そして彼女は続ける。
「それだけじゃない。キラは心臓麻痺以外でも殺せる」
僕の背中を冷たいものが流れた。
冬だというのに。
汗が一滴落ちる。
――心臓麻痺以外。
それは僕自身すらまだ考えていなかった。
しかし。
言われてみれば。
理屈は通る。
キラが能力の条件を隠すなら。
あえて心臓麻痺を基本にする。
そうすれば。
事故死や自殺は誰も疑わない。
僕は思う。
この女。
鋭すぎる。
「知り合いがキラに会っています」
その言葉に僕は止まった。
キラに会った?
そんな馬鹿な。
「FBI捜査官でした」
そして。
「私の婚約者です。そして彼が調べていた人物こそが……キラ」
彼女は続ける。
バスジャック。
8時間前のコンビニ強盗。
その後のFBI死亡。
すべてを一本の線で結ぶ。
僕の脳裏にある顔が浮かぶ。
――レイ=ペンバー。
僕は表情を歪める。
だが。
その裏で僕の思考は高速で回転していた。
――推理はほぼ正しい。だが……
真っ白な情景の中に、僕たち二人の影だけが浮かんでいた。
雪だ。
空から落ちる白い粒が、街を静かに覆い尽くしている。
歩道も、街路樹も、車道の端も、すべてがぼんやりと白く滲んでいる。
僕と彼女は、その中を並んで歩いていた。
高層ビルの影に入ると、急に空気が冷たくなる。
僕は無意識にポケットへ手を入れた。
――結論は間違っている。
推理の過程は、ほぼ真実だ。
僕は彼女の横顔をちらりと見た。
この女は、危険だ。
もし――
キラ=Lならば。
彼女は始末される可能性がある。
いや。
それだけではない。
死の時間や行動を操れるならば、
婚約者を失った女性という状況は、むしろ都合がいい。
絶望した婚約者。
自殺。
そういう筋書きに仕立てることも可能だ。
つまり。
彼女は、簡単に消される。
(警察にこの情報が伝わってはいけない)
僕は瞬時に結論を出した。
だが。
問題はそこからだった。
彼女を警察へ行かせない。
そのための言葉が――
すぐに思いつかない。
これは珍しいことだった。
僕は基本的に、会話の組み立てを瞬時に作れる。
だが今回の相手は、
警戒心が強い。
下手な言葉を使えば、
むしろ疑われる。
だが――
時間さえあれば。
誘導できる。
その自信はあった。
僕は道路脇で立ち止まった。
ポケットからメモ帳とペンを取り出す。
「あなたの話をもう一度、よく検証したいのですが……」
彼女は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
それから僕は、彼女の話を整理する形で質問を続けた。
バスジャック事件。
そして――
彼女の名前。
間木照子。
彼女は淡々と話していた。
声は落ち着いている。
表情も変わらない。
隙がない。
まるで。
書類の報告でもしているかのようだ。
(これ以上は同じ話になる)
僕はそう判断した。
そして。
彼女も同じ結論に達したらしい。
「そろそろ戻ってみます」
彼女は言った。
「もう誰かいるかもしれません」
「えっ」
思わず声が出た。
――くそっ。
引き止めるのも不自然だ。
どうする。
このままじゃ。
落ち着け。
相手は女だ。
最悪の場合――
力づくで。
(馬鹿な)
僕はすぐにその考えを打ち消した。
今日は正月。
普段より人は少ないが、
それでも周囲に人はいる。
それに。
Lがキラというのは、
あくまで可能性だ。
まだ確定ではない。
しかし。
僕は歩きながら考え続けていた。
そのせいか。
気がつくと。
彼女との距離が少しずつ離れていた。
白い雪の道の中で。
彼女の背中が、ゆっくり遠ざかる。
そのとき。
僕の中で。
奇妙な感覚が生まれた。
――彼女をLの所へ行かせてはいけない。
理由は説明できない。
いわゆる。
男の直感。
だが僕は、直感というものを非合理的だとは思っていない。
むしろ逆だ。
直感とは。
人間の脳に蓄積された膨大な情報と経験が、
一瞬で計算を終えた結果だ。
つまり。
最も合理的な答えが瞬時に出ている状態。
僕は足を止めた。
その瞬間。
頭の中で、何かが繋がった。
そうか。
女の直感を使えばいい。
現時点で。
彼女は僕を信用していない。
興味もない。
それは彼女の話し方で分かる。
淡々としている。
感情がない。
まるで事務処理だ。
