たくさんのコメントお待ちしております。書いてくれたらモチベーションアップにつながります。よろしくお願いします。
邪兎屋による金庫奪還依頼が完了し、イチとプロキシ兄妹の契約成立から直後の夜
「ハアァァ……」
工房内に兄妹の疲れた声が響く。
「疲れたねぇ…お兄ちゃん」
「ああ…今日は色々ありすぎた。」
「お二人とも…本当に今日はお疲れさまでした」
「イチさんもお疲れさま…」
リンがぐったりしたまま手をひらひら振る。
その時だった。
しかし次の瞬間、そんな空気を断ち切るように、女性の機械音声が工房へ響き渡った。
『推奨。マスター及び助手二号は、定期的な運動を行ってください』
「ちょっと、ふぇ……! いきなり何言ってるの!?」
「おぉ!これがリンさんの言ってた助っ人さんですかい?」
「否定。助っ人さんではありません。私はマスターの筆頭助手――」
「はいはい、そのへんは私が説明するよ!」
リンが慌てて遮る。
「えっと、うちの新しいAIアシスタントみたいなもの、と思ってもらえれば大丈夫」
『抗議。私の正式な紹介が省略されています、マスター』
イチはFairyの声のする方へ向きなおしゆっくりと口を開く。
「俺ぁイチと申します、以後お見知りおきを」
『通達。マスターの運用体制に従い、あなたを外部協力者として登録します。異議は受理しません』
「ヘヘ、はっきり物言いなさるお嬢さんですな」
『否定。“お嬢さん”ではありません。私はマスターの筆頭助手です』
「こりゃ失礼しました、筆頭助手さん」
『理解していただけたのなら結構です』
「イチさん普通に会話してる……」
「僕たちでもまだ慣れていないのに……」
遠慮なく物を言うその口調は人によってはきつく聞こえるのかもしれないが、イチにはかえって性に合っていた。
「警告。マスター及び助手二号の身体活動量は、推奨水準を下回っています」
「筆頭助手さん、お二人と知り合って間もねぇってぇのに、そこまで分かるもんですかい?」
『肯定。マスター及び助手二号の運動不足は、観測開始から短時間で十分に把握可能でした』
「ちょっと!? そんなに分かりやすい!?」
「容赦ないね……」
「お二人とも、普段はあまり動かれないんで?」
「イチさんまでそっち側に回らないでよ!」
『推奨。散歩を運動習慣の第一段階として設定してください』
「えぇ~めんどくさいなぁ~」
リンがぶつぶつとぼやく。
「ちなみにイチさんって、どのくらい歩いてるの?」
イチは顔を上げてビデオ屋までの距離を思い返していた。
「今借りてる宿から六分街までですからなぁ…」
「往復で十キロってところですかね」
「「『………………』」」
しばしの沈黙を破ったのはFairyだった。
『否定。外部協力者の徒歩習慣は参考値として不適切です』
「……イチさんのは参考にはならないや」
「……それ散歩なのかな…?」
「お役に立てませんでしたな、申し訳ない。」
イチは困ったように小さく笑った。
「さて、夜も更けてきやしたし、そろそろお暇しましょうかね」
「明日も早いのかい?」
「ええ、カンパス通りの方で一件、依頼がありましてね」
「カンパス通り……デッドエンドホロウの近くだよね」
「ええ」
「……気をつけて。今日はもういろいろあったし」
「イチさん、今日はありがとう、いろいろ助かったよ」
「ははぁ、確かに。ずいぶん濃い一日で」
「でも、記憶探しの件はちゃんと手伝うから」
「ええ、よろしくお願いします」
「じゃあね、イチさん」
「帰り道、気をつけて」
「ありがとうございます。それじゃあ」
そう言って、イチはRandom Playを後にした。
