継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「日付が変わらなかった夜がある」と言った。時計の針が午後十一時五十九分を指したまま、四時間進まなかったのだという。電池切れではなかった。気のせいでもなかった。四時間のあいだ、時間そのものが止まっていた——彼はそう主張した。
私は彼の話を、そのまま記録する。
その日は水曜日だった。
男は十一時前にはベッドに入っていた。翌朝が早く、できれば眠っておきたかった。ただ、眠れなかった。
理由は自分でも分かっていた。次の日、職場である決定を下すことになっていた。ずっと先延ばしにしてきた決定だ。どちらを選んでも、何かを失う。そういう類のものだった。
布団の中は温かかった。暖房を弱く入れていて、枕の位置もちょうど良かった。頭の中だけが、静かに鳴り続けていた。
男はスマートフォンを手に取って、ロック画面の時刻を見た。二十三時四十三分。
次に画面を見たとき、五十六分だった。
あと三分で今日が終わる。今日が終われば、明日が来る。明日が来れば、決定を下さなければならない。
男は、今日が終わらなければいいのに、と思った。
言葉として頭の中で形になった。それから、また画面を見た。
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二十三時五十七分。
二十三時五十八分。
二十三時五十九分。
秒数が刻まれていく。右下で数字が切り替わる。三十秒、三十一秒、三十二秒——
五十八秒。五十九秒。
六十秒目。
二十三時五十九分のまま、表示が変わらなかった。
男は最初、画面がスリープしたのかと思った。触れてみる。反応はあった。時刻表示も生きている。ただ、秒の部分が消えていた。「23:59」とだけ表示されている。
画面を閉じ、もう一度開いた。
同じだった。
二十三時五十九分。
日付の表示も、水曜日のままだった。
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男はベッドから起き上がり、枕元の目覚まし時計に目をやった。
液晶の数字が「23:59」を表示している。
机の上の壁掛け時計を見た。秒針があるアナログタイプ。
秒針は止まっていた。
止まっていた、というのは正確ではない。止まっている位置を見た瞬間に、動く気配がなくなった、という方が近い。最後に動いていたのを見た記憶はあるが、いつかは思い出せない。
男は部屋の明かりをつけた。リビングに行き、キッチンに行き、家中のすべての時計を確認した。電子レンジ。ガスコンロの横のデジタル表示。テレビの左下に出る時刻。すべて二十三時五十九分を指していた。
電源を切って入れ直した。時刻は「0:00」にはならず、「23:59」を表示した。
スマホの機内モードをオンにしてオフにした。変わらなかった。
再起動した。ロック画面が戻ってきて、時計が「23:59」を表示した。
男はリビングの窓に近づいた。
そこで、気づいた。
音がしていなかった。
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夜の街にも音はある。
どこかで走っている車の音。建物にぶつかる風の音。エアコンの室外機の低い唸り。遠くの犬の声。
それらが、全部、なかった。
男は窓を少し開けた。
空気は冷たかった。この季節通りの気温だった。風も感じた。ただ、風の音がしなかった。
耳を澄ませた。自分の呼吸。自分の心臓の鼓動。その二つだけが聞こえた。
街灯は灯っていた。向かいのマンションにも、部屋の明かりが一つ、二つ点いていた。電気は通っている。停電ではなかった。
ただ、音がなかった。
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男は時計を見続けた。
動かなかった。
体感で一時間が経った。二時間が経った。
その間、彼はリビングで本を読もうとした。読めなかった。同じ行を何度も目で追った。読んだはずの文字が、数秒後には意味を失っていた。時計が動かないという事実が、何度も意識に戻ってきた。
冷蔵庫を開けて、水を飲んだ。水は冷たかった。冷蔵庫の中も普通だった。ライトが点き、庫内灯が食材を照らしている。
「時間が止まっているなら、冷蔵庫の温度も止まるはずだ」
男はそう考えた。だが、自分の体感では二時間以上が経っているのに、時計は二十三時五十九分のままだった。
矛盾している、と分かっていた。
