ようこそ殺戮至上主義の教室へ   作:戦竜

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最終章 最後の一人

龍園翔と椎名ひよりが倒れてから、廃墟の中には奇妙な静けさが満ちていた。

 

さっきまで、そこには轟音があった。

ショットガンの爆ぜる音。

マシンガンの連続した咆哮。

手榴弾の爆発。

誰かが叫び、誰かが息を呑み、誰かが倒れていく音。

 

けれどいまは、もう何もない。

 

砕けた瓦礫が床に散らばり、火薬の匂いが空気に残り、

壁の向こうから夕暮れの風が吹き込んでくる。

その風だけが、ひどく場違いなくらい穏やかだった。

 

綾小路清隆は、龍園の死体を見下ろしたあと、視線を外した。

 

終わった。

少なくとも、龍園との決着は。

 

だがそれは勝利の感覚ではなかった。

高揚も、安堵もない。

 

ただ一つの障害を排除したという認識だけが、乾いた事実として脳内に残る。

 

肩が痛む。

胸も重い。

何度も繰り返された衝撃と出血と疲労が、

いまさらのように全身へ滲み出していた。

 

それでもまだ動ける。

まだ終わっていない以上、動けることだけが重要だった。

 

視線をずらす。

 

堀北鈴音。

軽井沢恵。

 

どちらも生きている。

 

堀北は瓦礫に手をつき、ゆっくりと身体を起こそうとしていた。

胸の散弾痕は浅くはない。だが致命傷ではない。

高円寺のショットガンを真正面から受けていれば終わっていたが、

あのときはナイフで介入した一瞬の至近距離で、角度もずれていた。

それが命を繋いでいる。

 

軽井沢は膝をついたまま動けないでいた。

ハンドガンはまだ手の中にある。だがそれを武器として握っているというより、

自分がまだこの場にいることを確かめるために縋りついているような持ち方だった。

 

死体は四つ。

 

高円寺。

龍園。

ひより。

そして少し離れた場所には、

瓦礫の影で冷たくなった死者たちの残り香のような空気。

 

つい数時間前まで、この島にはまだ多くの生徒がいた。

それがいまや、ここにいる人間を除けば、残っているのはおそらく一人だけだ。

 

坂柳有栖。

 

その名を思い浮かべた瞬間、綾小路は自分の中で次の行動が定まるのを感じた。

 

この場に留まる理由はない。

坂柳を探し、最後の決着をつける。

 

それだけだ。

 

だが、そのためにはまず――この場の残りを片づけなければならない。

 

「……清隆」

 

軽井沢が、ようやく声を出した。

 

その声は擦れていて、泣きすぎた後のように細い。

 

綾小路は彼女を見た。

 

「終わったの……?」

「龍園たちは終わった」

「じゃあ……」

 

軽井沢は言いかけて、そこで止まる。

 

じゃあ、私たちは助かったの?

そう続けたいのだと分かった。

 

だがもう、その問い自体が成立しない。

 

この試験では、龍園を倒したから助かるわけではない。

敵が一組減っただけだ。

そして残っている人間が少なくなるほど、最後の一人になる条件は、

自分のすぐそばにいる相手をも対象に変えていく。

 

堀北がゆっくりと顔を上げた。

 

その目は疲れていた。

痛みに滲んでいた。

それでも、意識だけは鋭かった。

 

「……まだ、よね」

 

綾小路は答えない。

 

だが答えなくても十分だった。

 

堀北は短く息を吸い、そして吐いた。

 

「坂柳さんがいる」

「たぶんな」

「そして……」

 

そこで、言葉が止まる。

 

口にしたくない現実が、その先にある。

 

軽井沢もまた、それを理解していた。

理解していたからこそ、両腕で自分の身体を抱くようにして震えている。

 

綾小路は静かにリボルバーを構え直した。

龍園との戦いで弾は減っている。だがまだ残っている。

足りるかどうかは、最後まで撃てるかどうかで決まる。

 

「ねえ」

 

軽井沢が言う。

 

今度は綾小路だけでなく、堀北も彼女を見た。

 