ドアをくぐって足を止め、そっと夜気を吸い込む。六分街はすっかり夜の冷たさに包まれていた。
「へへ……」
自然と笑みが漏れた。
六年ものあいだ、止まったままだったものが、ようやく動き始めた気がした。
あの兄妹と出会ってからだ。
止まっていた縁も、探しものも、少しずつだが確かに前へ進み始めている。
誰に聞かせるでもなくイチは小さくつぶやく。
「本当に、忙しくなってきましたな……」
しかし、その“忙しさ”は想像していたものとは少々違っていた。
気がつけば、辺りでは大勢の怒鳴り声やざわめき、子供の泣き声が飛び交い、依頼で来た通りはすっかり騒ぎの渦中である。
イチはサングラスに触れながら、瓦礫の上に腰を下ろしていた。
落ち着かぬ気配のまま、仕込み杖の石突きで足元をかん、かんと鳴らしている。
「いきなり、忙しすぎやしませんかね…」
イチの呟きは、喧騒に包まれたカンパス通りに吸い込まれていった。
――話は、七日前の朝にさかのぼる。
―――カンパス通り
旧都近くにあるスラム街。
「はあぁぁぁぁ。」
老婦人の気持ちよさそうな声がカンパス通りの一角からこぼれた。
イチは依頼人の施術を行っていた。
「どうですかね?力加減の方は?」
「ちょうどいいよ、ありがとうね、按摩さん」
「それにしても、腕のいい流しのマッサージ屋がいるって聞いたけど……まさか目が見えないなんて、あんたも大変だねぇ」
イチは飄々と答える。
「いやぁ、見えねぇぶん他で飯を食わにゃなりませんからねぇ」
「おじさん、目が見えないの?」
不意にイチの横から女の子の声が聞こえてきた。
「ん?この子は?」
「あぁ…私の孫だよ、いろいろあって一緒に住んでるのさ」
「そうでしたか……」
ここは新エリー都の中に多くあるスラム街のひとつ、訳ありの家族など珍しくはない。
イチの手つきが、ほんのわずかにやわらぐ。
老婦人は苦笑まじりに続けた。
「そんな気ぃ遣わないどくれ。いろいろあったのは本当だけどね、お転婆なこの子のおかげで暇はしてないよ」
「それはようございました。」
そこで、少女がまたイチへ声をかけた。
「ねぇねぇおじさん、本当に目が見えないの?」
「ええ、見えませんよ。お嬢ちゃんのかわいらしい顔を拝めねぇのは、残念ですがかわいい声は格別でさぁ。」
「アハハ、おじちゃんおもしろーい♪」
「へへ…」
イチは少し照れたように笑った。
部屋にはイチの施術の音と少女の笑い声だけが静かに響いていた。
「さて…こんなものでしょうかね。」
イチは老婦人の体から手を放し問いかけた。
老婦人は腰に手を当て
「こりゃあ驚いた。さっきまでの重たさが嘘みたいだよ」
「へへ、そいつぁ結構」
イチは膝の上で手を軽く払った。
「しばらくは無理に重いもんを持たないことです。肩も腰も、少し楽になったからってすぐ働かせりゃ、また元に戻っちまいますからねぇ」
「耳が痛いねぇ」
老婦人は苦笑したが、その声は明るかった。
「代金は、これで足りるかい」
「ええ、十分です」
差し出された紙幣を受け取り、イチは丁寧に頭を下げる。
「毎度どうも。こっちも助かりました」
「助かったのはこっちの方さ。ほんと、あんたみたいなのが来てくれて助かるよ」
イチは何も言わず、小さく笑うだけにとどめる。
立ち上がり、傍らの杖に手を伸ばした。
壁際に立てかけてあった仕込み杖を取ると、慣れた手つきで石突きを床へ軽く当てる。
かつん。
その乾いた音に、少女がまたこちらを見た。
「おじさん、もう帰るの?」
「ええ。あんまり長居してもご迷惑でしょうしね」
「そんなことないよぉ」
「はは、そりゃありがたい」
イチはサングラスの位置を指先で直し、戸口の方へ身体を向ける。
その時だった。