だが。
もし。
彼女が興味を持つ話をすれば。
そして。
彼女自身の心情を細かく読み取りながら、
その感情をくすぐり続ければ。
突破口は生まれる。
そして。
彼女が。
女の直感で僕を信用できると判断すれば。
警察には行かない。
僕は彼女に声をかけた。
「本部に誰もいないというのは、おかしいと思いませんか?」
彼女は振り向いた。
「ええ」
少し考えてから言う。
「変だとは思いました」
(よし)
僕は心の中で頷いた。
まず「はい」と言わせる。
それが重要だ。
一度肯定させれば、
次の話は自然につながる。
たとえそれが嘘でも。
一貫性が生まれる。
僕は言った。
「キラ事件の捜査本部は」
「担当する人間が分からないシステムを取っているんです」
本当は知らない。
だが。
父さんに電話が繋がらない。
受付ですら居場所が分からない。
この状況から考えれば――
その可能性は高い。
そして。
偶然にも。
それは事実だった。
彼女の表情がわずかに動いた。
ほんの少し。
だが確実に。
心が揺れた。
(まだだ)
僕は思った。
まだ足りない。
彼女は簡単な女ではない。
もっと。
押す必要がある。
僕は彼女の情報を思い出した。
婚約者。
FBI。
殺された男。
そのとき。
閃いた。
そうだ。
これだ。
***
「捜査している人間が、一般人でも分かるようなずぼらな体制では――」
僕はゆっくり言葉を選びながら続けた。
「あなたの婚約者を襲った悲劇を、また繰り返すこともある」
雪は相変わらず静かに降っている。
その白い静寂の中で、僕の声だけが妙にはっきり響いた。
「だから警察庁で“本部に誰もいない”と言われたんです。警察庁の受付の人間ですら、本部の人間がどこにいるか知らない。つまり……」
僕は頭の中で、物語を組み立てていた。
筋が通る物語。
人は論理よりも、
納得できる物語に動かされる。
そして。
僕はあえて――
婚約者の話を出した。
悲劇。
その言葉は、彼女の心の奥に触れる。
悲劇を繰り返してはいけない。
それはきっと、
彼女が一番強く思っていることだからだ。
「永遠に」
彼女が言った。
「直接話をすることはできないということですね」
彼女は僕の目を見つめていた。
じっと。
逃げ場のない視線。
その瞳には、
ただの悲しみではない。
強い意志が宿っている。
――流れが変わった。
僕は確信した。
彼女は。
どうしてもキラを捕まえたい。
そして。
今、僕の話に食いついた。
ならば。
ここでやるべきことは一つ。
沈黙。
僕は何も言わなかった。
沈黙は、相手に質問を生ませる。
人は空白を埋めたくなる。
そして案の定。
彼女は口を開いた。
「なぜ、そんなに詳しく知っているんですか?」
来た。
僕の目がわずかに見開かれる。
「それは……」
僕は大きく息を吸った。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
ここが正念場だ。
「僕も」
「捜査本部の一員だからです」
言葉は静かに出た。
しかし。
その一言は大きい。
僕は続けて説明した。
父が捜査本部の長であること。
そして。
高校生のときに二つの事件解決に関わったこと。
その結果。
特別に出入りを許されていること。
普通なら。
信じない。
高校生が捜査本部に出入りするなど、
荒唐無稽だ。
だが。
今回は違う。
彼女はすでに。
警察庁の受付で聞いている。
事件解決の話。
そして。
僕が夜神局長の息子であること。
つまり。
警察側の人間が、
僕の存在を認めている。
コネ。
そして実力。
その両方があるなら。
捜査本部にいてもおかしくない。
彼女なら、そう考える。
僕は心の中で安堵した。
これで。
うまく誘導すれば。
彼女がLに近づくことを防げる。
そう思った。
その瞬間だった。
「私も」
彼女が言った。
「二年前、アメリカのある事件でLの下で働いたことがあります」
僕の思考が止まった。
「この人は信頼できる」
彼女は言った。
「どんな事件でも、必ず解決してくれると確信しました」
「!!!!」
僕の中で何かが弾けた。
「Lの下で働いた!?」
「つい三か月前まで」
彼女は淡々と言う。
「私もFBIの捜査官でしたから」
――これだ。
僕の思考が一瞬で回転し始めた。
