杖くんと七歳の魔法使い ~深淵から帰還した少年は、今日もみんなの笑顔を守る~ 作:redhot
岩内の霧はいつもより濃く、港町の新しい高級レストラン「深淵の食卓」は、夜の帳が下りると同時に異様な熱気に包まれていた。白い壁にシンプルな看板。店内は昭和の木のテーブルと椅子が並ぶだけだが、厨房からは世界最高峰の香りが漂う。そこに、今夜は世界中のマフィアのボスたちが集まっていた。
シチリアのドン・サルヴァトーレ・グレコ。ニューヨークの五ファミリーの頭目たち。ロシアのヴォロヴォイ。香港の三合会の大佬。日本の山口組、稲川会、住吉会の組長たち。普段なら互いに殺し合い、縄張りを血で染める敵対者同士が、同じ店内にいた。
だが、ここでは誰も銃を抜かない。誰もナイフを隠し持たない。
軍隊が警備しているのだ。自衛隊の制服姿が店内外に静かに立ち、64式小銃を肩にかけ、目を光らせている。警察相手とは危険度が違う。岩内警察署は全道からマル暴のエースと英会話のできる警官を増員し、外務省も極秘で監視チームを派遣していた。血生臭い事件が起きれば、日本政府は即座に「出禁」を宣告するだろう。それが何より恐ろしい。
この場所で争う愚は、誰も犯さない。
地元でどれだけ殺し合っていようと、ここは別だ。ダンジョン産の食材は、たとえボスであっても滅多に手に入らない。ネオトマトの酸味、あばれうしどりの霜降り、軍隊ガニの極上身、黄金イクラの弾力……これらを味わえるのは、世界でも岩内だけ。出禁になれば、二度と口にできない。
ドン・グレコは、静かにフォークを置いた。ネオトマトをベースにしたピザを一口味わい、目を細める。
「極上だ……。日本政府が守るこの場所で、俺たちが争うなど馬鹿げている」
隣に座るニューヨークのファミリーの頭目は、軍隊ガニの身を頰張りながら、低く笑った。
「同感だ。ここで撃ち合えば、明日の新聞は『マフィア全滅』だ。しかも、食材が手に入らなくなる。配下にも厳命した。睨み合うだけだ」
日本の組長たちは、静かにあばれうしどりのステーキを切り分けていた。山口組の幹部が、稲川会のボスと目が合っても、ただ軽く会釈するだけ。配下の若い衆たちは店外で一触即発の空気を漂わせている。短気な者たちは拳を握り、睨み合う。だが、ボスから「喧嘩は禁止。破ればどうなるか、わかっているな」と厳命されている。破れば、組の存続すら危うい。岩内での取引ルートが断たれるのだ。
外務省の担当官は、基地近くの臨時監視室で汗を拭っていた。
「海外の有名マフィアボスが十人以上……お忍びで来ている。血生臭い事件が起きれば国際問題だ。警視庁も本庁から特別チームを送ってきているが……本当に静かで助かる」
警視庁のマル暴課長は、受話器を握りしめながら呟いた。
「配下は睨み合いだけですんでいる。ボスが大人しいからな。ダンジョン産の食材の魅力が、奴らの縄張り意識を上回ってるんだ」
店内では、ボスたちが静かにグラスを掲げた。ワインではなく、ダンジョンサーモンの脂が溶け出した黄金のスープを注いだものだった。
ドン・グレコが低く言った。
「ここでは、俺たちはただの食いしん坊だ。争いは地元でやればいい」
他のボスたちが、静かに頷く。
「そうだ。ここで失うものは大きすぎる」
トオルは基地の食堂で、その話を胡蝶しのぶから聞かされていた。杖くんを膝に置き、目を丸くする。
「マフィアの人たちも……僕の食材を食べて、争わないんだ」
しのぶが蝶のような微笑みを浮かべた。
「ふふ、トオルくんのおかげですわ。あの子の優しさが、世界中の暗黒街まで繋いでいるなんて……」
カナエが優しくお茶を差し出し、
「あらあら、警察さんも外務省さんも大変そうね。でも、誰も争わないって……トオルくんの食材が、平和の架け橋になってるわ」
トオルは小さく笑った。
「みんなが、美味しいって思ってくれるなら……いいよ」
杖くんが耳元で囁く。
『トオルちゃん……あなたは、もう世界を変えてるのよ』
外では、霧の港町に高級レストランの灯りが揺れ、マフィアの黒い車が静かに去っていく。配下たちは睨み合いながらも、ボスの命に従い、誰も手を上げない。
岩内は、食と鉱と、奇妙な平和の街へと変わり続けていた。
人類史上最大の魔法使いの物語は、暗黒街のボスたちが静かにフォークを置く夜の中で、静かに広がっていく。