継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、十四本目の違和感である。

ある男が私の前に現れ、「窓の外が逆さまに見える日がある」と言った。視力の問題ではない。めまいでもない。世界そのものが、上下反転しているのだという。

私は彼の話を、そのまま記録する。


第十四話:逆さまの世界

最初に気づいたのは、木曜日の朝だった。

六時四十分にアラームが鳴る。いつもと同じだ。カーテンの隙間から光が差していた。まだ寝ていたかったが、体を起こし、洗面所に向かった。顔を洗い、コーヒーメーカーのスイッチを入れ、トーストを焼いた。バターを塗り、テーブルに座る。コーヒーの匂いが台所に充満していく。

リビングの窓は南向きだった。朝の光が好きで、食事のときはいつもカーテンを全開にしている。

その日もカーテンを引いた。

外を見た。

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空が、下にあった。

足元が抜けたような感覚が一瞬走った。椅子に座っているのに、体が前のめりに傾ぐ。落ちる、と思った。底のない青空に向かって、四階の窓から吸い込まれる——そんな錯覚が喉の奥まで昇ってきて、彼は反射的にテーブルの縁を掴んだ。

手のひらが木の感触を確かめて、ようやく体が椅子の上にあることを思い出した。

もう一度、窓の外を見た。

青い空が足元に広がっていた。雲が地面のように横たわり、その上に——いや、その下に——建物が逆さまに突き刺さっていた。向かいのマンションの屋上が、手前に迫る崖のように見えた。電柱が天から地に向かって伸びている。電線がたわみ、その曲線は上方ではなく下方に垂れている。

道を歩く人がいた。頭を下にして、足が空に向かっていた。

彼はコーヒーカップを持ったまま動けなかった。

目を閉じた。三つ数えて、開けた。

逆さまのままだった。

マンションの駐車場に停まっている白い車。タイヤが上を向いていた。その横を、犬を連れた女性が歩いていた。犬の足が空を蹴っている。リードがまっすぐ上に伸び、女性の手から天に向かって張られていた。

彼は窓から離れた。

部屋の中は正常だった。テーブルの上のトースト。コーヒーカップ。床。天井。すべて正しい方向にある。

だが窓の外だけが、反転していた。

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出勤しなければならなかった。

玄関を出た。廊下は正常だった。エレベーターに乗り、一階に降りた。エントランスを出ると、外は——正常だった。

空は上にあった。地面は下にあった。人々は普通に歩いていた。

彼は振り返って、自分の部屋がある四階の窓を見上げた。カーテンの隙間から、部屋の天井がわずかに見えた。普通の天井だった。

何だったのか。寝ぼけていたのか。

その日は一日中、落ち着かなかった。会議の最中もデスクワークの最中も、窓の外が気になった。オフィスの窓から見える景色は正常だった。ビルの谷間。道路。信号。すべて正しい方向を向いていた。

帰宅して、リビングの窓を見た。正常だった。外は夜で、マンションの灯りが普通に並んでいた。

「疲れていたんだと思いました」

彼はそう言った。

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二回目は、翌週の月曜日だった。

朝、カーテンを開けた瞬間に分かった。

空が下にある。

今度は前回より落ち着いて観察した。彼はテーブルに座り、窓の外を見つめた。トーストを齧りながら。

逆さまの世界は、細部まで正確だった。向かいのマンションのベランダに干された洗濯物が、逆さまに垂れている。風に揺れる方向も正しかった——つまり、反転した世界の中では物理法則が一貫している。重力が逆なのではない。世界そのものが天地反転しているのだ。

通行人の動きも自然だった。足が上にあることを除けば、歩くリズムも腕の振りも、通常の歩行と同じだった。自転車に乗った中学生が通り過ぎた。ペダルを逆さまに漕いでいた。

彼はスマートフォンを取り出し、窓の外を撮影した。

画面を確認した。

写真の中の景色は、正常だった。空が上にあり、地面が下にあった。

肉眼では反転しているのに、カメラを通すと正常に映る。

彼はもう一度、自分の目で窓の外を見た。逆さまだった。カメラの画面を見た。正常だった。目を離してまた窓を見た。逆さまだった。

ふと、窓ガラスに自分の姿が薄く映っていることに気づいた。

逆さまの空を背景にした、自分のシルエット。室内の照明と外の光のバランスで、顔がうっすらと見える。

見えたのは一瞬だった。ガラスに映る自分の顔が——上下反転していた。天地が入れ替わった顔が、こちらを見ていた。

瞬きをした。消えていた。ガラスには正常な自分が映っていた。

────────────────

三回目は水曜日。四回目は翌週の火曜日。五回目は金曜日。

規則性はなかった。曜日にも天候にも、体調にも相関がなかった。彼はノートに日付を記録し始めた。逆さまに見えた日に丸をつける。それ以外の日にはバツをつける。

二ヶ月分のデータが溜まった頃、彼はあることに気づいた。

逆さまに見えた日の前夜は、必ず夢を見ていなかった。正確に言えば、夢の記憶が一切残っていなかった。普段は断片的にでも覚えているのに、逆さまの日の前夜だけが完全な空白だった。