利用できる。
「なるほど……」
僕は感心したように言った。
「どうりで」
「キラを追う姿勢や行動が、素人とは違うと思っていました」
彼女を見つめる。
「核心に迫りながらも、常に慎重で賢明だ」
僕は微笑んだ。
「僕も見習いたいところです」
――相手を褒める。
持ち上げる。
これは。
父さんの部屋にあったゲームで学んだことだ。
女の子を攻略するゲーム。
あれは案外。
現実にも応用できる。
「あなたには」
彼女が言った。
「Lに似たもの……近いものを感じました」
その言葉は。
不思議な重みを持っていた。
二人は。
容姿も。
性格も。
まるで違う。
だが。
辿り着く思考の先は、同じ。
「!」
僕の胸の奥が一瞬ざわめいた。
――Lと同じ。
もし。
Lがキラなら。
僕も。
きっかけさえあれば。
キラになっていたかもしれない。
確かに僕は思ったことがある。
犯罪者がいなくなればいい。
だが。
だからといって。
犯罪者だとしても。
命を軽々しく奪っていいわけではない。
しかし。
彼女の言葉には。
妙な重みがあった。
僕は考えるのをやめた。
今は。
余計な思考は邪魔だ。
僕は彼女を見つめた。
そして。
自然に。
言葉が出た。
「一緒に捜査しませんか?」
自分でも驚くほど。
言葉は滑らかだった。
喉の奥から。
すっと出てきた。
僕は続けた。
運命。
偶然。
出会い。
そういう言葉を巧みに織り交ぜながら。
彼女の心を押していく。
そして。
彼女は。
少しずつ。
その気になっていった。
念のため。
僕は言った。
「身分証を見せてもらえますか」
彼女は迷わず差し出した。
それを見た瞬間。
僕は確信した。
この女は。
できる。
カードに書かれていた名前。
それは。
美空ナオミ。
偽名を使った理由など。
聞くまでもない。
その程度の慎重さを持つ女だということは――
もう。
十分に分かっていた。
***数日後***
一月八日。
冬の空気は、どこか乾いた硝子のように澄んでいた。
僕は玄関の鍵を回した。
金属が擦れる小さな音が、妙に耳に残る。
ガチャリ。
その音と同時に、僕はほんのわずかに呼吸を整えた。
ドアを押し開ける。
家の中は、いつも通りの静かな空気に包まれていた。
母さんの声も、さゆの笑い声もない。
ただ暖房の微かな唸りだけが、家の奥から流れてくる。
僕は靴を脱ぎ、ゆっくりと階段へ向かった。
一段。
また一段。
階段を上るたび、木の板が小さく鳴る。
その何でもない音を聞きながら、僕は考えていた。
。
二階の廊下に出る。
自分の部屋の前に立つ。
そのときだった。
僕の手が、ドアノブに触れる直前で止まった。
――違う。
ほんのわずかだ。
だが。
違和感。
説明はできない。
しかし、僕の神経が何かを告げていた。
ドアノブの位置。
わずかな角度。
廊下に落ちている折れたシャープペンシルの芯……
(やはり)
そして、何気ない動作でドアの隙間を確認する。
確信した。
誰かが。
入っている。
ドアを開ける。
部屋の空気が、わずかに変わったような気がした。
もちろん。
一見すれば何も変わっていない。
机も。
本棚も。
ベッドも。
すべて元通りに見える。
だが。
僕は部屋の中をゆっくり見回した。
本棚。
机。
引き出し。
視線だけで確認していく。
(戻してある)
しかし。
ほんの数ミリ。
位置がずれている。
普通の人間なら気付かない。
だが。
僕には分かる。
(家族じゃない)
母さんやさゆなら、こんな探り方はしない。
父さんなら、もっと堂々とする。
つまり。
第三者。
僕は静かに私服へ着替えた。
鏡の中の自分を見る。
表情は、いつも通り。
何も知らない青年。
だが頭の中では、思考が高速で回転していた。
――尾行もついているのか。
その可能性はある。
僕はコートを手に取った。
そして。
さりげなく。
隅々まで調べる。
ポケットの裏。
縫い目。
襟の裏。
ボタン。
盗聴器が仕込まれていないかを確認する。
(ない)
少なくとも、このコートには。
だが。
安心はできない。
僕はスマートフォンを取り出した。
そしてLINEを開く。
通話ボタンを押す。
数秒の呼び出し音。
その間にも、僕は考えていた。
(カメラ)
(盗聴)
(L)
もし僕がLなら。
どうする?
