継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
語り部は、初めて、長く怪異を追ってきた側の人間だった。霊感で見えた話でも、偶然出くわした話でもない。仕事として追い続け、追いきれなかった事件を、退職後も一人で追い続けている男の話だった。
場所は、郊外の古いファミリーレストランだった。
指定されたのは桐生のほうだ。「俺の家の近くじゃない方がいい」と、電話越しの声が言った。理由は聞かなかった。
平日の午後、客はほとんどいなかった。窓際のボックス席に、すでに男が座っていた。
身長は私と同じくらいか、少し高い。がっしりとした肩幅。白髪混じりの短髪。地味なグレーのスーツ。紺のネクタイは少し緩めてあった。テーブルの上にはコーヒーと、古い茶色のブリーフケースが一つ。
向かいの席に座ると、男は名刺を一枚、差し出した。
「桐生修一。以前は、刑事でした」
以前は、と言うときの間のおき方が、警察官の話し方だった。
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「十八日の夜、時計が止まりましたね」
桐生はコーヒーに口もつけずに、そう切り出した。
「二十三時五十九分。四時間、日付が変わらなかった。電池切れではない。再起動しても同じ。外の音が、消える」
私は何も言わずに、手帳を開いた。
「二十三時五十九分五十八秒。知らない番号から、二秒の着信」
視線が合った。
「俺の番号ではないですよ」と桐生は言った。「誰の番号でもなかった。着信履歴にだけ、残っている」
その点は、私のものと同じだった。コールバックはしていないという。「向こうが切ったのか、こちらが取れなかったのか——どちらだとしても、同じだと思ったんです」と桐生は言った。
ここまでを、彼は一切の前置きなしに話した。四時間の静寂について、一秒も、恐ろしいという言葉を使わなかった。
「その話は、別の機会に詳しく聞かせます。今日は、別の話です」
桐生はブリーフケースから、一冊の古い手帳を取り出した。
「今日はこちらの話で、あなたに会いに来た」
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手帳は、二十五年前のものだった。
「新人の頃に担当した事件です。最初の、そして最後まで片付かなかった事件」
彼が話し始めたのは、一つの連続失踪事件だった。
二十五年前の夏から秋にかけて、ある地方都市で若い男女が次々と姿を消した。合計で七人。全員が二十代から三十代、それぞれ職場や家族との関係は良好で、失踪の動機が見当たらなかった。痕跡もなかった。
「最初の被害者が出たとき、俺は警察学校を出たばかりの新人でした。班の末席。聞き込みの調書を書くのが仕事だった」
桐生は古い捜査メモを開いた。几帳面な黒のボールペン、若い字だった。
「被害者たちが消える直前、周囲の人間に同じことを言い残していたんです」
「同じこと」
「『時間が、逆に進んでいる気がする』」
手帳を持つ手が、少し動いた。
「七人中、五人がこの発言をしていた。残る二人は、失踪直前の会話を残した人間自体が見つからなかっただけです。おそらく、全員が口にしていた」
私は、第一話の男の言葉を思い出した。
桐生は続けた。
「上は、精神不調の兆候だと判断した。七人とも、自発的失踪として処理された。俺はその結論に納得しなかった。納得しなかったところで、新人の意見なんか通らない」
彼は二十七年間、警察組織の中にいて、その事件のファイルを、隠れるようにして追い続けてきた。退職してからは、個人で調べ続けている。
「二十五年です。未解決のまま、二十五年」
桐生は一度、言葉を切った。
「それでも、ある日、突然、気づいてしまうことがある」
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三か月前のことだ、と桐生は言った。
倉庫から持ち出した証拠写真を、退職後の小さな書斎で改めて並べていた。七人の被害者、それぞれの失踪直前に写った最後の写真。家族の写真、勤務先の写真、学生証の写真、そういった類のものだ。
「三枚目を光にかざしたとき、手が止まりました」
三人目の被害者——当時、二十五歳だった男性——の写真の背景に、人が写っていた。
街角のスナップだった。商店街のアーケード。被害者が友人と並んで歩いているのを、後ろから知人が撮ったもの。被害者の斜め後ろ、十メートルほど離れた場所に、一人の男が立っていた。
「最初は気に留めなかった。ただの通行人だと。ただ、よく見ると——」
桐生はその写真のコピーを、テーブルに置いた。
「その男、俺なんです」
ざらついた粒子の粗い写真だった。男は中年で、白髪混じりで、地味なスーツを着て、こちらを——つまりカメラを——じっと見ていた。
「二十五年前、俺は二十七歳でした。この写真に写っている男は、どう見ても五十前後です。今の俺と、同じくらいの歳」