「……ほんとに、最後まで一人なの?」

 

あまりにも今さらな問いだった。

だが、今だからこそ口にせずにはいられなかったのかもしれない。

 

「ここまで来て、三人で生きて帰る方法って……ないの?」

 

その声には願いがあった。

希望というには弱く、祈りというには現実的すぎる、

追い詰められた人間の最終確認のような響きだった。

 

綾小路は答える。

 

「ない」

 

迷いなく。

 

軽井沢の表情が凍る。

 

「そんな……」

「最初から、なかった」

 

綾小路の声は平坦だった。

 

「この試験はそういう形で作られてる。

出口も、抜け道も、最後まで用意されていない。

もしあったとしても、オレたちが辿り着ける前に潰されてる」

 

軽井沢の唇が震える。

 

「でも……」

「でもじゃない」

 

そこで初めて、綾小路の声が少しだけ低くなった。

 

「現実を見ろ」

 

その一言は重かった。

 

残酷だった。

だが、それ以上に真実だった。

 

軽井沢はずっと、綾小路のそばにいれば生き残れるかもしれないと思ってきた。

平田を失っても。

佐藤を失っても。

龍園に追われても。

この男だけは、自分を最後まで引っ張ってくれるのではないかと信じていた。

 

けれどいま、その幻想は真正面から否定された。

 

自分は守られる対象ではない。

最後には切り捨てられる側なのだ。

 

「……そっか」

 

軽井沢は小さく言った。

 

その声は妙に落ち着いていた。

 

綾小路はわずかに目を細める。

堀北もまた、彼女の変化を感じ取ったのだろう。

警戒するように視線を向けた。

 

軽井沢はゆっくりと立ち上がる。

 

脚は震えていた。

顔色も悪い。

それでも彼女は、立った。

 

「だったら」

 

ハンドガンを握り直す。

 

「だったら、もう……」

 

言葉は最後まで綺麗には続かなかった。

 

でも意味は十分だった。

 

坂柳を探す前に。

綾小路と堀北が決着をつける前に。

自分だけが取り残されて、ただ撃たれる順番を待つだけなのは、もう耐えられない。

 

軽井沢は堀北を見た。

 

堀北もまた、軽井沢を見返す。

 

二人の間に深い友情があったわけではない。

だが、ここまで同じ場所を生き延びてきた女同士としての奇妙な共感はあった。

綾小路の冷たさに対して、どちらも傷つき、

どちらも振り回され、どちらも頼らざるを得なかった。

 

だからこそ――。

 

軽井沢は、先に堀北へ銃口を向けた。

 

綾小路の目がわずかに変わる。

堀北も一瞬だけ目を見開いた。

 

「軽井沢さん……」

「ごめん」

 

軽井沢の声は震えていた。

 

「ほんとは、やりたくない。やりたくないけど……でも、もう無理」

 

涙が零れていた。

 

「このままだと、あたし、最後までただ待つだけになっちゃう。

誰かに決められるまま、捨てられるだけになっちゃう……!」

 

その恐怖は本物だった。

 

綾小路に守られるかもしれないという幻想を失った瞬間、

軽井沢は初めて自分が自分で動かなければならない立場に放り出されたのだ。

 

だが、綾小路に向けることはできない。

 

怖いから。

勝てないから。

そして、まだどこかで彼に撃たれたくないと思っているから。

 

だから、堀北を選ぶ。

 

それは合理ではなく、恐怖と依存の歪んだ果ての選択だった。

 

「やめなさい!」

 

堀北が言った。

 

だが軽井沢はもう止まらない。

 

パンッ。

 

乾いた銃声。

 

堀北の身体が揺れる。

肩口に入った。致命傷ではない。

だがもともとの負傷が重なり、身体のバランスが大きく崩れる。

 

「……っ!」

 

堀北が床へ手をつく。

 

軽井沢は自分でも信じられないような顔で、まだ銃を構えたままだった。

 

「あ、あたし……」

 

息が乱れる。

手が震える。

だが引き金を引いた。

 

その事実だけは、もう消せない。

 

綾小路は数秒だけ彼女を見た。

 

責めることも、止めることもしない。

ただ、その行動の意味を一瞬で整理する。

 

軽井沢は壊れた。

完全にではない。だが自分の意思で引き金を引き、しかも相手を選んだ。

これでもう、彼女は単なる被害者ではない。

 

軽井沢はその視線に耐えられなかったのか、泣きながら叫ぶ。

 

「だってしょうがないじゃん!!」

 

半ば錯乱した声。

 

「もう誰も助けてくれないんでしょ!?

