継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「死んだ友人から、メールが来た」と言った。亡くなった人間からメールは来ない——誰でもそう思う。私も、最初はそう思った。
私は彼の話を、そのまま記録する。。
十月の終わりに、彼は友人の遺品整理を手伝った。
友人の名前は、坂本という。三十四歳。七月に、交差点の事故で死んだ。運転していたのは坂本ではなかった。坂本は自転車で信号を待っていた。それだけのことだった。
彼は告別式にも四十九日にも出た。坂本の母親とは以前から顔を合わせる機会があった。「息子の友達は来てくれるから」と、遺品整理も頼まれた。それを断れる理由がなかった。
遺品の段ボールを積み終えたとき、坂本の母親が古いアルバムを渡してきた。「あなたの写真も入ってたから」と言いながら、目を合わせなかった。受け取るとき、母親の手が少し震えていた。彼は気づいていたが、何も言わなかった。
アルバムには、大学時代の写真が入っていた。二十歳の坂本が笑っている。その隣で、同じように笑っている自分がいる。
彼はそれを自宅に持ち帰り、机の引き出しにしまった。見ていると、声をかけてしまいそうな気がしたからだった。
部屋の棚には、坂本の母親からもらった白菊が一束あった。水を換えていなかった。茎の先が、もう茶色くなっていた。捨てようと思って、捨てられなかった日が三日続いていた。
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十一月の最初の水曜日、会社から帰ると部屋が冷えていた。
暖房をつけ、コートを脱ぎ、スマートフォンを充電器に差した。
コンビニで買ってきた夕食をテーブルに置いた。袋を開けずに、まずシャワーを浴びようと立ち上がりかけた。
その瞬間——画面に通知が光った。
差出人の名前を見て、彼は動きを止めた。
「坂本健」
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ロック画面には、メールの冒頭の数行が表示されていた。
《今日は午後から雨になったな。朝は曇りで、傘を持っていくか迷ったろ》
今日の天気の話だった。
彼はアプリを開いた。本文を読んだ。
朝の曇り空、昼過ぎから降り始めた雨——全て正確だった。自分が今日経験した天気と、一字も違わなかった。
次に、昼休みに起きた出来事が書かれていた。自動販売機の前で同僚の西田と話したこと。西田が来月結婚すると言ったこと。
西田が結婚の話をしたのは今日の昼だ。坂本が死んだのは七月だ。
「予約送信だ」
声に出した。
送信日時を確認した。今日の17時32分。坂本のスマートフォンは先月、彼自身がキャリアショップへ持ち込み、解約の手続きをして、物理的に回収されるのを見届けていた。その日の帰り道のことを、今でも細かく覚えていた。
それ以上に——坂本が死んだ後に決まった西田の結婚を、生前に書かれた予約送信が予言できるはずがなかった。
分かっていた。全部、分かっていた。それでも「予約送信だ」と言い続けた。そう思わなければ、立っていられなかった。
それでも彼はメールを読み続けた。今日の天気。昼休みの西田との会話。コンビニのおにぎりの種類。電車の遅延。駅のホームで傘が隣の人と当たったこと。
そのどれもが、正確だった。
正確であるたびに、「予約送信だ」という言葉が薄くなっていった。最後には声にもならなかった。
読み進めるうちに、手が動かなくなった。
ひとつひとつが事実だった。天気は事実だ。西田の結婚も事実だ。コンビニのおにぎりも、電車の遅延も、傘のぶつかりも——全部、今日起きた、彼だけが知っている事実だった。誰にも話していない。SNSにも書いていない。坂本が知り得る方法が、一つもなかった。
それでも坂本は知っていた。
坂本とは十二年の付き合いだった。大学で同じゼミに入り、社会人になってからも年に数回は会っていた。最後に会ったのは、事故の二週間前だった。居酒屋で二時間ほど飲んで、駅で別れた。「またな」と言った。坂本も「またな」と言った。それが最後だった。
メールの文体は、坂本の話し方そのままだった。句読点の使い方も、括弧の入れ方も。
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最後まで読んで、彼は画面を閉じようとした。
だが、もう一行あった。
《お前、最近眠れてないだろ。顔色が悪い。あと菊、枯れてるぞ。水くらい替えてやれ》
彼はそこで読むのをやめた。
——そのはずだった。
指が、勝手にスクロールした。
《……来いよ。久しぶりに、顔見せろ》
それが、最後だった。
テーブルの上のコンビニの袋は、まだ開けていなかった。
坂本が「来い」と書いたとき、どんな気持ちで書いたのだろうと彼は思った。冗談のつもりだったのか。それとも、本当に呼んでいるのか。どちらとも取れる言い方だった。それが坂本らしかった。深刻なことを軽く言う。軽いことをたまに深刻に言う。十二年でそれを知っていたから、余計に分からなかった。暖房が効き始めて、部屋が少しずつ温まっていた。白菊の茎が、棚の水の中で曲がっていた。
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彼はスマートフォンをテーブルに置いた。
暖房の稼働音だけが聞こえていた。
「あれは予約送信だったと思う」と彼は言った。「坂本が生前に、何か仕掛けたんだと思う」
「メールの内容については?」と私は聞いた。
しばらく間があった。
「……分からない」
「そのメールを、今も保存していますか」と私は聞いた。
「消せなかった」と彼は言った。「消しても来る気がして」
「もう一度だけ読み返しましたか」と私は聞いた。
「読みました」と彼は言った。「何度も」
「その都度、同じ内容でしたか」
「同じでした。一字も変わらなかった」
変わらなかったことへの安堵と、変わらなかったことへの恐怖が、どちらも本物だったと彼は言った。
「メールはそれ以降も来ましたか」
「来てほしくなかった」と彼は言った。「来てほしかった。どちらも、本当のことだと思う」
コーヒーカップを両手で包み込むようにして、彼は俯いた。
私はそれ以上聞かなかった。聞けることが残っていないような気がした。記録として必要な情報は揃っていた。それでも、もう少しだけ、この場が続いてほしいと感じた。そう感じること自体が、珍しかった。
「メールは、今夜も来ると思いますか」と最後に聞いた。
彼はしばらく何も言わなかった。コーヒーカップの縁を指で触れて、また離した。
「分かりません」と言った。「でも、菊の水は替えました。帰ってから」
それだけ言って、彼は立ち上がった。
残りは八十九本。
私はその夜、記録を書き終えてから——自分の受信トレイを、一度だけ確認した。
未読が、一件あった。
差出人の名前は——
この話を読んだ後、
見知った名前の通知が届くたびに少しだけ身構えてしまったなら——
それがこの怪談の成功です。
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