継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
彼女の名を、芦川美咲(あしかわ・みさき)という。
待ち合わせの場所に、彼女は五分早く来ていた。
ライダースジャケット、肩にカメラバッグ。テーブルの上にはすでにブラックコーヒーが置いてあり、その隣に小型のICレコーダーが一台。メモを取る相手のために先に道具を並べる人間だということが、一目で分かった。
名前は、事前に連絡があった。「怪談を収集している人間に、事実として確認してほしい話がある」という短いメッセージだった。名乗り方が仕事慣れしていた。
美咲はブラックコーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「これは去年取材した話なんですが——記者として聞いてほしいんです。怪談じゃなくて、事実として」
初対面にしては前のめりだった。
彼女の取材スタイルには、一貫したものがあると感じた。感情よりも事実を先に並べる。そのうえで、事実が届かない部分に踏み込む。記者としての訓練と、個人的な動機が、同じ方向に向いている人間だった。だが圧迫感はなかった。そういう種類の前のめりだった——物怖じしないのではなく、自分が何を求めているかが明確な人間の落ち着きだった。
レコーダーをテーブルに置きながら、彼女は付け加えた。
「でも聞き終わったら、間違いなく怪談になりますよ」
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女性が失踪したのは、昨年の九月だ。
三十代のひとり暮らし。数日、隣室から音がしないことを不審に思った住人が管理会社へ連絡し、そこで発覚した。部屋に争いの痕跡はなく、荷物もほぼ残ったまま。財布とスマホも部屋にあった。スマホのロックを解除する方法がなく、中を確認することはできなかった。
警察は「自発的失踪」として処理した。
美咲はその結論に疑問を持ち、遺族への取材を申し込んだ。
「部屋に手帳が残っていたんです。日記でも予定表でもない——何かを記録し続けていた手帳。でも警察は『日常の記録だから証拠にならない』と言って、遺族に返してしまった」
遺族は、その手帳を美咲に見せた。
「なんてことない内容でした。今日食べたもの、天気、乗った電車の路線。几帳面な字で、毎日びっしり。どこにも行かない日も、必ず何か書いてあった。それだけの手帳を、証拠にならないと言った」
美咲はカップを両手で包んだ。視線が少し落ちた。
「ただ、一ページだけ——何も書いていないページがあった」
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百ページ以上ぎっしり埋まった手帳の中に、一枚だけ。まったく何も書かれていない白紙のページ。
前後のページと比べると、紙の質感が違った。
美咲はしばらく、手帳の表紙を見ていた。
「この手帳の持ち主が何を記録していたのかは、大体分かりました。でも、なぜ一ページだけ空白なのかが分からない。意図的に空けたのか。それとも、書けなかった日があったのか」
「書けなかった日、というのは」
「何かが起きて、書く気力がなかった日。あるいは——書いてはいけないことがあった日」
少し光沢があるような気がした。インクが染み込んでいないせいかもしれない。そういう細かい違いを美咲は確認した。記者の習慣だった。
美咲はそのページをめくろうとした瞬間、指が止まった。
温かかった。
そのページだけが。
他のページは冷たく、乾いていた。長く保管されていた紙の感触。しかしその一枚だけ、まるで誰かが今しがた触れたかのような温もりを持っていた。
前後のページを三度触り比べた。どちらも冷たい。そこだけ温かい。
気温の問題ではなかった。手帳は同じ室内の同じ場所に保管されていた。
「遺族の方も気づいていなかった。私が指摘したら、顔色が変わって——」
美咲はそこで少し間を置いた。
数年前、彼女の親友が突然姿を消した。連絡もなく、前触れもなく。当時、警察は「家出」の二文字で片付けた。美咲はその結論を今も納得していない。あれと似た匂いを感じたのか、彼女の声が一瞬だけ低くなった。
失踪した人間が残したもの。それを「日常の記録だから証拠にならない」と言い捨てる言葉の冷たさを、美咲は二度経験していた。
「……続けます」
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取材後、美咲は遺族の了承を得て、手帳をしばらく預かった。
電車の中では鞄に入れたままにした。隣の客が居眠りをしていた。車窓の外に街が流れた。何も起きなかった。
帰宅してデスクに置き、シャワーを浴びた。十五分ほどだった。
戻ると——手帳が開いていた。
白紙のページに。
