継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「時間が逆回転している」と訴えた。時計の針が、記憶が、そして世界そのものが——彼はそう主張した。
私は彼の話を、そのまま記録する。
目が覚めると、部屋の時計が止まっていた。
いや、止まっているわけではない。秒針は動いている。ただ、動く方向が——逆だった。
彼は布団から起き上がり、壁掛け時計に近づいた。確かに秒針は反時計回りに進んでいる。カチ、カチ、カチ、と規則正しく。
「電池が切れかけているんだろう」
そう結論づけて、彼は洗面所へ向かった。
鏡の中の自分を見る。いつもと変わらない顔。ただ、何かが——何かが少しだけ違う気がした。
歯を磨き、顔を洗う。タオルで顔を拭いてもう一度鏡を見たとき、彼は気づいた。
鏡の中の時計が、正しい方向に回っている。
振り返る。壁掛け時計は相変わらず逆回転している。だが、鏡に映った時計の針は、正しく時計回りに進んでいる。
「……鏡だから、逆に見えるのか?」
いや、違う。鏡は左右を反転させるが、時計の回転方向までは変えない。
彼は混乱した頭を振り、リビングへ戻った。スマートフォンを手に取る。
午前7時15分。
いつもの起床時刻だ。何も問題ない。
壁掛け時計を見る。針は7時14分59秒を指している。そして、秒針が58秒へと——逆行した。
「壊れているだけだ」
彼はそう呟いて、出勤の準備を始めた。
────────────────
会社に着くと、同僚の田中が声をかけてきた。
「おはよう。昨日の続き、よろしく」
昨日の続き?
彼は一瞬、何のことか分からなかった。だが、すぐに思い出す。昨日、田中に頼まれた資料作成。まだ途中だった。
「ああ、分かった。午前中に仕上げる」
「助かるよ。じゃあ、また後で」
田中は去っていった。
彼はデスクに座り、パソコンを起動する。メールをチェックする。
受信トレイの一番上に、田中からのメール。
件名:「資料、ありがとう」
本文:「先ほどは資料作成ありがとうございました。確認しましたが、問題ありませんでした。」
送信時刻:午前9時32分。
……9時32分?
今は午前8時50分だ。未来からのメールが届いている。
いや、違う。これは昨日のメールの続きか? それとも——
彼は資料ファイルを開いた。
完成していた。
昨日の夜、途中まで作っていた資料が、完全に仕上がっている。最終更新日時は、今朝の午前9時15分。
まだ来ていない時刻だ。
「……おかしい」
彼は時計を見た。パソコンの右下に表示されている時刻は、午前8時51分。秒針が——逆に進んでいる。
8時51分00秒。
8時50分59秒。
8時50分58秒。
時間が、戻っている。
────────────────
彼は席を立ち、トイレに駆け込んだ。
個室に入り、スマートフォンを取り出す。時刻表示を見る。
午前8時52分。
ホッとする。正常だ。時間は正しく進んでいる。
だが、次の瞬間、彼は気づいた。
秒数が減っている。
8時52分30秒。
8時52分29秒。
8時52分28秒。
「違う、違う、違う——」
彼は壁を叩いた。冷たいタイルの感触が、現実を思い出させる。
深呼吸をする。
「落ち着け。時計が壊れているだけだ。スマホも、パソコンも、全部故障しているだけだ」
だが、全ての時計が同時に故障するだろうか? しかも、全て同じように逆回転するだろうか?