答えは簡単だ。
両方だ。
通話が繋がった。
僕は静かに言った。
「美空さん……」
声は落ち着いている。
いつも通りの調子で。
「家に監視カメラか盗聴器……」
一瞬だけ言葉を止めた。
そして続けた。
「いや」
「どうせなら両方だろう」
窓の外では、冬の光が静かに街を照らしている。
僕はカーテン越しに外を見た。
誰かが見ているかもしれない空。
「仕掛けられた可能性がある」
そう言った瞬間。
僕の胸の奥で、
一つの感覚がゆっくりと形を持ち始めていた。
***
公園の空気は冷えていた。
冬の午後は、どこか現実感が薄い。
白い空。
乾いた木々。
遠くで遊ぶ子供の声。
そのすべてが、まるで舞台装置のように思える。
僕はベンチに座りながら、スマートフォンを耳に当てていた。
その前に――
僕は美空ナオミさんに、知っていることをすべて話していた。
もちろん、それは慎重に選んだ言葉だった。
しかし内容は、ほとんど事実だ。
レイ=ペンバーに調べられていたのは僕自身であること。
そして僕自身はキラではないこと。
さらに――
L=キラという可能性を、僕が考えていること。
そして。
あのバスジャック事件で目撃した、
死神という存在。
普通なら笑い飛ばされる話だろう。
しかし美空さんは違った。
彼女はFBIだった。
常識の外にある出来事を、
完全に否定するような人ではない。
そして。
僕の話を聞いたあと、
彼女は少しだけ沈黙した。
それから静かに言った。
「予想通り……誰かが侵入した形跡があったのですか?」
僕は周囲を見回した。
公園には数人の人間がいる。
老人。
犬を散歩させる女性。
遠くのベンチでスマートフォンを見ている青年。
怪しい人物はいない。
そう確認してから、僕は答えた。
「ええ」
僕はゆっくり言葉を選んだ。
「確か美空さんは、僕の家を別の場所から監視カメラで撮影していましたよね?」
わざと少し軽い口調で言う。
だが頭の中では、
すでに次の手を組み立てている。
「誰が、いつ侵入したのかを割り出していただけませんか?」
通話の向こうで、美空さんが小さく息を吸う音がした。
それから。
「監視カメラと盗聴器が設置された時間は絞れますか?」
僕はすぐに答えた。
「僕が学校へ行くために家を出たのは、七時三十分」
少し間を置く。
「帰宅したのは十五時三十分です」
僕は昨日の行動を頭の中で再生する。
時計の針。
家を出た時間。
玄関の音。
すべて正確に思い出せる。
「昨日は仕掛けられていませんでした」
「ですから、この時間帯に設置されたのは確実です」
僕はさらに続ける。
「ただし……」
「僕が学校へ行ったあとも、母さんは家にいました」
家の状況を思い浮かべる。
「それから僕は受験生です」
「部活動もありません」
「つまり学校が終わる時間も、中学生のさゆより早い」
少しだけ笑う。
「急いで帰れば、十五時ということもありえます」
通話の向こうで、美空さんが小さく頷いた気配がした。
「監視カメラや盗聴器を仕掛けるなら」
彼女が言う。
「絶対に誰にもばれてはいけません」
声は落ち着いている。
さすが元FBIだ。
状況整理が早い。
「そして」
彼女は続ける。
「仕掛けるなら家族の行動時間を把握している」
僕は無言で聞いていた。
「月君のお父さんが、一枚噛んでいるかもしれませんね」
その言葉に、僕は少しだけ目を細めた。
やはり。
同じ結論に辿り着く。
「そうなると……」
美空さんは言う。
「十四時三十分くらいに絞って調べればいいでしょうか?」
僕はすぐに答える。
「母さんは十二時に昼食を取ります」