私はコピーを、できるだけ時間をかけて見た。
粒子が粗くて、顔の細部までは分からない。だが、輪郭、体格、立ち姿、ネクタイの結び方——どれも、目の前の桐生と、過不足なく一致していた。
「最初は、似た人間が偶然写り込んだんだと思おうとした。でも、他の写真も見直すと」
桐生はさらに二枚のコピーを出した。
「一枚目の被害者。七枚目の被害者。どちらの背景にも、同じ男が写っている。違う場所、違う日付。写り方は、全部、同じ」
カメラを、見ている。
被害者の後ろで、被害者ではなく、カメラの側を、ずっと見ている。
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「先月、現場に行きました」
桐生が言った。
七人のうち、最初の被害者が最後に目撃された場所。山裾の小さな神社の、脇道の、古い祠の前。二十五年前、捜査員として何度も足を運んだ場所だった。
「変わっていませんでした。木も、石段も、祠も。二十五年分、古くなっているはずなのに、記憶の中の景色と、寸分も違わなかった」
彼は一度、腕時計を見た。
「違っていたのは、俺の方でした」
「どういう」
「石段を降りながら、気がついたんです。あのとき——二十七歳だったときの——感覚で、ここに立っている。自分の体が、若いままで、ここに立っているような気がする」
実際にはもちろん、体は五十二歳の体だった。膝に違和感があり、息は上がっていた。
「ただ、頭の中だけが、二十五年前に戻っている。そういう感覚です。現場に立った瞬間から、帰るまで、ずっと」
祠の前に、小さな石の塊があった。
苔に覆われた、四角い石。
「最初に現場入りしたとき、あんなものはなかった。絶対になかった。俺は若かったから、現場の細部を一つ残らず書き写していた。図面も引いていた。その図面にも載っていない」
桐生は苔を手で払った。
文字が彫られていた。
古い字だった。彫ったときから、もう何十年も経っているような、角の取れた字。
桐生修一
失踪 二十五年前
その二行だった。
日付は、二十五年前の、ある秋の日——最初の被害者が姿を消した、ちょうどその日だった。
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「自分の名前が彫られた石を、自分の手で、苔を払って読む」
桐生はコーヒーを一口飲んだ。冷めていた。
「そういう瞬間には、何を考えるものか。俺にも分かりませんでした」
あの日、帰りの電車の中で、彼はずっと窓の外を見ていた。景色は流れていた。ただ、自分の体が、電車と一緒に動いている感じがしなかった。窓ガラスに映る自分の顔を見ると、五十二歳の自分だった。それは分かる。
ただ、ふと——
「俺は、もう死んでるのか、と」
桐生は一度、言葉を止めた。
「そう呟いた自分の声が、窓ガラスに響いた。音としては聞こえたけど、自分の声だという実感がなかった」
私はペンを止めた。
桐生はそれ以上、その話の続きを言わなかった。テーブルのコーヒーカップをじっと見ていた。
沈黙が長かった。
私は、何か言葉を返すべきか、返さない方がいいか、判断がつかなかった。返さないことにした。
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桐生が立ち上がったのは、一時間後だった。
「今日はここまでにしましょう」
彼はブリーフケースを手に取り、席を立った。伝票は私に取らせなかった。
「あなたの記録の中に」
そう言いかけて、彼は一度止まった。
「俺と似た体験をしている人間が、いるはずだ。あなたは、それを記録している側の人間だ。だから会いに来た」
私は頷いた。
「また連絡します」
桐生はそう言って、店を出ていった。古いブリーフケースが、彼の右手で、わずかに揺れていた。
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店を出たあと、私はその場で手帳を開き直した。
第一話の男の証言を、もう一度、読み直した。
時間が逆に進んでいるように感じる、と、あの男は確かに言っていた。
二十五年前の被害者たちも、同じことを言っていた。
ある者は失踪し、ある者は語り、ある者は追い続け、ある者は——すでに名を石に彫られている。
同じ言葉が、二十五年の時を超えて、別の人間の口から漏れるとき、それは偶然なのか。
偶然でないなら、何なのか。
記録を終えると、私は二十本目の蝋燭を消した。
残り、八十本。
この話を読んだ後、
ふと自分の昔の写真を引っ張り出して、背景を確かめたくなってしまったなら、
あるいは「時間が逆に進んでいる」という言葉が、少しでも他人事に思えなくなったなら——
それがこの怪談の成功です。
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