だったらあたしだって……あたしだって、何かしないと……!」

 

その叫びには、これまで抑え込んできた恐怖が全部混じっていた。

 

平田のこと。

佐藤のこと。

自分が撃ったこと。

綾小路に捨てられると知ったこと。

 

すべてが一気に噴き出している。

 

堀北は肩を押さえながら、苦しそうに息を吐いた。

痛み以上に、軽井沢のその行動が胸を刺していたのかもしれない。

 

「……そんなことをしても」

「分かってる!」

 

軽井沢が叫ぶ。

 

「分かってるよ!こんなの、どうにもならないって!でも何もしないよりは……!」

 

その瞬間だった。

 

パンッ。

 

リボルバーの音。

 

軽井沢の言葉が止まる。

 

彼女は数秒、自分の身に何が起きたのか理解できないような顔をしていた。

次いで、ゆっくりと視線を下ろす。

 

綾小路が撃っていた。

 

軽井沢の手からハンドガンが落ちる。

 

「……きよ、たか」

 

掠れた声。

 

綾小路は表情を変えない。

 

「すまない、恵」

 

その言葉に、本当の謝意がどれほど含まれていたのかは分からない。

だが少なくとも、それは彼が彼女へ向けた最後の言葉だった。

 

「俺の領域に、もうおまえの席はない」

 

軽井沢の瞳が大きく揺れる。

 

泣きそうで、怒りそうで、縋りそうで。

いくつもの感情が浮かびかけて、

結局どれにもなりきれないまま、

彼女の身体から力が抜ける。

 

崩れ落ちる直前、軽井沢は少しだけ笑ったようにも見えた。

 

諦めか。

絶望か。

それとも最後まで綾小路を求めてしまった自分への苦笑か。

 

その答えは、誰にも分からない。

 

軽井沢恵は静かに倒れた。

 

廃墟の中に残ったのは、二人だった。

 

綾小路清隆。

堀北鈴音。

 

そして、遠くには坂柳有栖がいるはずだ。

 

堀北は立ち上がろうとした。

肩と胸が痛む。

さっきの軽井沢の銃弾は急所を外れている。

だが、体力はすでに限界に近い。立つだけでも息が乱れる。

 

それでも彼女は立った。

 

目の前には綾小路がいる。

 

ずっと追ってきた背中。

クラスを導くために必要だった頭脳。

理解したいと思ってきた男。

そして最後まで理解しきれなかった男。

 

「……結局、こうなるのね」

 

堀北が言う。

 

声は不思議なくらい静かだった。

 

綾小路は答えない。

 

「あなたは最初から、こういう場所に立つ人間だった」

 

堀北はゆっくりとショットガンを拾い上げる。

高円寺が落としたものだ。

 

重い。

腕が痛む。

まともに扱える保証はない。

 

それでも、いまこの場で綾小路に対抗できる武器はこれしかなかった。

 

「私は違うと思いたかった」

 

堀北は続ける。

 

「あなたの中に、もっと別の何かがあるって。

私たちと一緒にAクラスを目指して、その先へ進めるんじゃないかって」

 

綾小路はリボルバーを構えたまま、彼女を見ている。

 

その目に感情は読み取りにくい。

だが、堀北にはもうそれを読み解こうとする気もなかった。

 

「でも違った」

 

彼女はショットガンを持ち上げる。

 

「あなたはずっと、一人だった」

 

綾小路は静かに言った。

 

「おまえも、最後はそうなる」

「ええ」

 

堀北はわずかに微笑んだ。

 

「それでも、あなたとは違う終わり方をしたかった」

 

次の瞬間、堀北が引き金を引いた。

 

