継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある女性が私の前に現れ、「誰もいないのに、インターホンが鳴る」と言った。それだけなら珍しい話ではない。問題は、その後に聞こえる足音だった。
私は彼女の話を、そのまま記録する。
引っ越して三ヶ月になる。
ワンルームのマンション。五階建ての四階。築十二年。駅から徒歩八分。家賃は相場よりやや安かったが、理由は聞かなかった。不動産屋は何も言わなかった。
一人暮らしに慣れた頃だった。
夜は決まって遅い。仕事を終えて帰宅するのが二十二時過ぎ。コンビニの弁当を温め、テレビをつけ、ソファに座る。テレビの内容はほとんど頭に入らない。弁当を食べ終えると、ぬるくなった缶コーヒーを飲みながら、スマートフォンをいじる。
それが毎晩の流れだった。
休日も外に出ることが少なかった。休みの日に誰かと会う約束を入れない週が続いていた。それが苦痛かというと、そうでもなかった。ただの習慣だった。
この部屋に越してきてから、誰かを招いたことはない。宅配便の受け取りを除けば、玄関を開けた記憶がほとんどなかった。それでも不便を感じなかった。必要なものはオンラインで届く。人と会うには外へ出ればいい。帰れば、部屋は静かに待っている。
その静けさが、当たり前だった。
最初に鳴ったのは、火曜日の二十三時十七分だった。
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インターホンの音は短かった。ピンポン、と一回。
彼女はモニターを見た。玄関の外に設置されたカメラが映す画面には、誰もいなかった。
廊下の蛍光灯に照らされたコンクリートの床。隣の部屋のドア。それだけだった。
「いたずらだと思いました」
彼女はそう言った。マンションの低層階なら、子供のいたずらということもある。だが四階だ。エレベーターか階段を使わなければ来られない。わざわざ四階まで上がって、ピンポンダッシュをする理由が分からない。
彼女はモニターを消し、ソファに戻った。
テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れていた。缶コーヒーの底に、残りが少しだけあった。
その夜は特に何も起きなかった。翌朝、廊下に出て確認した。異常はなかった。隣室のドアは閉まっていた。上の階から物音もしなかった。いたずらだったと結論づけた。そのまま忘れた。忘れようとした、というより、気にする理由がなかった。
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二度目は、翌週の火曜日だった。
二十三時十七分。同じ時刻。
ピンポン、と一回。
モニターを見る。誰もいない。前回と全く同じだった。
ただし、一つだけ違うことがあった。
モニターを消して、ソファに戻ろうとしたとき——廊下から足音が聞こえた。
玄関ドアの向こうではない。
部屋の中の廊下だ。
玄関からリビングへ続く、三歩分の短い廊下。そこを、何かが歩いた。
足音だと認識するまでに、少し時間がかかった。最初は、上の階の音か、隣室の音だと思った。しかしそれにしては近すぎた。壁の向こうでも天井でもなく——自分の部屋の中から聞こえていた。
彼女はリビングの入り口を見た。
誰もいなかった。
足音は、もう止まっていた。
玄関まで確認しに行った。鍵は閉まっていた。チェーンも、かけたままだった。窓も施錠されていた。侵入できる経路はなかった。それでも、廊下に誰かが立っていた感触が——空気の中に残っていた。
その夜は眠れなかった。
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三度目。その翌週の火曜日。二十三時十七分。
彼女はインターホンが鳴る前から、ソファに座ったまま待っていた。テレビは消していた。缶コーヒーだけを手に持ち、玄関の方を見ていた。
ピンポン。
モニターを確認する。誰もいない。
彼女はモニターを消さなかった。画面を見続けた。
廊下の蛍光灯。コンクリートの床。隣の部屋のドア。
十秒が経過した。
二十秒。
三十秒。
何も起きない。
四十秒——
足音が聞こえた。
モニターの中からではない。部屋の中の廊下から。
音があった。
