継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
これは私が記録した、二本目の違和感である。
一本目は他者の話を記録した。今回は違う。これは私自身の話だ。
それでも書き方は変えない。記録者が自分の体験を記すときも、感情を排し、事実を残す。そのようにして、私は書いた。
私が今のマンションに引っ越したのは、去年の秋のことだ。
鉄筋コンクリート造り、四階建て、全十二室。最寄り駅から徒歩十一分。築二十二年だが、管理は行き届いていて、廊下の床には目立った汚れがない。エントランスに小さな観葉植物が置かれていて、毎週誰かが水を替えている。前の住所より家賃が月に二万円安く、部屋の向きが南で、それだけで決めた。
部屋番号は305。隣は304だ。
引っ越し当日、管理人に挨拶した。廊下で隣人の顔を見ることはなかった。それ以降も、見ていない。
────────────────
私の夜のルーティンは変わらない。
夕方六時頃、食材を買いに出る。肉か魚、野菜、豆腐。値引きシールのついたものから選ぶ。帰宅して二十分ほどで作り、テーブルで一人で食べる。食事中はその日のノートを読み返し、補足すべき点があれば書き足す。
皿を洗う。シャワーを浴びる。
デスクに向かい、今日分を書く。何も違和感がなかった日は「なし」と書く。それも記録だ。比較の基準がなければ、逸脱を測れない。
日付が変わる頃、電気を消して床につく。
以上だ。
最初に気づいたのは、引っ越しから三週間ほど経った夜のことだった。
────────────────
午前二時を少し過ぎた頃、音が聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
最初はエアコンの配管だと思った。古い建物は温度変化で配管が膨張・収縮し、定期的に音を立てることがある。規則的に聞こえることもある。そう自分に説明して、目を閉じ直した。
翌夜も聞こえた。
同じ時刻に。同じ音が。
三日目の夜、私は布団の中で音を分析した。
一定の間隔。一定のリズム。そして、一定の方向性。
音は左から右へ移動していた。つまり壁の向こうで、何かが一方向に動いている。往復はない。右へ向かって、止まる。右というのは、304号室の玄関側だ。私の部屋との位置関係から、そう判断した。
配管が鳴るなら方向性は持たない。気温の変化で鳴るなら、場所は固定されている。だがこの音には、移動の軌跡があった。
その夜、ノートを手元に引き寄せ、時刻を書いた。
午前2時14分。
────────────────
一週間分の記録を並べると、音が始まる時刻の誤差は最大で二分だった。
人の行動はそれほど正確ではない。疲労、食事の時刻、就寝のタイミングで、夜中の行動時刻は十分から三十分はずれる。毎夜、二分以内の誤差で同じ動作をとる者がいるとすれば、それは相当の意志によるか、意志を持たない何かによるか、どちらかだ。
私は仮説を立てることを保留した。
メジャーを取り出し、自分の部屋の長辺を測った。305号室は1LDK、玄関から窓側の壁まで約七メートル。304号室も同じ間取りのはずだ。
音が示す歩数を、私はカウントしていた。七歩だ。
七歩で七メートルなら、一歩あたりの歩幅は一メートルになる。
成人男性の平均歩幅は七十センチ前後だ。一メートルは大きい。だが、不可能ではない。
私はその数字をノートに書いた。「1歩≒1m:要確認」。それだけだ。
────────────────
翌日の午前中、管理人室を訪ねた。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。六十代の男性。引っ越し当日に挨拶した人だ。名前は確認したが、もう覚えていない。
「三階の305です。少しよろしいですか」
「どうぞ。何かお困りで」
老眼鏡を外しながら顔を上げた。
「隣の304号室なんですが、今、住んでいる方はいますか」
「304は空き部屋ですよ」管理人は首を振った。「去年の七月から、ずっと空いてますね」
「七月からですか」
「ええ。何かありましたか」
「夜中に音がするんです」と私は言った。「足音のような音が」
管理人はわずかに間を置いた。
一秒か二秒。その間に、何かが起きた。視線が私の顔から外れ、手元の台帳へ落ちた。それから、また戻った。
「それは……建物が古いですからね」管理人は言った。「配管が鳴ることもあります。空き部屋だと余計に響く。音の逃げ場がなくなるので」
「規則的な音なんですが。毎夜、ほぼ同じ時刻に」
「そういうこともありますよ。気温が一定のパターンで変化すれば、音も規則的になります」