轟音。

 

綾小路は横へ飛ぶ。

しかし散弾が彼の肩と胸に命中する。

既に戦闘に次ぐ戦闘の連続で疲れ果て、動きに俊敏さがない。

 

激しい衝撃に耐えながら、綾小路のリボルバーも火を吹く。

堀北の脇腹に入る。身体が揺れる。だが彼女は倒れない。

 

痛みはある。

熱い。

意識も霞む。

 

それでも堀北はショットガンを握ったまま、もう一度構えた。

 

綾小路はその姿を見て、一瞬だけ足を止める。

 

お互い致命傷のはずだった。

なのに立っている。

 

人は極限で、時々理解を超えた粘りを見せる。

自分も、堀北もいま、まさにその状態だった。

 

「……まだ」

 

堀北が掠れた声で言う。

 

「まだ、終わってない」

 

再び引き金。

 

綾小路は体勢を崩しながらもギリギリで避ける。

それでも散弾の一部が腕と脇腹を掠めた。身体の芯が揺れる。

 

綾小路は反撃する。

リボルバーが火を吹く。

 

堀北の肩が跳ね、ショットガンが少し下がる。

それでも彼女は前を向いたままだった。

 

その目に宿っているのは、もはや勝ちたいという執着だけではない。

ここまで生き延び、ここまで壊され、

それでも最後に自分の意思で綾小路と対峙しているという事実を、

どうしても譲りたくないという意地だった。

 

「あなたに……」

 

呼吸が苦しい。

声が切れる。

 

「全部、決めさせるのは……嫌なのよ」

 

その言葉は、堀北自身の本質だったのかもしれない。

 

誰かの後ろにつくだけでは終われない。

誰かに守られるだけでは終われない。

たとえ最後に敗れるとしても、自分の意志で立ち、自分の意志で撃つ。

 

それだけは失いたくなかった。

 

綾小路は彼女を見ていた。

 

堀北鈴音。

初めは未熟で、独善的で、孤立していた少女。

だが少しずつ変わってきた。

クラスを見ようとし、他者を知ろうとし、Aクラスを目指して歩いてきた。

 

もし別の形で終わっていれば。

この試験さえなければ。

 

そんな仮定を考える意味はない。

だから綾小路は、それ以上何も思わないようにした。

 

そして最後の引き金を引く。

 

乾いた音。

 

堀北の身体が大きく揺れる。

ショットガンが床へ落ちた。

 

彼女はそれでも一歩だけ前へ出ようとして――

 

次の瞬間、力尽きた。

 

崩れるように膝をつき、そのまま床へ伏す。

 

しばらくして、動かなかった。

 

堀北も死んだ。

 

綾小路は数秒その場に立ち尽くし、

堀北の死を確認すると、ようやくゆっくり息を吐いた。

 

廃墟の中には、もう彼以外に立っている者はいない。

 

坂柳有栖を探す。

 

その目的だけが残る。

 

綾小路は足を引きずるように廃墟の外へ出た。

 

空はすでに赤く傾いている。

夕焼けだ。

波の音が遠い。

 

身体は重かった。

これまで受けた傷と、連続した戦闘の疲労が一気に圧し寄せている。

視界の端が時々暗くなる。足元も安定しない。

 

それでも進む。

 

坂柳を殺さなければ、最後の一人にはなれない。

勝者にはなれない。

 

そのためだけに林へ入る。

 

木々の間は明るくなり始めていた。

風が冷たい。

夕焼けの島は、日中よりもずっと死の匂いが濃く感じられる。

 

坂柳はどこにいる。

 

高円寺と一緒にいた可能性は高い。

なら、あの近辺からそう遠くない場所か。

それとも、すでに高円寺と別れ、自分だけの隠れ場所を見つけているか。

 

どちらにせよ探すしかない。

 

綾小路は歩く。

一歩。

また一歩。

 

だが、その速度はどんどん落ちていった。

 

身体が言うことを聞かない。

腕が重い。

胸が苦しい。

血が足りない。

 

それでも止まれないと思った。

止まれば終わる。

 

だが、その終わりはもう、敵に撃たれるという意味ではなかった。

 