彼はトイレから出て、給湯室へ向かった。壁掛け時計を確認する。
午前8時49分。
さっきパソコンで見た時刻より、戻っている。
そして、秒針は——逆回転している。
彼は給湯室を出て、廊下を歩いた。すれ違う同僚たちは、いつもと変わらない。笑顔で挨拶をする。何も気づいていない様子だ。
「おはよう」
彼も挨拶を返す。だが、その同僚の腕時計の秒針が、逆に回っているのが見えた。
彼はデスクに戻った。
田中が近づいてくる。
「資料、さっき見たよ。完璧だった。ありがとう」
「……え?」
「さっき送ってくれた資料。問題なかったから、もう部長に提出したよ」
「いつ送った?」
「9時15分だよ。メール、届いてないの?」
彼はパソコンの時刻を見る。
午前8時47分。
9時15分は、まだ来ていない。
────────────────
昼休み、彼は外に出た。
街を歩く。人々は普段通りに生活している。誰も何も気づいていない。
だが、彼には見える。
駅の時計が逆回転している。
信号機のカウントダウンが、増えている。
スーパーのタイムセール表示が、終了時刻から遠ざかっている。
「なぜ、誰も気づかないんだ?」
彼はベンチに座り、頭を抱えた。
ふと、隣に座っていた老人が話しかけてきた。
「どうしたんだね、若いの。何か困っているようだが」
「……時間が、おかしいんです」
「時間?」
「逆に進んでいるんです。時計が、全部」
老人は彼の顔をじっと見た。そして、静かに言った。
「ああ、君にも見えるようになったのか」
「……え?」
「時間は、最初から逆に進んでいたんだよ。ただ、ほとんどの人間は気づかない。気づいた者だけが、見えるんだ」
「何を言っているんですか」
「君は今朝、何時に起きた?」
「7時15分です」
「そうか。では、昨日は?」
彼は記憶を辿る。昨日の朝は——
「……7時16分、だったと思います」
「そうだろう。明日は7時14分に起きる。そして明後日は7時13分。どんどん遡っていくんだ」
「そんな、馬鹿な——」
「君の記憶を思い出してごらん。昨日より今日の方が、若くないかい?」
彼は鏡で見た自分の顔を思い出す。
何かが違うと感じた、あの違和感。
「年を取るというのは、時間が進むということだ。だが、時間が逆に進むなら——」
老人は立ち上がった。
「君は、若返っていくんだよ。いずれ、昨日に戻る。そして一昨日に。一年前に。十年前に」
「それじゃあ、僕は——」
「消える。生まれる前まで遡ったら、ね」
老人は去っていった。
彼は呆然と、老人の背中を見送った。
────────────────
夕方、彼は家に帰った。
時計を見る。午後6時30分。
いや、違う。秒針が逆回転しているなら、これは「午後6時30分に向かっている」のではない。「午後6時30分から遠ざかっている」のだ。
スマートフォンを見る。
午後6時29分59秒。
58秒。
57秒。
時間は、確かに戻っている。
彼はリビングの時計を見た。
7時14分59秒。
今朝、起きたときの時刻だ。
そして、秒針が58秒を指す。
彼は気づいた。
一日が、巻き戻っている。
明日の朝、彼が目覚めるとき、時計は昨日の朝の時刻を示すだろう。
そして、その次の日は——
彼は震える手で、カレンダーを見た。
今日の日付に、×印がついている。
だが、その×印は——消えかけていた。
まるで、「今日」という日が、なかったことにされようとしているかのように。
────────────────
深夜、彼はベッドに横たわっていた。
眠れなかった。
時計の音が、耳から離れない。
カチ、カチ、カチ。
逆回転する秒針の音。
彼は思い出す。
昨日の朝、目覚めたときの感覚。
何かが違うと思った、あの違和感。
それは——自分が、昨日より若くなっていたからだ。
ほんの少し。気づかない程度に。
だが、確実に。
老人の言葉が蘇る。
「生まれる前まで遡ったら、消える」
彼は計算した。
今、彼は32歳だ。
一日に一秒ずつ遡るとすれば——
いや、そうではない。一日が丸ごと巻き戻っているなら——
彼は絶望した。
計算する意味などなかった。
なぜなら、彼が今考えているこの思考も、明日には「なかったこと」になるのだから。
明日の朝、彼は今日のことを覚えていない。
明後日の朝、彼は昨日のことも覚えていない。
どんどん記憶が失われていく。
そして最後には——
────────────────
翌朝、目が覚めると、部屋の時計が止まっていた。
いや、止まっているわけではない。秒針は動いている。ただ、動く方向が——
「……あれ?」
彼は首を傾げた。
なぜ自分はこんなことを考えているんだろう。
時計が逆回転? そんなわけない。
彼は時計を見た。
確かに秒針は、正しい方向に進んでいる。
「気のせいか」
彼はベッドから起き上がった。
鏡を見る。
いつもと変わらない顔。
いや——ほんの少しだけ、若く見える気がした。
────────────────
記録を終えると、私は一本目の蝋燭を消した。
彼のその後を、私は知らない。
だが、もし彼の話が本当なら——彼はもう、この記録を読むことはできないだろう。
なぜなら、彼は「この記録が書かれる前」まで遡ってしまったのだから。
残りは九十九本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
この話を読んで、
何か感じたこと、気づいたことがあれば、
評価・ブックマーク・コメントで教えてください。
あなたの反応が、次の怪談を生み出す糧になります。