もう一つ。逆さまに見えた日の朝は、アラームが鳴る前に目が覚めていた。六時四十分のアラームより、必ず数分早く。しかも目覚めた瞬間、自分の体がどちらを向いているのか分からなかった。仰向けなのかうつ伏せなのか、頭がどちらの方角にあるのか、数秒間まるで分からない。天井を見ているはずなのに、自分が天井を見下ろしているような感覚だけが残っていた。

彼はそのことを誰にも話さなかった。話したところで信じてもらえるはずがなかった。窓の外が逆さまに見える、などという話を。

────────────────

六回目の朝だった。

彼はいつものようにカーテンを開け、逆さまの世界を眺めていた。もう驚かなくなっていた。コーヒーを飲みながら、反転した空の色を見ていた。薄い青に白い雲が流れている。その雲が足元に向かって動いていく。

ふと、視界の端で何かが引っかかった。

向かいのマンションの前の歩道。逆さまの世界では、歩道は頭上にある。そこを通行人が歩いている。逆さまに。頭が下で足が上。

一人の女性がいた。

彼女だけが違った。

周囲の人は全員、逆さまだった。頭が下を向き、足が空に向かっている。だが、その女性だけが——正しい向きで立っていた。頭が上にあり、足が下にある。逆さまの世界の中で、彼女だけが反転していた。つまり、彼の側から見れば、彼女だけが正常だった。

女性は立ち止まっていた。歩道の真ん中で、動かずに立っていた。

周囲の逆さまの通行人たちが彼女を避けるようにして通り過ぎていく。誰も彼女を見ていなかった。

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彼女がこちらを向いた。

四階の窓から見下ろしている——いや、反転した世界では見上げている——彼の視線と、彼女の視線がぶつかった。

距離があった。マンションの四階から向かいの歩道まで。三十メートルはある。それなのに、彼女の目が見えた気がした。穏やかな目だった。怒りも悲しみもない。ただ、知っている、という目だった。

彼女は右手を持ち上げた。ゆっくりと。肩の高さまで。

そして、手を振った。

小さく、二回。まるで旧知の相手に挨拶するように。あるいは、ようやく気づいてくれたね、とでも言うように。

彼はコーヒーカップを取り落としそうになった。

テーブルにカップを置き、もう一度窓の外を見た。

女性はまだそこにいた。手を下ろし、静かに立っていた。逆さまの世界の中で、彼女だけが正しい方向を向いている。

彼は窓を開けた。

朝の空気が流れ込んできた。冷たくもなく、温かくもない。季節の境目のような空気だった。

女性は窓が開いたことに気づいたようだった。もう一度、こちらを見た。

口が動いた。

声は聞こえなかった。距離がありすぎた。だが、唇の形を追った。短い言葉だった。二文字か三文字。繰り返さなかった。一度だけ。

彼には読み取れなかった。読み取れなかったはずだった。だが一瞬、自分の名前を呼ばれたような気がした。空耳ではない。声は聞こえていない。唇の形が、自分の名前に似ていた——気がしただけだ。三十メートル先の口元を正確に読み取れるはずがない。気のせいだ。

女性は踵を返し、歩き始めた。逆さまの通行人たちの間を、正しい向きのまま歩いていった。角を曲がり、見えなくなった。

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「その女性に、見覚えはありましたか」と私は聞いた。

「ありません。でも——向こうは、僕を知っているように見えました」

「口の動きは、何と言っていたと思いますか」

彼は少し黙った。

「分かりません。でも——いや、やっぱり分かりません」

彼は一度何かを言いかけて、やめた。

「一つだけ、どうしても気になることがあるんです」

「何ですか」

「逆さまに見える日は、カメラで撮ると正常に映る。つまり、世界が反転しているんじゃない。僕の目が——僕の何かが、反転しているんです」

彼は窓の方を見た。

「だとしたら、あの女性が『正しい向き』だったのは、彼女だけが僕と同じ側にいたということです。僕と同じものを見ている。僕と同じように——反転している」

「その後、彼女を見ましたか」

「いいえ。逆さまの日は、その後も何度かありました。でも、彼女が現れたのはあの一度きりです」

彼はテーブルの上の記録ノートを閉じた。

「あの朝——窓ガラスに自分の顔が映ったんです。一瞬だけ、その顔が逆さまでした。外の世界が逆さまなんじゃない。僕自身が、ときどき逆さまになっているんだと思います」

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残りは八十六本。

記録を書き終えたあと、私は窓の外を見た。空は上にあり、地面は下にあった。何も変わらない、いつもの景色だった。

だが、この話を聞いた後では——「正しい」ということの意味が分からなくなる。

今見ている世界が正しいのか。それとも、反転した世界の方が本来の姿なのか。

窓枠に手を置いたとき、指先がわずかに迷った。水平であるはずの枠が、ほんの少しだけ傾いで見えた。目を凝らすと消えた。最初からなかったのかもしれない。

後日、私のもとに別の連絡があった。この話とは直接関係のない人物からだった。まったく異なる場所に住み、まったく異なる生活を送っている人物が、こう言った。

「窓の外が逆さまに見える日がある。その日は必ず、誰かが正しい向きで立っている」

同じ経験を、別の誰かがしていた。

その人物は来週、私の前に現れることになっている。




読了ありがとうございました。

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