継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、二十一本目の違和感である。

今回の語り部は、私だ。

人から聞いた話ではない。取材した証言でも、持ち込まれた記録でもない。
ここ数週間で、私自身の身に起きていることを記録する


第二十一話:聞こえない声

最初は、先々週の水曜日だった。

昼休みの職場だった。

隣の島では後輩が何か言って笑い、その向こうでは誰かが机を叩きながら声を上げていた。コピー機が規則的に動いていて、廊下ではスニーカーが床を擦る音がした。

ありきたりな、午後の喧騒だった。

弁当の蓋を開けながら、スマートフォンで翌日の天気を確認した。晴れるらしかった。

そのとき、パチン、と小さな音がした。

音は一度だけで、それ以外には何もなかった。

ただ——それ以降、何も聞こえなくなった。

口が動いている。

後輩がこちらを向いて、何か言っている。口の端が上がっているから、おそらく笑いながら話しかけているのだろう。

コピー機が動いている。紙が積み上がっていく。でも、音が届かない。

廊下に人が通る。振動が椅子を通して伝わってくるのに、足音が聞こえない。

私の手は、弁当の蓋を持ったまま止まっていた。

三分後、音が戻った。

あっさりとした戻り方だった。パチンとは鳴らなかった。ただ静かに、音が元の場所に帰ってきた。後輩はまだ笑っていて、コピー機はまだ動いていて、廊下ではまだスニーカーが床を擦っていた。

何も変わっていなかった。

「どうかしました?」後輩が言った。

大丈夫、と私は答えた。

気分が悪いのかと思った、と彼女は言った。

そのやり取りを、私はスマートフォンのメモに記録した。「13:04〜13:07。三分間。聴覚遮断」と。

────────────────

次は、先週の月曜日だった。

今度は会議の途中だった。課長が何か説明しながら、スライドを切り替えていた。資料の四ページ目を指差していた、という記憶だけ残っている。

パチン。

また、口だけが動く世界に入った。

課長の口が動いていた。向かいの田中さんが頷いていた。端の席の加藤さんが手元の資料に書き込みをしていた。

音のない会議室は、妙に広かった。

そのとき、初めて気づいた。

外の音が消えている間——私の頭の中で、何かが聞こえていた。

自分の思考ではなかった。

自分が考えるとき、私は自分の声で考える。しかしこれは、私の声ではなかった。

低い、静かな声だった。

男の声ともつかず、女の声ともつかない。

言葉を発しているわけでもなかった。廊下の奥から届くざわめきのような、意味を持つ一歩手前にある何かだった。

一度だけ、それが言葉として聞き取れた。

「まだ、いる」

それだけだった。

誰がいるのか。どこに。その声が何を伝えようとしているのか。

分からないまま、音が戻った。

課長が言い終わっていた。

「——各チームで確認をお願いします」

田中さんが頷いた。会議は何事もなく進んだ。

今週で、十七分だった。

────────────────

昨日、また起きた。

今度は昼食のあとだった。席に戻って画面を開いた瞬間に、パチン、と鳴った。

隣の席の浅井さんが、私の方を向いて、何か言っていた。

声が聞こえない状態で、私は彼女の口元を見た。

口の動きを読むのは得意ではない。それでも、三文字は読めた。

に・げ・ろ。

「逃げろ」と言っていた。

音が戻ると、浅井さんが言った言葉は——「今日のお昼、どこ行ったんですか?」だった。

会話は普通に続いた。

午後の仕事が始まった。

私はトイレに立ち、個室で手帳を開いた。「浅井さんの口の動き。に・げ・ろ。音が戻ると昼食の話題。本人は異変に気づいていない様子」と書いた。

ペンを持つ手が、少し動いた。

────────────────

記録を並べると、こうなっている。

先々週の水曜:三分。

先週の月曜:十七分。

昨日:計測できなかった。

昨日は、音が戻ったときに時刻を確認するのを忘れた。

頭の中の声を聞いていたからだ。

昨日の声は「まだ、いる」ではなかった。

長かった。文章のようなものが、断続的に流れていた。

内容は書き留められなかった。

音が戻ると、書き留めた記憶ごと消えていた。

今も聞こえているかどうか、私には分からない。

今この文章を書きながら聞こえているのかもしれないし、書き終えたあとに始まるのかもしれない。

あるいは——今私が書いているこの文章そのものが、すでに声の内容なのかもしれない。

────────────────

声が聞こえない時間は、週を追うごとに長くなっている。

先々週は三分。先週は十七分。来週は。

記録を終えると、私は二十一本目の蝋燭を消した。

残り、七十九本。





この話を読んだあと、
誰かと話しながら、その人の口の動きと、届いてくる言葉が、
一瞬でもずれて感じられたなら——
それがこの怪談の成功です。

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