老婦人が、ふと思い出したように声をかけた。
「按摩さん、帰るなら気をつけなよ、最近物騒だからね」
「物騒とは?」
「最近、工事か何かで、いろいろ運び込まれてるみたいでね」
「そのせいか、治安官までうろついてるのさ」
「……そいつぁ、あまり景気のいい話じゃありませんな」
「だろう?」
老婦人は肩をすくめた。
「ま、カンパス通りじゃ珍しくもない……そう思いたいとこだけどねぇ」
「肝に銘じときますよ」
イチは苦笑まじりに答えたが、声は少しだけ慎重になっていた。
老婦人はそれを聞いて、今度はいつもの調子へ戻すように孫へ顎をしゃくる。
「ほら、お前。兄さんを出口まで送ってやりな」
「え?いいの!?」
少女の声がぱっと明るくなる。
「いいの、じゃないよ。外の様子も少し見といで。按摩さん一人で帰すのも味気ないだろ」
「わーい!」
少女はすぐに立ち上がり、ぺたぺたと軽い足音でイチのそばへ駆け寄った。
「おじさん、こっちだよ!」
「こりゃ頼もしい案内人がついてくれましたな」
「まかせて!」
「それじゃあ、お言葉に甘えまして」
イチは老婦人へ向かって軽く頭を下げた。
「今日はどうも」
「こちらこそ。また身体が重たくなったら頼むよ」
「ええ、その時はまた」
少女に手を引かれ、イチは杖を鳴らしながら玄関へ向かう。
かつん、かつん。
その後ろで、老婦人がもう一度だけ声をかけた。
「按摩さん」
「はい?」
「変だと思ったら、無理はしないどくれよ」
イチは一瞬だけ黙り、それからいつもの調子で小さく笑った。
「へへ。気をつけますよ」
そう言ってイチは婦人の家を後にした。
外の空気は、部屋の中よりずっとざらついていた。
湿った埃の匂い。遠くから流れてくる喧騒。どこか張りつめた足音。
少女が元気よく言う。
「おじさん、こっちこっち!」
「ええ、お願いしますよ、お嬢ちゃん」
そうしてイチは、少女に導かれるようにカンパス通りの通りへ出た。
少女はイチに聞いてくる、
「ねぇ、おじさん、おばあちゃんが言ってた”あんまさん”?っておじちゃんの名前なの」
「いえ、名前じゃありませんよ。体をもんで、楽にする仕事の人を、昔はそう呼んだんです」
「じゃあ、おじちゃんのホントの名前は?」
「ホントの名前ねぇ…」
イチは一瞬考えた後、名乗り出す。
「イチと申します」
「イチおじさんだね!よろしく!」
「ええ、よろしく」
少女に手を引かれイチは出口へ向かっていた。ふと出口とは別の方向へ顔を向ける。
ホロウ特有の気配、それもかなり大きい……
「お嬢ちゃん、こっちは……」
イチは杖を気配のする方へ向ける、
「こっちはデッドエンドホロウだよ」
「デッドエンドホロウ……」
「このホロウさえなければみんな、都市の方へ遊びに行けるんだけどね」
そこで少しだけ声をひそめた。
「ほかの人は…え~と…えーてるてきおうたいしつ?がないから行けないんだって」
「そうですか……」
イチはそこで足を止め、少女の背丈に合わせるようにゆっくりしゃがみ込んだ。
「あんまり、うろうろしておばあちゃんを心配するようなことはしちゃいけませんぜ」
「心配かけないも~ん、ちゃんと戻ってこれるし」
「万が一ってこともありますからな…」
少女は再びイチの手を引き歩き出す
「もー、平気だってば。ほら、おじちゃーん、こっちこっち! 早く行こ!」
「はいはい」
イチは苦笑しつつ立ち上がる。
そして再び、少女に手を引かれたとき、イチの頭の中に不意に幼い影がよぎる。
「っ!!」
自分の手をつかむ小さな手。見上げてくる顔は黒く塗りつぶされていた。
イチはほんのわずかに足を止めた。
「おじちゃん?大丈夫?」
少女の声がイチを現実へと引き戻す。