美咲はまず窓を確認した。閉まっていた。次にエアコン。切っていた。換気扇。オフだった。デスクの上に置いたとき、何かに挟まっていたか。重さで自然に開くような癖のある製本だったか。手帳を持ち上げ、背表紙を確認した。安価な並製本ではなく、糸で綴じた手帳だった。自然には開かない。
それでも開いていた。白紙のページに。
記者として十年、「偶然」を疑う癖がある。疑えば疑うほど、偶然でない理由だけが残っていった。
美咲はそのページをライトで照らした。圧痕や書き跡がないか確認するつもりで。書かれた内容ではなく、紙の物理的な状態を確認する。それが記者の順序だった。
文字があった。
鉛筆でもボールペンでもない。紙の裏側から何かが皮膚を押し上げているような、歪な凹凸を伴う文字だった。紙そのものが変質していた。繊維が浮き上がり、白く、触れれば分かる隆起として、そこにあった。光を当てても消えなかった。角度を変えても変わらなかった。押し返してくるような硬さが、指先に残った。
「みさき」
それだけだった。
美咲はしばらくその文字を見ていた。
自分の名前だった。フルネームではなく、下の名前だけ。親しい人間が呼ぶときの呼び方だった。
字の形に、見覚えがあった。
どこで見たのか、思い出せなかった。失踪した女性の筆跡とは違う。遺族の誰かとも違う。自分の字とも違う。しかし確かに——どこかで見たことのある、あの字の形だった。
五分間、動かなかった。
カメラバッグは手の届く位置にあった。撮れた。いつもなら手が動いていた。しかしそのとき体が止まったのは、撮れないことへの恐怖ではなかった。
シャッターを切れば、この文字が確定する——という感覚があった。記録されることで、現実になる。記者として十年近く生きてきて、「記録すること」の重さをこれほど恐ろしいと思ったのは、初めてだった。
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失踪した女性は、芦川美咲という名前を知らないはずだ。
取材のために渡した名刺は、すべて遺族へのものだった。被害者本人と顔を合わせたことは、一度もない。彼女が失踪したのは、美咲が取材を始めるより前のことだった。
それでも白紙のページには——
「みさき、と書いてあった」
美咲は私を見た。
「霊の仕業なら、なぜ私の名前を知っていたのか。圧痕なら、誰がいつ書いたのか。紙の劣化なら、なぜこんな形になるのか」
三つの問いに、私は答えなかった。
答えが出せなかった。
「手帳は今もあるんですか」と私は聞いた。
「遺族に返しました。文字のページを撮影してから」
「撮影した写真は」
「あります」美咲はスマホを取り出した。だが、すぐには見せなかった。「ただ」と言って、少し間を置いた。「写真では、文字が写っていないんです。何度撮っても。肉眼では見えるのに、カメラには写らない」
私は手帳に「みさき」と書いた。それから「写真に写らない文字」とも書いた。
私は手帳に「みさき」と書いてから、もう一行書き足した。「失踪した女性が、美咲を先に知っていた可能性」。
可能性として書いた。根拠はなかった。ただ、排除できなかった。
「その文字が、自分へのメッセージだと思いますか」と私は聞いた。
美咲は答えなかった。すぐには。コーヒーを一口飲んで、カップをゆっくりテーブルに戻してから言った。
「思いたくないんです。でも、なぜ私の名前なのかが——分からない」
少し間があってから、彼女は付け加えた。
「もし失踪した彼女が私を知っていたとしたら——それは、私がまだ知らない何かで繋がっているということになる。それが、怖い」
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記録を終えると、私は十本目の蝋燭を消した。
美咲はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
彼女が帰った後、私は手帳を閉じようとした。
「みさき」と書いたページが、指の下で温かかった。
書いたのは今日だ。インクが乾く前の紙の温度とは違う。私の書き文字の下から、何かが押し返してくるような、あの歪な感触があった。
なぜかそのとき、ふと思った。私が記録した人間たちは、記録された後に何かが変わっているのではないか、と。理由は分からない。根拠もない。ただ、そう思った。すぐに打ち消した。
「また話しに来ます」
それだけ言って、カメラバッグを肩にかけ、彼女はカフェを出ていった。
ガラスの向こうで、足を止めずに歩いていくのが見えた。立ち止まって空を見るでも、スマホを確認するでもなく、真っ直ぐ歩いていった。
残りは九十本。
次に美咲が持ってくる話が、どんな形をしているのか——私にはまだわからない。ただ一つだけ分かることがあった。彼女は記録することをやめない。誰かが「証拠にならない」と言い捨てた場所に、必ず戻ってくる。
そういう人間だということが、十分間の話で分かった。
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