裸足が、濡れた床を踏むような音だった。ぺた——間があいて——ぺた。一定ではなかった。二歩目の方が、少し重かった。何かが重心を移動させる音だった。そして止まった。
彼女はリビングの入り口を凝視していた。
何も見えなかった。
ただ、廊下の空気が少しだけ動いた気がした。冷たい空気が、リビングの暖かさの中へ、すうっと入り込んできた。体温のない空気だった。
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四度目は、彼女の方から仕掛けた。
火曜日の二十二時頃、彼女は玄関の防犯カメラの録画設定を確認した。常時録画になっていることを確かめ、リビングで待った。
二十三時十七分。
ピンポン。
モニターを見る。誰もいない。
足音が聞こえる。廊下を——今度は三歩。前回より一歩多い。
三歩目が止まった位置は、リビングの入り口に近かった。
彼女は動かなかった。呼吸を止めていた。自分でも気づかないうちに、息を止めていた。足音が止まるのを待った。止まった。冷たい空気が、また入ってきた。頬のあたりで、温度が落ちた。
それから十分ほど待って、彼女はスマートフォンで録画映像を確認した。
二十三時十七分の映像を巻き戻す。
画面には玄関ドアの外側が映っている。廊下。蛍光灯。コンクリートの床。
十七分〇〇秒。変化なし。
十七分〇一秒。変化なし。
十七分〇二秒——インターホンのボタンが、押し込まれた。
誰の指も映っていない。ボタンだけが、ひとりでに沈んだ。
彼女はその映像を三回繰り返して見た。
四回目に、気づいた。
ボタンが押された瞬間、玄関ドアの下——ドアと床の隙間に、影が差していた。
外側からではなかった。
内側から。
ドアの向こう、つまり彼女の部屋の中から、細い影が廊下へ漏れ出していた。
人間の手の影にしては、細すぎた。指の節が、あるべき位置にはなかった。床を這うように伸びて——途中で曲がっていた。関節のない方向に。
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「何の影ですか」と私は聞いた。
「分かりません」
「あなた自身の影ではなく?」
「私はリビングにいました。玄関からは四メートル以上離れています」
「他に部屋にいた人は」
「いません。一人暮らしです」
彼女は缶コーヒーを両手で包んでいた。まだ温かいはずの缶を、冷えたもののように握っていた。
「一つだけ、気づいたことがあります」と彼女は言った。
「インターホンが鳴る時刻——二十三時十七分。これは毎回同じです。調べてみたんです。私の前の週の行動を」
「前の週の?」
「鳴る前日の月曜日、私が帰宅して玄関の鍵を閉めた時刻が二十三時十七分でした。その前の週も。その前の週も。全部、同じでした」
彼女は手元を見た。
「来客は——私が昨日と同じことをした時刻に、来るんです」
彼女は少し間を置いてから続けた。
「昨日の私が鍵を閉めた時刻に、今日の私の部屋で、何かが動く。昨日の動作が、一日遅れで室内に再現されているみたいで——」
そこで言葉が途切れた。
「来客が来る時刻のパターンを見つけたとき、どんな気持ちでしたか」と私は聞いた。
「少し、楽になりました」と彼女は言った。「理由が分かれば対処できると思ったので。でもすぐに気づきました——理由が分かっても、来ることは止められない」
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残りは八十八本。
記録を書き終えた後、私は自分の部屋のインターホンのモニターを確認した。
廊下には、誰もいなかった。
だが今夜、来客はまた来たという。
今度は足音ではなかった。
彼女の名前を——正確に、呼んだのだという。
それだけではなかった。
名前を呼んだ後、一言だけ続いたという。
「鍵、閉めて」
彼女はその言葉を聞いて、玄関を確認した。鍵は、開いていた。
記録を書き終えて、私は自分の部屋の鍵を確認した。
閉まっていた。
今夜は、それで十分だと思うことにした。
この話を読んだ後、
深夜にインターホンが鳴って、
モニターに誰も映っていなかったら——
それがこの怪談の成功です。
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