純粋に、身体が限界だった。

 

林の中で、綾小路はついに片膝をついた。

 

呼吸が荒い。

視界が揺れる。

 

立ち上がろうとした。

だが足が持ち上がらない。

 

坂柳の下へ行かなければ。

最後の一人を――

 

その思考すら、うまく繋がらない。

 

何度目かの呼吸のあと、綾小路は木にもたれた。

夕焼けの光が枝葉の隙間から差している。

 

自分がここで終わるのか。

そんなことを考えたわけではない。

ただ、身体がもうそれ以上前に出なかった。

 

綾小路清隆は、その場で静かに意識を失った。

 

 

数時間後。

 

巨大倉庫の扉が開いた。

 

そこへ、たった一人の少女が戻ってくる。

 

坂柳有栖。

 

杖をつき、ゆっくりとした歩調で。

顔色は悪い。決して浅くない傷も疲労もある。

だが、生きている。

 

それだけで十分だった。

 

兵士たちが道を開ける。

誰も歓声を上げない。

誰も拍手もしない。

 

まるで、最初からこうなると決まっていた儀式の終着点のように、

倉庫は静まり返っていた。

 

坂柳は中へ入る。

 

視線を巡らせる。

 

床。

壁。

血の痕。

そして――一人の女。

茶柱佐枝が、倉庫の隅で座り込むように倒れていた。

 

頭部には銃創。

傍らには拳銃。

 

自殺だった。

 

坂柳は足を止める。

表情は変わらない。

 

「先生」

 

小さく呟く。

 

返事は当然ない。

 

可愛い生徒たちを死に追いやった自分が許せなかったのだろうか。

あるいは、最初から最後まで、

この地獄を止められなかった自分の無力に耐えられなかったのだろうか。

 

どちらにせよ、もう遅い。

 

死んだ生徒たちは戻らない。

守ってくれた神室も、橋本も、高円寺も。

綾小路も、堀北も、軽井沢も、龍園も、一之瀬も、ひよりも――

みな、もう戻らない。

 

茶柱がここで命を絶ったところで、その価値は何も回復しない。

 

「最期まで、無責任ですね」

 

坂柳は静かに言った。

 

怒りはない。

軽蔑とも少し違う。

 

ただ、ひどく冷えた認識だけがそこにあった。

 

そのときだった。

 

倉庫の奥から、ゆっくりと足音が響いた。

 

坂柳が振り向く。

 

そこに立っていたのは――坂柳理事長だった。

 

父だった。

 

その姿を見た瞬間、有栖の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

 

理事長は何も言わなかった。

ただ、静かに娘へ歩み寄る。

 

有栖は、動けなかった。

 

今まで歩いてきた。

杖をついて。

痛みを堪えて。

誰も信じきれないまま、誰にも弱さを見せないまま。

どこまでも冷静に、どこまでも坂柳有栖として、この地獄を生き抜いてきた。

 

けれど――。

 

目の前にいるのは父だ。

 

「……お父さま」

 

声が震えた。

 

それだけで、もうだめだった。

 

父は何も問いたださず、何も評価せず、ただ有栖の身体をそっと抱き寄せた。

その腕の中に収まった瞬間、有栖の中で張り詰めていたものが、完全に切れた。

 

「……っ、あ……」

 

息が詰まる。

 

喉の奥が熱くなる。

 

視界が滲む。

 

泣くつもりなどなかった。

泣けるはずもないと思っていた。

ここまで来て、いまさら涙など残っていないと思っていた。

 

それなのに。

 

「ぅ……あぁ……っ」

 

堪えきれなかった。

 

有栖は父の胸に額を押しつけたまま、声を上げて泣いた。

 

静かに涙を流すのではない。

取り乱したように、子供のように、どうにもできずに泣きじゃくる。

 

悪魔だらけの無人島の三日間。

殺意と恐怖と裏切りしかなかったその世界の果て。

最後の最後に現れた穢れなき天使の温もりに、

有栖は為すすべもなく泣くしかなかった。

 

「お父さま……っ、ぅ……っ」

 