「そのあと習い事に行きます」
僕は公園の地面を見つめた。
砂の上に、風が小さな線を作っている。
「つまり」
僕は言った。
「十二時から十四時三十分の間に」
「怪しい人物がいなかったか調べてください」
それから付け加える。
「もし見つからなければ」
「その前後も調べてください」
通話の向こうで、美空さんが少し笑った。
「一、二時間あれば」
「誰が侵入したのかは報告できると思います」
それから彼女は少し声を落とした。
「ただし」
「設置した人物の正体まで調べるなら」
「もう少し時間がかかるかもしれません」
僕は首を横に振る。
もちろん彼女には見えないが。
「今は」
僕は言った。
「どんな人物が侵入したのかだけで構いません」
少し間を置く。
それから自然に言葉が出た。
「ありがとうございます」
僕は言う。
「頼りにしています」
通話の向こうで、彼女が少し黙った。
その沈黙には、どこか温度があった。
僕は感じ取っていた。
彼女は。
僕を信用し始めている。
だが。
僕の頭の中では、別の思考が続いていた。
――監視カメラ。
――盗聴器。
いずれ来るとは思っていた。
Lなら必ずやる。
一見すれば。
監視カメラや盗聴器で、キラらしい行動を見つけるため。
しかし。
本当の目的は別だ。
僕がキラっぽい行動をすれば。
僕をキラにする。
逆に。
何もしなくても。
「キラは監視カメラがあってもうまく殺している」
そう言い訳できる。
Lなら。
いくらでも理屈を作れる。
そして。
捜査本部の人数は限られている。
つまり。
監視できる家族は。
二、三家族が限界。
レイ=ペンバーが調べていた家族。
その中にキラがいると仮定するなら。
監視対象は。
二家族。
そこまで来れば。
結論は一つ。
もしLがキラなら。
僕をキラに仕立て上げるのも。
時間の問題だ。
そのとき。
スマートフォンが震えた。
LINEの着信。
僕は顔を上げた。
周囲を確認する。
左。
右。
前方。
後方。
怪しい人物はいない。
僕は通話ボタンを押した。
「もしもし……」
通話の向こうから声が返る。
「分かったよ」
僕は無言で聞く。
「十三時三十分ごろ」
「黒いスーツにサングラスの人物が一人」
「月君の家に入ってる」
僕はゆっくり息を吐いた。
やはり。
「鍵を開けるのに十数秒」
声は続く。
「スペアキーなら十秒もかからない」
「つまり」
「非合法な方法で開けている」
僕は頷いた。
想定通りだ。
「さらに言えば」
「十数秒で開けるのは相当のプロ」
僕は心の中で呟いた。
――だろうな。
潜入は完全にプロ。
ただし。
僕の仕掛けたドアノブやシャー芯に気付かなかった。
つまり。
鍵やセキュリティ専門のプロ。
それ以外は、普通の人間。
だが。
僕は一つの言葉に引っかかった。
「サングラスの人」
僕はゆっくり言う。
「今の言い方ですが」
少し間を置く。
「“サングラスの人”と言いましたよね?」
「ニュースなら普通」
「黒ずくめの男とか、中肉中背の男と言うはずです」
僕は静かに続ける。
「“人”と言ったのは」
「性別が分からないという意味ですか?」
通話の向こうで、少し笑う声。
「さすが月君」
「その通り」
僕はベンチに深く座り直した。
「身長は推定170cm」
彼女が言う。
「ただ……」
「気になる点がある」
僕は聞き返す。
「気になる点?」
「とても華奢な体型」
彼女は言った。
「もちろん170cmなら男性の可能性も高い」
「でも」
「靴が女性用」
僕の目が細くなる。
「黒いブーツ」
「男性が履く人もゼロではない」
「でも」