何が矛盾しているのか、整理がつかなかった。体の中で流れている時間と、世界の時間が、一致していない。その事実だけが、手触りとして残っていた。
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四時間目に入る頃、男は玄関のドアに近づいた。
理由は説明できない。ただ、部屋の外がどうなっているのかを確認したかった。マンションの共用廊下には二十四時間、照明がついている。外に出れば、他の住人の気配があるかもしれない。普通の夜だと、誰かの足音や、エレベーターの稼働音が、廊下のどこかから聞こえてくるはずだった。
鍵を開けた。
ドアノブを回した。
ドアを開けた。
廊下は、あった。
ただ、そこに光が届いていなかった。
共用灯が消えていた、という話ではない。共用灯は、灯っていた。壁の所定の位置に、照明器具が取り付けられている。その蛍光管が光っているのが見えた。
だが、その光が、廊下を照らしていなかった。
光源はあるのに、照明が当たるべき空間が、完全な黒だった。
マンションの廊下の輪郭だけが、まるで薄い線で描かれたように浮かんで見えた。手すり。ドアの並び。天井の走り梁。形だけはあった。だが、面が、すべて黒で塗りつぶされていた。
光源から出ているはずの光が、どこにも到達していない。ただ、存在だけが見えた。
男は、そちらに向かって片足を出そうとした。
出そうとして、出せなかった。
踏み出したら戻れない。そういう質の感覚があった。どこから来た感覚か、自分でも分からなかった。
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男はドアを閉めた。
鍵をかけた。
ドアチェーンをかけた。
それから、リビングに戻った。
何もできなかった。スマホは繋がらないわけではなかった。試しに友人に電話をかけた。呼び出し音は鳴った。だが、誰も出なかった。こんな時間だから、寝ているだけかもしれない、と自分に言い聞かせた。
時計を見た。
二十三時五十九分。
男はソファに腰を下ろした。
そして、待った。
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一瞬、眠ったらしい。
目を開けたとき、時計は動いていた。
零時三十七分。
いつから動き始めたのかは分からない。秒針は普通に動いていた。スマホの時刻表示も、「00:37」を表示していた。
窓の外では、どこかで車が走っていた。エアコンの室外機も唸っていた。
世界に、音が戻っていた。
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男はその日、仕事を休んだ。
決定は、先延ばしにした。
その後、彼はその夜のことを何度も考えた。
時間が止まっていた四時間のあいだ、世界では何が起きていたのか。誰が動いていて、誰が止まっていたのか。彼だけが動けたのか、それとも、彼だけが止まっていたのか。
考えても、何も分からなかった。だから、忘れようとした。
忘れられなかったことが、一つだけある。
時間が戻って、彼が布団に戻ろうとしたとき、枕元のスマホを充電ケーブルに繋ぎ直した。その拍子に、ロック画面の通知が一つ、表示された。
日付の変わる直前——二十三時五十九分五十八秒——に、知らない番号からの着信履歴があった。
通話時間は二秒。
相手が切ったのか、自分が気づかずに切ってしまったのかは分からない。男は、その番号にコールバックはしなかった。
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男は私に言った。
「今でも、二十三時五十九分になると、時計を見てしまうんです」
彼は一拍おいて、続けた。
「あの夜、俺があの電話に出ていたら、今日という日は、ちゃんと終わっていたのかもしれない」
私は、彼の話を最後まで記録した。
記録を終えて、ノートを閉じた。
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後日、知人を介して、別の話が入ってきた。
同じ夜、別の街に住む別の人間が、全く同じ体験をしていたらしい。十一時五十九分に止まった時計。四時間の静寂。廊下の底のない黒。そして——二十三時五十九分五十八秒に、知らない番号から二秒の着信。
その人物は元警察官で、二十五年前のある事件を、今でも一人で追い続けている男だった。
私は、彼に会いにいくことにした。
記録を終えると、私は十九本目の蝋燭を消した。
残り、八十一本。