何を失ったのか。

誰が死んだのか。

どれだけ怖かったのか。

 

そんなことを、もう一つひとつ言葉にすることはできなかった。

 

ただ苦しかった。

ただ重かった。

ただ、もう一人では抱えきれなかった。

 

神室を介錯したこと。

橋本を見捨てたこと。

高円寺に守られたこと。

白石を殺したこと。

最後にたった一人、残ってしまったこと。

 

そのすべてが、父の腕の中で一気にあふれ出した。

 

理事長は何も言わない。

ただ、娘の背を静かに抱き、泣き声を受け止めていた。

 

それだけで十分だった。

 

倉庫の外から風が吹き込む。

 

その風に、有栖の帽子がふわりと浮いた。

 

「あ……」

 

けれど、有栖はもうそれを追わなかった。

 

追うことなどできなかった。

 

帽子は風に乗って扉の外へ流れ、夕焼けの海へ向かっていく。

やがて、その小さな影は水面の向こうへ消えた。

 

有栖はそれを見送ることもできず、ただ父の胸に縋ったまま泣き続けた。

 

海は赤く染まっていた。

夕日なのか、それとも自分たちが見てきた死の色がそう見せるのか、

もはや判別がつかない。

 

けれどいまの有栖には、そんなことすらどうでもよかった。

 

勝者になったという実感はなかった。

誇りもなかった。

最後まで立っていたという事実さえ、何の慰めにもならなかった。

 

あるのはただ、ようやく終わったのだということ。

そして、自分はまだ壊れきらずに、

父の胸で泣けるだけの娘でいられたのだという、かすかな救いだけだった。

 

倉庫の隅では、茶柱佐枝の身体が冷えていく。

島のどこかでは、動かなくなった生徒たちが夜を迎えている。

 

そしてまた、明日が来る。

 

だが、もうこの島で明日を迎える生徒たちはいない。

 

バトル・ロワイアル特別試験は、こうして終わった。

 

優勝者は坂柳有栖。

最後まで立っていた、たった一人の少女。

 

けれどその胸の内にあったのは、誇りでも、喝采でもなかった。

 

ただ、父の温もりに縋りつきながら、

失われたすべてを前に泣くことしかできない、

あまりにも人間らしい痛みだけだった。

 

 

風がまた吹く。

 

 

有栖は海を見ることもできず、ただ父の胸の中で泣き続けていた。

 

 

THE END

 

 




モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

次回作として「カーストルーム・オブ・ザ・デッド」を投稿します。
よう実×バイオハザードのサバイバルアクションホラー作品になります。
スカッとするようなアクションシーン満載で書きました。
次回作もよろしくお願いします。

途中までですが、
「カーストルーム・オブ・ザ・デッド」の「第一話 感染」の試し読みをどうぞ。



2年Bクラス。
そこには、つい数分前まで、いつもと何一つ変わらない朝があった。

高度育成高等学校という場所は、
その特異な制度とは裏腹に、日常そのものは案外と平穏だ。
もちろん、特別試験ともなれば話は別である。
生徒たちは競い合い、蹴落とし合い、ときには友情さえ試される。
勝者と敗者が生まれ、退学という容赦のない結末が
現実のものとして突きつけられることもある。

だが、そうした極端な非日常は、常にそこにあるわけではない。
試験と試験のあいだに流れる時間は、拍子抜けするほど普通だ。

授業を受ける。
ノートを取る。
昼休みに軽口を叩く。
放課後になれば部活やケヤキモールへ向かう。
そんな学生らしい、ありふれた反復が、今日もまた続いていくはずだった。

少なくとも、誰もがそう思っていた。

教壇に立つ茶柱佐枝は、いつも通り淡々と日本史の授業を進めていた。
感情をほとんど乗せない抑揚の乏しい声。
マジックがホワイトボードを走る乾いた音。
教室のあちこちでペン先が紙を擦る微かな気配。
窓の外には、穏やかな日差しに照らされた校庭。
空調の音さえも、今日はやけに規則正しく聞こえる。

