杖くんと七歳の魔法使い ~深淵から帰還した少年は、今日もみんなの笑顔を守る~ 作:redhot
基地の地下居住区は、鉄の匂いと暖房の熱気が混じり、静かな夜を包んでいた。精神科医たちの診断を受けてから、トオルを一人にするのは厳禁になった。ダンジョン探索以外では、常に誰かが側にいる。胡蝶しのぶ一尉と胡蝶カナエ二尉が、交代で保護者的立場を務めることになった。
昼間はしのぶが、蝶のような微笑みでトオルを連れ回す。食堂で一緒に食事をし、研究室のガラス越しに資料を見せ、ポポの囲いまで散歩に付き添う。夜はカナエが、穏やかな笑顔でトオルの部屋に泊まり込む。姉妹は互いに「今日は私が」と自然に分け合っていた。
「お風呂の時間よ、トオルくん」
しのぶが柔らかく声をかけると、トオルは少し顔を赤らめてうつむいた。
「僕、一人で入れるよ……」
「ふふ、だめですわ。心配だから、一緒に入りましょうね」
カナエも隣で優しく頷く。
「あらあら、トオルくんが寂しくないように、姉さんたちがちゃんと見守ってあげるのよ」
トオルは拒否できない。大きなお姉さんたちと一緒に入るのを嫌がる気持ちはあるのに、「心配だから」と言われると、素直に頷いてしまう。基地の浴室は広くて、タイル張りの湯船に湯気が立ち込める。トオルは湯船に浸かりながら、しのぶの胸元にそっと寄りかかった。悪戯などではない。ただ、純粋に寂しさが溢れて、温もりを求めてしまう。
しのぶは微笑んだまま、トオルの黒髪を優しく撫でる。
「いいのよ、トオルくん。甘えていいんです」
カナエは反対側から、トオルの背中を優しく洗いながら、
「ここにいるわよ。誰もいなくなったりしないから」
時折、トオルは七歳の子供に戻る。お風呂の湯気の中で、姉妹の胸に顔を埋めて、静かに息を吐く。寂しさが、温かな肌に溶けていくようだった。姉妹は決して笑ったりせず、ただ優しく頭を撫で続ける。湯船の水音だけが、静かに響く。
夜になると、寝室はさらに穏やかになった。トオルのベッドはシングルだが、姉妹のどちらかが隣に敷いた布団で寝る。今日はしのぶの番だった。電気を消すと、暗闇の中でトオルの寝息が聞こえる。
「……寂しい……」
小さな寝言が漏れた。トオルは目を閉じたまま、眉を寄せて体を丸める。
しのぶはそっと手を伸ばし、トオルの頭を優しく撫でた。指先が髪を梳き、耳元で囁く。
「大丈夫よ、トオルくん。ここにいるわ」
カナエが交代の夜は、子守歌を歌う。古い日本の子守歌を、穏やかな声で。
♪ ねんねんころりよ おころりよ ……
トオルは徐々に体を緩め、穏やかな顔で眠りにつく。寝息が規則正しくなり、眉間の皺が消える。姉妹は交代で、夜通しトオルの側にいた。時折、トオルが無意識に手を伸ばして姉妹の袖を握ると、優しく握り返す。
朝になると、トオルはいつものように目を覚ます。少し照れくさそうに、
「おはよう……しのぶさん、カナエさん」
しのぶが微笑む。
「ふふ、おはようございますわ。よく眠れました?」
カナエが優しく頷く。
「あらあら、今日は元気そうね。今日も一緒にいましょうね」
トオルは杖くんを握りしめ、頷いた。
「うん……ありがとう」
杖くん――レディ・アヴァロンは、トオルの耳元で誰にも聞こえない声で囁く。
『トオルちゃん……甘えていいわよ。あなたはまだ七歳なんだから。私も、みんなも、ずっと側にいる』
基地の外では、霧の港町が新年の灯りを灯し始めていた。レストランの厨房では若きシェフたちがダンジョン産の食材を切り、港では大型船が荷を下ろす。食と鉱と科学の街は、賑やかに息づいている。
だが、地下の小さな部屋では、七歳の少年が、優しい姉妹たちに守られながら、静かに心を癒していた。
一人にできない夜は、まだ続く。
人類史上最大の魔法使いは、深淵の闇を背負いながらも、誰かの温もりに甘えることを、少しずつ許し始めていた。
それは、静かで、温かな一歩だった。