「私は女性の可能性が高いと思う」
少し間。
「170cmの女性は珍しいけどね」
僕はすぐに答えた。
「外国人女性ならありえます」
美空さんが黙る。
僕は続ける。
「日本人女性の平均身長は158cm前後」
「170cmは珍しい」
「ですが」
「外国人ならむしろ普通です」
通話の向こうで、美空さんが言う。
「日本の警察に外国人っている?」
僕は少し考える。
そして答えた。
「ほとんどいません」
警察。
消防。
自衛隊。
公安。
それらは基本的に日本人だ。
つまり。
外国人が不法侵入。
盗聴器設置。
監視カメラ設置。
これは。
Lが犯罪者を使っている可能性。
僕の思考は一気に繋がる。
もしこの女性が犯罪者なら。
Lと密接な関係にある。
そして。
犯罪者を使って不法捜査。
それだけでも。
十分に起訴できる。
僕はゆっくり言った。
「Lが外国人犯罪者を使って」
「不法捜査をしている可能性があります」
僕は続ける。
「できれば」
「その女性を調べてください」
「写真でも構いません」
「滞在時間でも構いません」
「些細なことでもいい」
それから付け加える。
「そして」
「この前紹介した美空ナオミさん」
「元FBI捜査官です」
「彼女にも調べてもらってください」
僕は低く言った。
「十数秒で鍵を開けるプロ」
「有名な犯罪者かもしれない」
そして。
最後に。
僕は静かに言った。
「そうすれば」
「Lを追い詰められる」
僕は空を見上げた。
冬の雲がゆっくり流れている。
「もう僕の中では」
「Lがキラではないかという疑いで」
「頭がいっぱいです」
通話の向こうで声がする。
「どのくらいの可能性?」
僕は少し考えた。
そして。
答えた。
「69%です」
***
一月九日。
朝の光は、どこか淡く、冬らしい冷たさを帯びていた。
僕はいつも通り、玄関先に置かれた朝刊を手に取る。
紙をめくる音が静かな家の中に小さく響く。
父さんはすでに出勤している。
母さんは台所で味噌汁を温め、さゆはまだ眠そうな顔で椅子に座っている。
平凡な朝。
どこにでもある、ありふれた家庭の光景だ。
だが――
(見ている)
誰かが。
どこかから。
この家のすべてを。
僕は新聞を読むふりをしながら、記事の文字を目で追う。
しかし頭の中では別の計算が進んでいた。
朝食を食べ終えると、僕は自分の部屋へ戻った。
机に向かい、参考書を開く。
ペンを手に取る。
表面上は、受験生の青年が勉強しているだけの光景。
だが僕の頭の中では、別の思考が組み立てられていた。
(昨日は……)
ペン先がノートの上を滑る。
(僕が勉強していた時間帯に……)
数式を書く。
(横領犯と……ひったくり犯……)
数字を書く。
(心臓麻痺で死亡)
そこで僕は一度、手を止めた。
窓の外の空をちらりと見る。
(今までの犯罪者と比べて)
僕は考える。
(罪が軽い)
その印象が強い。
これまでのキラの殺しは、重犯罪者が中心だった。
殺人犯。
凶悪犯。
社会的にも許されない存在。
しかし今回は違う。
横領犯。
ひったくり犯。
軽いとは言わない。
だが――
キラの基準からすれば軽い。
(監視カメラ)
僕はゆっくり考えを進める。
(トイレや風呂にもある)
そこまでやる以上。
この家を監視しているのは――
まず間違いなく。
父さん。
警察庁刑事局長。
キラ対策本部の中心人物。
立場からしても自然だ。
だが。
僕は首を小さく振る。
(父さんだけのはずがない)
そんなことを。
Lが許すはずがない。
つまり。
Lも見ている。
この家を。
この部屋を。
そして。
僕を。
(監視が三人以上……?)