私は頷いた。
足音には方向性があること、七歩分の移動があること、歩幅の計算のこと——それを言おうとして、やめた。私が伝えたいのはそれではなかった。私が確かめたかったのは、自分の感覚が正常かどうかだ。そして、管理人の反応は答えを出した。
「分かりました。ありがとうございます」
「何かあればまたいつでも」
扉が閉まった。
廊下を歩きながら、私は管理人の顔を思い出した。
答えているあいだ、目が一度も私を見なかった。
────────────────
音は続いた。
私は毎夜、記録した。始まる時刻。終わる時刻。音の強弱。推定される歩数。進行方向。
十日ほど記録を重ねて、気づいたことがあった。音の「重さ」だ。
コツ、という音の響き方が、日によって微妙に違う。軽い日と、少し重い日がある。木の床を歩く足音は、歩く者の体重と歩き方によって変わる。軽い日が続いたと思うと、重い日が来る。その変動には、小さな不規則性があった。
単純な機械的原因なら、変動はないはずだ。
私はその観察をノートに記した。結論は出さなかった。
────────────────
十三日目の夜、変化が起きた。
その夜もいつも通りだった。食事、記録、就寝。
午前二時を過ぎ、音が始まった。
コツ、コツ、コツ。
私は目を開けたまま天井を見た。カウントする。一歩、二歩、三歩——
四歩目で、止まった。
静寂が来た。
それまでと違う種類の静寂だった。音がないのではなく、音を出していた何かが——壁の向こうで、止まっている。そう感じた。夜中の静寂には通常、冷蔵庫の低いノイズが混じる。エアコンが止まっていても、建物のどこかで換気の音がする。だが、その瞬間の静寂には何もなかった。完全に、静止していた。
私の部屋のドアが、ノックされた。
コン、コン。
二回。
心臓が一拍、強く打った。
それだけだ。私は自分の体の反応を観察するように、布団の中で動かなかった。廊下に出るべきかどうかを、私は考えていた。理由を整理していた。
コン、コン。
もう一度、二回。
私は立ち上がった。
スリッパを履く。玄関に向かう。手が、わずかに震えていた。
ドアスコープを覗く。
廊下は無人だった。
蛍光灯の白い光の下、扉が並ぶだけだ。304号室のドアは閉まっている。人の気配はない。何も動いていない。
私はドアを開けた。
廊下の空気が流れ込んできた——と思った瞬間、私は止まった。
空気が、温かかった。
深夜の廊下は、部屋の中より数度低いはずだ。だがドアを開けた瞬間に顔に触れた空気は、室内とほぼ同じ温度だった。いや、わずかに高かった。
私は一歩、廊下に出た。
足元の空気が温かい。頭上は冷えている。床に近いほど温度が高い。人が直前まで立っていたなら、そういう温度の分布になる——私はそう知っている。体温は床へと溜まる。
三秒後、その温もりは消えた。
廊下に人はいない。304号室の前にも、非常口の前にも、エレベーターホールにも。
私は部屋に戻り、ドアを閉めた。
時刻を確認した。午前2時18分。
布団に入った。
眠れなかった。
眠れないまま朝が来た。その間、音は一度も聞こえなかった。
────────────────
翌朝、七時頃に起きた。
顔を洗い、鍵を持って廊下に出た。エレベーターへ向かいながら、304号室の前を通る。
足が止まった。
意識してそうしたわけではない。
ドアノブに、何かがついていた。
近づいて見る。
指紋だった。
一本ではない。複数の指が触れた跡が、金属のドアノブの上に重なっている。光の角度によって浮かびあがる、油脂の跡。
私は自分の右手を見た。
人差し指。中指。薬指。小指。
ドアノブに残った跡と、並べた指の形が、重なった。
私は何も考えないようにした。ポケットにノートをしまい、エレベーターへ向かった。
エレベーターが来るまでの十数秒、私は自分の右手だけを見ていた。
いつそこを触ったのか。
覚えていない。
覚えていない、という事実だけが残った。
────────────────
記録を終えると、私は二本目の蝋燭を消した。
足音の正体を、私はまだ知らない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
指紋は、私のものだ。
残りは九十八本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
何か感じたこと、気づいたことがあれば、
評価・ブックマーク・コメントで教えてください。
あなたの反応が、次の怪談を生み出す糧になります。
【次回予告】
百物語 第三話:消えた24時間
次回更新予定:3月21日(土) 23:00