イチは一瞬の何かの断片を振り払い答えた。
「え…ええ、大丈夫ですよ」
イチは少女に手を引かれながら、意識の半分をさきほどよぎった記憶の断片へ引かれるまま、再び出口へ向かっていた。
イチと少女はカンパス通りの外れまでやってきた。
「ここからまっすぐ行けば都市の方へ行けるよ」
「お嬢ちゃん、ありがとう、助かりやした」
「うん♪イチおじさんも気をつけて帰ってね」
「ええ、お嬢ちゃんもおばあちゃんに心配かけないようまっすぐ帰ってくだせえよ」
「心配しないで、じゃーねぇ」
そう言って少女の足音は遠ざかっていた。
「ヘヘ、本当の名前ねぇ……」
さっき少女に問われた言葉が、今さらになって胸の奥へ沈んでいく。
本当の名前。
そんなもの、今の自分には分からない。
あるのかどうかさえ、はっきりしない。
記憶を失った身には、名さえどこか借り物じみて聞こえる。
イチはサングラスの位置を指先で直した。
その指先に、ふとさっきの感触が蘇る。
少女の小さな頭を撫でた時――
あの一瞬、脳裏をかすめた、黒く塗りつぶされた幼い影。
手を掴む、小さな手。
見上げてくる、誰かの気配。
「あれは……誰だったんですかねぇ……」
イチが考えに耽りながら歩いていると突如として呼び止める声が聞こえ、イチは足を止めた。
「止まれ」
イチはすぐに耳を研ぎ澄ます。少なくとも三人、イチの行く手を阻む声と足音が聞こえてきた。
「ここは今は通行止めだ、引き返せ」
「通行止めとはどういうことですかい?」
「ここはヴィジョンの再開発エリアだ、工事の関係で誰も通すことはできない」
「おかしいですなぁ…来る時は通れたんですが…」
「指示が変わった…今は誰も通せん」
男はただ淡々と言う。
「いや、俺ぁ施術の依頼で来ただけでしてね、帰るのもだめなんですかい?」
「……ちょっと待て」
男がそう言うと無線機の雑音が聞こえてくる。
短いやり取りののち、再び声が返ってくる。
「例外は認めない、今来た道を戻れ」
「失礼ですが、あんた方ぁ工事の人足じゃありませんね」
イチが静かに問うと、男は間を置かず答えた。
「……治安局の者だ」
その一言で、空気がまた少しだけ冷えた。
治安局。
工事の関係者ではなく、わざわざ外から人を返す側の人間。
「ほう……」
イチは小さく首を傾げる。
「治安局の方が、こんなところまで出張っておいでとは」
「質問はするな。指示に従え」
ぶっきらぼうな返答だった。
イチは喉の奥で小さく笑う。
「へへ。こいつァ、ずいぶんと物々しいことで」
イチはそう言いつつ仕込み杖の柄へ両手を、重ね佇む
外から来た人間まで返さないとはただ事ではない……イチは静かに臨戦態勢を取る…
耳を澄ます。
正面に三人。靴音の重さからして、全員がこちらを警戒している。さらに奴らが動く度に手と金属が擦れる音……おそらく武装している。
しかしこの距離、この並びなら――抜けるだけなら不可能ではない。
強行突破……
イチの脳裏にその四文字が過る。
だが、それはすぐに吹き飛んだ。
『キャハハ』
『待ってよ〜』
イチの後ろからはカンパス通りの住民だろう、無邪気な子供の声が聞こえてきた。
今仕込み杖を振るえば何の関係もない子供達を巻き込むことになる。
イチは静かに仕込み杖を右手に持ち替え臨戦態勢を解く。
「仕方ありませんな」
イチは踵を返し元の来た道を歩き出す、しかし数歩進んだところで振り返る。
「調整ってのはどのくらいかかるんで?」
「追って知らせる」
「へぇへぇ…お待ちしてますよ」
そう言ってイチは再びカンパス通りの方へ歩き出す。拭けぬ疑念を抱きながら……
封鎖線で追い返されたあと、イチはカンパス通りの外れから再び街の中へ戻った。
