杖くんと七歳の魔法使い ~深淵から帰還した少年は、今日もみんなの笑顔を守る~ 作:redhot
岩内の北洋銀行岩内支店は、かつての静かな漁村の銀行とはまるで別物になっていた。木造の小さな建物に、昭和の蛍光灯が白く照らすカウンター。元々は地元の漁師や農家が預金し、わずかな融資を求めるだけの支店だった。それが今、毎週のように億単位の入金が振り込まれるたび、行員たちは朝から晩まで計算機を叩き、電話に追われ、汗だくで対応に追われていた。
支店長の山田は、額の汗を拭いながら会議室のテーブルを叩いた。
「今週もまた……三億八千万円。トオルくんの口座に。ダンジョンサーモン、軍隊ガニ、ミスリル……全部が現金化されてる。預金残高はもう、町の年間予算を軽く超えてるぞ」
行員の一人が、書類の山を抱えて頭を抱えた。
「本店からは毎週のように『投資を進めろ』って要請が来ます。でも、どうしろってんですか? 本人は自衛隊の基地の中にいて、関係者以外立ち入り禁止。しかも七歳の子供ですよ。『お子様の将来のために』って勧めようにも、会えないんですから」
もう一人が、ため息をついた。
「投資信託を勧めたいのは山々だけど……相手は子供。親御さんが管理してる口座だって聞きましたが、手をつけていないらしい。どれだけあるかも確認していないって。『トオルが自由になった時に』ってだけ。俺たちにできるのは、ただ預かって利息を付けるだけですよ」
会議室は重い沈黙に包まれた。昭和の扇風機が回る音だけが響く。元々小さな町の銀行だった。ここに億の波が押し寄せるたび、行員たちは「どうするべきか」と毎週のように話し合った。本店は焦る。全国の支店長会議でも「岩内支店は特別だ。トオルくんの資産を有効活用しろ」と圧力がかかる。だが、誰も基地に入れない。トオルそのものが国家機密の塊なのだから。
銀行以上に忙しいのは、役場だった。
岩内町役場は、かつては漁業許可や戸籍謄本を扱うだけの小さな建物。そこに今、世界中から集まったシェフ、バイヤー、鉄鋼会社の支社職員、食通の観光客が殺到し、人口が一気に三倍近くに膨れ上がっていた。窓口は毎日行列。住宅手配、住民登録、営業許可、ゴミ処理……すべてが追いつかない。
町長補佐の若い職員は、書類の山に埋もれながら呟いた。
「もう四苦八苦ですよ。宿泊施設は満室続きで、新築ラッシュ。外国人シェフのビザ申請が山積み。税務処理も……ダンジョン産の食材取引で、税収は跳ね上がってるのに、人手が足りない」
隣の机では、戸籍係が頭を抱えていた。
「急に増えた住人の住所変更届が……昨日だけで五十件。岩内がこんなに国際的になるなんて、夢にも思わなかった」
そして、警察署もまた、かつてない忙しさに見舞われていた。
岩内警察署は、元々は漁師の喧嘩や酔っ払いの対応が主だった小さな署。だが、人が増えた影響で事件も急増。外国人シェフ同士の食材争い、バイヤーのトラブル、海外資本の支社がらみの経済犯罪……。道警本部は即座に決断した。全道から優秀なマル暴(暴力団対策)担当官と、英会話に堪能な警察官を岩内に派遣する。
署長は会議室で地図を広げながら、声を張った。
「今日からマル暴のエースが三人、英語のできる巡査長が五人来る。外国人のシェフやバイヤーが増えてるんだ。トラブルを未然に防げ。ダンジョン産の食材を狙った闇取引も出てくるかもしれない」
若い巡査は頷きながら、拳を握った。
「岩内がこんなに変わるなんて……全部、あのトオルくんのおかげですよね。でも、あの子は基地の中で、知らないままなんだろうな」
署の外では、霧の港町が活気づいていた。新しくできた高級レストランの看板が並び、港には大型船が停泊し、トラックが食材を運び出す。
佐藤家では、母の美恵子が届いたばかりの軍隊ガニの身を箸でつまみながら、静かに言った。
「トオルの口座……銀行さんが大変だって、役場の人から聞いたわ。でも、あの子は基地で、ただみんなのために採ってきてるだけなのに……」
父の健一は頷き、サーモンを口に運んだ。
「俺たちも、ただ見守るしかないな。あの子が自由になった時……その時が来るまで」
岩内は、億の波と人の波に飲み込まれながらも、静かに回り続けていた。
トオルは基地の食堂で、みんなと笑いながらポーションを精製し、杖くんと共に次の探索を待っている。
少年の優しさが生んだ波は、町全体を、そして日本を、ゆっくりと変えていた。
人類史上最大の魔法使いの物語は、銀行の計算機の音と、役場の喧騒の中で、静かに広がり続けていた。