僕は計算する。
それは多すぎる。
人数が増えれば増えるほど、
情報漏洩の危険も増える。
それに。
プライバシーの問題。
トイレや風呂まで監視する以上、
人員は最小限に絞るはずだ。
キラ対策本部の人間は。
父さんより身分が低い。
つまり。
彼らにそこまで見せるとは考えにくい。
(ならば)
結論は一つ。
父さんとL。
この二人が監視している。
ほぼ間違いない。
僕は再びノートへ目を落とした。
二次関数の問題。
式を書き、平方完成を始める。
x²+6x+5。
僕の手は迷いなく動く。
これはもう。
機械的作業だ。
僕はずっと前に気付いていた。
計算問題というものは、
必ずしも思考を集中する必要がない。
正しい手順さえ踏めば、
答えには辿り着く。
つまり。
考え事をしながらでも解ける。
ならば。
時間を無駄にしない方がいい。
僕は式を書き続けながら思考を進める。
(軽犯罪者が心臓麻痺)
偶然の可能性もある。
だが。
僕はそれを否定する。
(キラがやった)
そう考える方が自然だ。
となると。
なぜ軽犯罪者なのか。
僕はペン先を止めた。
(あえて)
その言葉が浮かぶ。
あえて軽犯罪者を殺した。
つまり。
そこには意図がある。
僕は考える。
(僕をキラに仕立てあげるなら)
当然。
僕がテレビを見ている時に犯罪者を殺す。
それが一番分かりやすい。
だが。
僕はすぐに首を振る。
(いや……)
Lならそんな単純なことはしない。
たとえ僕がテレビを見ていなくても。
監視カメラの死角から。
スマートフォンでニュースを見た。
そう言えばいい。
あるいは。
「カメラを仕掛けた初日なのに、夜神月は面白いほど白だ」
そんな曖昧なことを言えばいい。
人は曖昧な言葉に弱い。
いくらでも。
黒塗りにできる。
僕は椅子に少し背を預けた。
(軽犯罪者)
それは。
明らかに今までのキラの殺しとは違う。
イレギュラー。
つまり。
このイレギュラーは。
監視カメラや盗聴器を仕掛けたことで起こった。
そう考えられる。
そして。
もしキラが。
監視カメラや盗聴器を知っていたら?
僕は思考を進める。
(ボロは出さない)
絶対に。
出さない。
極端な話。
もし僕がキラなら。
身の潔白を証明する方法はある。
僕はふと机の上のポテトチップスを見た。
コンソメ味。
この家では。
僕しか食べない。
つまり。
その袋の中に。
小型テレビ。
あるいは。
モバイル端末。
そういうものを隠しておく。
そして。
そこからニュースを見て。
顔と名前を把握する。
それで犯罪者を殺す。
そうすれば。
監視カメラの前にいながら。
キラであることを証明できない。
父さんとLが証人になる。
僕が白だと。
だが。
すぐに僕は首を振った。
(そんなことはしない)
第一。
僕はキラじゃない。
それに。
たとえ。
キラと同じ能力を手に入れたとしても。
僕は――
人殺しなんて絶対にしない。
しかし。
思考は止まらない。
もし。
Lが僕をキラに仕立てあげるつもりなら。
これから。
僕がニュースを見る。
そして。
その犯罪者が殺される。
そうなれば。
疑いは一気に僕へ向く。
僕はゆっくりと顔を上げた。
部屋の中を見渡す。
壁。
天井。
棚。
どこかにカメラがある。
きっと。
今この瞬間も。
Lが。
僕を見ている。
僕は静かに手を伸ばした。
机の上のリモコン。
それを手に取る。
少しだけ。
間を置く。
そして。
テレビの電源ボタンを押した。
月とLどちらに勝って欲しいか
-
月
-
L
-
勝者なし
-
引き分け
-
月L以外