帰れない。
それだけでも十分に異常だったが、引き返した先で耳に入ってきたのは、もっと嫌な話ばかりだった。
ヴィジョンの再開発。
この一帯は近いうちに解体されること。
その前に住民は順に移送される予定であること。
だから迎えが来るまで大人しく待てと、何日もそう言われ続けていること。
待て。
迎えが来る。
準備が整うまで騒ぐな。
誰に聞いても、返ってくる言葉は似たようなものだった。
それならばと、イチは腰を落ち着けることにした。
どうせすぐには出られない。
だったら、話を聞いて回るついでに、出来ることをやるしかない。
通りの片隅を借り、格安で施術を始めたのはその日の夕方からだった。
最初は物珍しさ半分だった住民たちも、揉まれて少しでも身体が軽くなると、自然と口が緩んだ。
誰々の家には子どもがいる。
ここには昔頼りになる自警団がいた。
昨日は監視拠点でこう言われた。
その前の日も、そのまた前の日も、似たようなことを言われた。
イチは指先で張りをほぐしながら、耳では街の空気を拾い続けた。
気づけば、カンパス通りで足止めを食ってから六日が過ぎていた。
そのあいだ、住民たちの苛立ちは少しずつ積もっていったが、完全な絶望にまでは傾いていない。
腹の底ではおかしいと思いながらも、どこかでまだ「迎えは来るのかもしれない」と思っている。
諦め切れないのだ。
そう言われ続けてきたから。
ここまで待ってきたから。
そして六日目の昼。
少女が息せき切って戻ってきた。
「おじさん!」
軽い足音が駆け寄ってくる。
その後ろに老婦人のゆっくりした足取り。
「おや、お嬢ちゃん。どうでした」
イチが顔を向けると、少女は得意げに胸を張った。
「聞いてきたよ! 監視拠点の人、“明日には必ず列車で迎えに来る”って言ってた!」
周囲の空気が、そこで少しだけ変わった。
「ほんとかい?」 「今度こそか?」 「列車で、ってはっきり?」
今まで何度も待たされてきた住民たちも、その言葉にはさすがに顔を上げる。
老婦人も、疲れた顔のまま、それでもわずかに息をついた。
「……そうかい。明日、ねぇ」
イチは少女の頭へそっと手を置いた。
「ご苦労さんで」
「えへへ」
「そいつァ何よりだ」
明日は必ず来る。
その言葉を、イチは完全に信じたわけではない。
だが、少なくとも住民たちが今夜だけでも少し眠れるなら、それでよかった。
自分もまた、胸の奥でわずかに力を抜いた。
迎えが来る。
明日は、ここを出られるかもしれない。
そう思ったからだ。
だが、七日目の朝、
まだ列車の影も見えないうちから、街の空気が落ち着かない方へ転び始めた時には、妙に嫌な予感がした。
遠くで聞こえる怒鳴り声。
監視拠点の方へ向かう足音。
戻ってくる者たちの、疲れた沈黙。
それでもイチは、まずはいつものように手を動かした。
だが、今朝は指先に伝わる張りもいつもより強い。
待たされ続けた疲れ。
眠れなかった夜。
言葉にしない不安。
街じゅうが、もう限界に近いところまで張り詰めていた。
施術を終え、イチは静かに手を離す。
ふう、と小さく息をつき、仕込み杖を手元へ引き寄せた。
そして少し離れた瓦礫の下に腰を降ろした。
止まっていたものが動き出した、その直後にこれである。どうやら穏やかにはいかないらしい。
「いきなり忙しすぎやしませんかね……」
イチの声は、喧騒に包まれたカンパス通りに吸い込まれていった。
しかし次の瞬間、瓦礫の上に座っているイチの耳に不思議な音が聞こえてきた。形容しがたい、空間がゆがむような音だった。
次の瞬間、この場には似合わないテンションの高い声が響き渡った。
そこから続く声にイチは小さく微笑んでいた。