まるで、世界が秩序そのものに包まれているかのようだった。

綾小路清隆も、その秩序の一部として席についていた。
ノートには板書を丁寧に書き写している。字体にも崩れはない。
姿勢も、視線の置き方も、模範的な生徒そのものだ。

ただし、頭の中まではそうではなかった。

――退屈だな。

板書の内容自体は、彼にとって新鮮味のあるものではない。
幼少期の段階で既に処理済みの知識に過ぎず、
今さら興味を引かれるような情報ではなかった。
とはいえ、だからといって授業を無視する理由もない。
目立たず、周囲に合わせ、凡庸な生徒としてそこにいる。
それが綾小路の基本姿勢だ。

だから今日も、彼は適度に真面目な顔をしてノートを埋めていた。

教室の空気は静かだった。
須藤は大人しく前を向き、平田は相変わらず整った字でノートを取っている。
堀北は真面目そのものの表情でホワイトボードを見つめ、
高円寺は椅子に深く腰掛けながらも妙に様になっていた。
軽井沢は授業中だけは猫を被ることに成功しているらしく、
隣の様子を時折気にしながらも一応は板書に目を向けている。

その、均衡だった。

最初に異変に気づいた者がいたとしても、
それを「異変」と認識するまでには、ほんのわずかな遅れがあっただろう。

佐藤麻耶の呼吸が、少しだけ荒くなっていた。

それは、はじめは誰も気に留めない程度のものだった。
体調不良か、単なる息苦しさか。教室には40人近くの生徒がいる。
誰か一人の呼吸の変化など、授業中にいちいち意識されるものではない。

だが、それが数十秒と経たないうちに、無視できないものへと変わっていく。

ひゅう、ひゅう、と。
喉の奥が詰まったような、乾いた音。
まるで空気の取り込み方そのものを忘れたかのような、不自然でぎこちない呼吸。

隣の席にいた長谷部波瑠加が、さすがにおかしいと思ったのだろう。
彼女はわずかに顔を寄せ、小さな声で囁いた。

「……佐藤さん?大丈夫?」

本来なら授業中の私語は慎むべきだ。
だが、この状況でそれを責める者はいないだろう。
茶柱とて、生徒の体調不良を咎めるほど非情ではない……少なくとも、形式上は。

長谷部の声に反応したのか、佐藤がゆっくりと振り向いた。

その瞬間だった。

長谷部の顔から、表情という表情が消えた。

彼女が見たのは、いつもの佐藤麻耶ではなかった。
肌は不自然なほど青白く、血の気というものが根こそぎ失われている。
焦点の合わない眼は濁り、黒目の動きにも人間らしい意思がない。
唇は乾いて半ば開き、そこから垂れる唾液が糸を引いていた。
喉の奥から漏れているのは、言葉にもならない低いうめき声――。

「あ……」

長谷部の口から漏れたのは、意味を成さない息だけだった。

理解が追いつくより早く、佐藤の身体が跳ねた。

椅子を軋ませ、机を押しのける勢いで前へ飛び出し、
そのまま長谷部へと覆いかぶさる。
あまりにも唐突で、あまりにも人間離れした動きだった。
長谷部は反射的に両手を上げたが、間に合わない。
体勢を崩したまま椅子ごと後ろへ倒れ込み、教科書とノートが床に散らばった。

次の瞬間、教室に悲鳴が響いた。

「きゃ……っ!?」
「な、なに……!?」
「おい、どうした!?」

誰も、何が起きたのか理解できていない。
ただ一つ確かなのは、佐藤が普通ではないということだけだ。

長谷部は必死に抵抗しようとしていた。
両腕で押し返し、脚をばたつかせ、助けを求めるように声を上げる。
だが佐藤は怯まない。異様な力で組み伏せ、そ
のまま首元へ顔を埋めるように食らいついた。

教室の空気が、そこで完全に壊れた。

悲鳴が重なる。
椅子が倒れる。
誰かが後ずさりし、別の誰かにぶつかり、机と机が乱雑にずれる。
みーちゃんが青ざめた顔で口元を押さえ、
三宅が立ち上がりかけたまま固まり、
松下が言葉を失っている。
軽井沢は信じられないものを見るように目を見開き、
池と篠原と本堂は何が起きたのか分からぬまま
混乱の中で距離を取ろうとしていた。

