継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
今回の語り部は、私だ。
人から聞いた話ではない。取材した証言でも、持ち込まれた記録でもない。
ここ数週間で、私自身の身に起きていることを記録する
最初は、先々週の水曜日だった。
昼休みの職場だった。
隣の島では後輩が何か言って笑い、その向こうでは誰かが机を叩きながら声を上げていた。コピー機が規則的に動いていて、廊下ではスニーカーが床を擦る音がした。
ありきたりな、午後の喧騒だった。
弁当の蓋を開けながら、スマートフォンで翌日の天気を確認した。晴れるらしかった。
そのとき、パチン、と小さな音がした。
音は一度だけで、それ以外には何もなかった。
ただ——それ以降、何も聞こえなくなった。
口が動いている。
後輩がこちらを向いて、何か言っている。口の端が上がっているから、おそらく笑いながら話しかけているのだろう。
コピー機が動いている。紙が積み上がっていく。でも、音が届かない。
廊下に人が通る。振動が椅子を通して伝わってくるのに、足音が聞こえない。
私の手は、弁当の蓋を持ったまま止まっていた。
三分後、音が戻った。
あっさりとした戻り方だった。パチンとは鳴らなかった。ただ静かに、音が元の場所に帰ってきた。後輩はまだ笑っていて、コピー機はまだ動いていて、廊下ではまだスニーカーが床を擦っていた。
何も変わっていなかった。
「どうかしました?」後輩が言った。
大丈夫、と私は答えた。
気分が悪いのかと思った、と彼女は言った。
そのやり取りを、私はスマートフォンのメモに記録した。「13:04〜13:07。三分間。聴覚遮断」と。
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次は、先週の月曜日だった。
今度は会議の途中だった。課長が何か説明しながら、スライドを切り替えていた。資料の四ページ目を指差していた、という記憶だけ残っている。
パチン。
また、口だけが動く世界に入った。
課長の口が動いていた。向かいの田中さんが頷いていた。端の席の加藤さんが手元の資料に書き込みをしていた。
音のない会議室は、妙に広かった。
そのとき、初めて気づいた。
外の音が消えている間——私の頭の中で、何かが聞こえていた。
自分の思考ではなかった。
自分が考えるとき、私は自分の声で考える。しかしこれは、私の声ではなかった。
低い、静かな声だった。
男の声ともつかず、女の声ともつかない。
言葉を発しているわけでもなかった。廊下の奥から届くざわめきのような、意味を持つ一歩手前にある何かだった。
一度だけ、それが言葉として聞き取れた。
「まだ、いる」
それだけだった。
誰がいるのか。どこに。その声が何を伝えようとしているのか。
分からないまま、音が戻った。
課長が言い終わっていた。
「——各チームで確認をお願いします」
田中さんが頷いた。会議は何事もなく進んだ。
今週で、十七分だった。
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昨日、また起きた。
今度は昼食のあとだった。席に戻って画面を開いた瞬間に、パチン、と鳴った。
隣の席の浅井さんが、私の方を向いて、何か言っていた。
声が聞こえない状態で、私は彼女の口元を見た。
口の動きを読むのは得意ではない。それでも、三文字は読めた。
に・げ・ろ。
「逃げろ」と言っていた。
音が戻ると、浅井さんが言った言葉は——「今日のお昼、どこ行ったんですか?」だった。
会話は普通に続いた。
午後の仕事が始まった。
私はトイレに立ち、個室で手帳を開いた。「浅井さんの口の動き。に・げ・ろ。音が戻ると昼食の話題。本人は異変に気づいていない様子」と書いた。
ペンを持つ手が、少し動いた。
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記録を並べると、こうなっている。
先々週の水曜:三分。
先週の月曜:十七分。
昨日:計測できなかった。
昨日は、音が戻ったときに時刻を確認するのを忘れた。
頭の中の声を聞いていたからだ。
昨日の声は「まだ、いる」ではなかった。
長かった。文章のようなものが、断続的に流れていた。
内容は書き留められなかった。
音が戻ると、書き留めた記憶ごと消えていた。
今も聞こえているかどうか、私には分からない。
今この文章を書きながら聞こえているのかもしれないし、書き終えたあとに始まるのかもしれない。
あるいは——今私が書いているこの文章そのものが、すでに声の内容なのかもしれない。
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声が聞こえない時間は、週を追うごとに長くなっている。
先々週は三分。先週は十七分。来週は。
記録を終えると、私は二十一本目の蝋燭を消した。
残り、七十九本。
この話を読んだあと、
誰かと話しながら、その人の口の動きと、届いてくる言葉が、
一瞬でもずれて感じられたなら——
それがこの怪談の成功です。
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