堀北鈴音でさえ、すぐには動けなかった。
冷静さを身上とする彼女の瞳にも、明白な動揺が宿っている。
平田洋介もまた、教室をまとめようと口を開こうとするが、
目の前の現実があまりにも現実離れしすぎていて、言葉が一瞬遅れる。

教壇の茶柱も、さすがに凍りついていた。
教師として、学校生活における多くのトラブルを見てきたはずだ。
喧嘩、揉め事、試験に関する衝突。
だが、生徒が生徒に獣のように襲いかかる光景など想定の外に決まっている。

教室の中心だけが、異様な静けさに包まれていた。
いや、静かではない。悲鳴も物音もある。
それでも、その一点だけは別の空間のように、現実感から切り離されて見えた。

綾小路は、それを見ていた。

無表情に。
だが、無関心ではなく。

この状況がどれほど異常であるかは理解している。
常識的な暴力ではない。発作でも、錯乱でも、説明がつかない。
人間の理性や痛覚や躊躇といったものが、一切抜け落ちた動き。
しかも力が異様だ。長谷部が抵抗しても、佐藤の身体は止まらない。
細身の女子生徒とは思えないほどの執着と出力がある。

――感染か。

その単語が、綾小路の頭の片隅で形を持ち始める。
もちろん断定はできない。だが、少なくとも「普通の体調不良」などではない。

長谷部の悲鳴が、次第に弱くなっていく。
その現実が、ようやく須藤健の身体を動かした。

「ふざけんなッ!」

怒号とともに、須藤が前へ出る。
考えるより先に身体が反応したのだろう。
彼はもともと、こういうときに頭より拳が先に出る男だ。
良くも悪くも単純で、
目の前でクラスメイトが危険な目に遭っているのを見過ごせない。

須藤は佐藤の肩を強引に掴み、長谷部から引き剥がそうとした。

だが、そこで彼の顔色が変わった。

「なっ……!?」

重い。
いや、それ以上だ。
佐藤の身体は華奢な女子のそれのはずなのに、
まるで床に食い込んでいるかのようにびくともしない。
力任せにはがそうとしても、異常な筋力で抵抗される。

次の瞬間、佐藤が振り向いた。

その瞳に意思はない。
にもかかわらず、獲物を見定めるような鋭さだけがある。

佐藤は須藤へ向かって腕を伸ばした。
爪を立て、噛みつこうとする。
須藤はとっさに身を引いたが、制服の袖を掠められ、布地が裂ける。

「チッ……!なんだよこいつ!」

さすがの須藤も、その一撃で理解したはずだ。
これは喧嘩ではない。理屈の通じる相手ではない。

そこで堀北がようやく我に返った。

「みんな、佐藤さんから離れなさい!近づいちゃ駄目よ!」

鋭い声が教室を打つ。
命令口調は普段と変わらない。
だが、声の奥には緊張が滲んでいた。

「落ち着いて!出口の近い人から順番に――」

平田も続く。
彼は恐怖に飲まれそうになっている空気を必死に繋ぎ止めようとしていた。
パニックの中では指示の有無が生死を分ける。少なくとも彼はそう知っている。

「押さないで!転ぶから!女子を先に――」

だが、理性は簡単に崩れる。

悲鳴を上げながら教室の後方へ逃げようとする者。
出入口に殺到しそうになる者。
足がすくんで動けない者。
教室という限られた空間の中で、
恐怖は目に見えない火のように一気に広がっていく。

茶柱は教壇を降りた。
その顔色は悪い。
だが、教師として行動しなければならないと自分に言い聞かせたのだろう。

「……緊急事態だ。全員、廊下へ――!」

言い終える前に、彼女は自ら教室の外へ飛び出した。
そして廊下に備え付けられていた火災報知器へ向かい、
ためらいなくカバーを叩き割る。

けたたましい警報音が、校舎中に鳴り響いた。



続きも書かれた第1話の完全版は本日3月27日の午前0時に投稿してあります。
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