継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「自分だけが覚えている出来事がある」と言った。彼はその出来事を、二十年経った今でも鮮明に思い出せるという。雨の匂い、背中に当たる壁の冷たさ、そこにいた友人の顔まで。しかし、そこに居合わせたはずの友人たちは、誰もそれを覚えていなかった。
そして最後に、彼はこう付け足した。「記憶の中の手が、俺の手じゃなかった」と。
私は彼の話を、そのまま記録する。
金曜の夜の居酒屋だった。
駅から五分ほどの路地にある、古い店だった。三田村——仮にそう呼ぶ——は二十年ぶりに旧友二人と飲んでいた。久保田と野村。高校三年のときに同じクラスだった男たちだ。四十を前にして三人とも髪に白が混じり始めていた。
卒業以来、クラスのLINEグループで連絡を取り合うことはあっても、こうして顔を合わせるのは初めてだった。たまたま全員が同じ街に住んでいると知ったのが先月で、野村が飲み会を提案した。
最初の生ビールを合わせて、乾杯をした。近況報告が一巡した。久保田は転職したばかり。野村は下の子が今年小学校に上がる。三田村は結婚して十年になる。
「それにしても」野村がメニューを閉じながら言った。「高校のときの話、覚えてるか?」
そこから、思い出話が始まった。
担任の口癖。体育の時間に誰かが教室に忘れた弁当のこと。文化祭の出し物で揉めたこと。どれも三田村には懐かしかった。笑い声が何度か上がった。冷えたビールが美味かった。
二本目のジョッキを置いたとき、三田村が言った。
「文化祭の最終日の、体育館の裏のこと、覚えてるか?」
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久保田が顔を上げた。
「最終日の、体育館の裏?」
「雨が降ってきて、三人で雨宿りしただろ」三田村が笑いながら言った。「お前がタバコ持ってきて、三人で一本ずつ吸ったじゃないか」
少しの間があった。
野村がジョッキに口をつけてから、ゆっくりと言った。
「タバコ?」
「お前、吸ってたよな、確か」
「俺、高校のとき吸ってないよ」久保田が答えた。「大学からだよ、吸い始めたの」
「そんなはずないだろ。赤いマイルドセブン、お前のポケットから出てきたやつだよ。俺、あのとき初めて吸った」
久保田が首を傾げた。野村もジョッキを置いた。
「ちょっと待って」野村が言った。「俺、文化祭の最終日、来てないよ」
「は?」
「卒業アルバムに載ってるだろ。三日目は欠席だった。風邪ひいて」
三田村は笑った。
「いや、いたよ。お前。壁に背中つけて座ってて、スニーカーが白だったのまで覚えてる。買ったばかりだって自慢してたろ」
野村は、笑わなかった。
スマートフォンを取り出した。しばらくスクロールしてから、画面を三田村の方に向けた。当時の出欠記録。写真に撮っておいたものらしかった。三日目の野村の欄に、赤い斜線が引かれていた。
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三田村は、画面をじっと見た。
見ながら、何か言おうとして、言葉が出なかった。
「写真あるだろ」と、しばらくしてから言った。「共有アルバムにあるはずだ。体育館の裏で誰かが撮ったの」
「クラスの共有アルバム、俺まだ持ってる」久保田が自分のスマホを操作した。「文化祭の写真、確かにたくさんある。体育館の裏のは——」
画面を確認していた久保田の手が、止まった。
「ない」
「探してくれ」
「いや、全部ある。他の場面は。模擬店、ステージ、閉会式。一通り。体育館の裏だけ、一枚もない」
「二十年前だろ。データ消えてるだけじゃないか」
「他のは残ってる。撮った人間が違ったのかもしれないけど——体育館の裏の雨の写真は、誰も撮ってない」
野村が、ふと思い出したように言った。
「そもそも、雨、降ってなくない?」
三田村は野村の顔を見た。
「降ってた。ざあざあじゃないけど、結構しっかり。俺、髪が濡れて前髪が額についた感触、覚えてる」
野村がまたスマートフォンを操作した。気象庁の過去天気のページを開いて、日付を入力した。三田村と久保田が画面を覗き込んだ。
その日。その月。その年。
快晴。降水量ゼロ。
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三田村は、自分のジョッキを持ち上げようとして、途中で止めた。
グラスの表面に、自分の右手の指が映っていた。
その指を、三田村は見ていた。
見ながら、もう一つの手を思い出していた。
雨宿りをしながらタバコを持った、あのときの自分の手を。
あの日、体育館の裏のコンクリートの冷たさを背中に感じながら、三田村は右手でタバコを持っていた。初めての煙を吸い込んで、咳き込んだ。笑いながら咳き込んで、久保田が背中を叩いてくれた。そのとき、タバコを持っていた右手は——
確かに自分の手だった。
そう、確かに。
だがその手は、今グラスの横にある自分の手とは、違っていた。
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細かった。
指が、今より細かった。
関節が骨張っていなかった。皮膚に張りがあった。指の腹の皺が浅かった。爪の形が、今のものより少し丸かった。
その手は、若かった。
高校生の手だったから若かったのではない。何か、今の自分では絶対にたどり着けない時間にある手だった。二十年前に戻ったとしても、あの手にはならない——そういう確信があった。
それから、三田村は気づいた。
その手の、左手の薬指に。
銀色の、細い指輪がはまっていた。
少し古ぼけた、装飾のない、シンプルな輪だった。長く使われた金属の、柔らかい艶があった。
三田村は、指輪を持ったことがない。
結婚指輪さえ、普段は外している。結婚式のとき作ったシンプルな銀の輪は、今も自宅の棚の小さな箱の中にある。取り出したのは式の日とその翌日だけだった。
だが、記憶の中の指輪は、それとは違う指輪だった。
古い。使い込まれた。自分のものだと、はっきり分かる——そういう、馴染み方をしていた。
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三田村のジョッキが、テーブルに戻された。
音はしなかった。手が震えていたから、ゆっくりと置くしかなかった。
久保田が、何か言おうとして、言わなかった。
野村も、黙っていた。
三田村は自分の左手を、テーブルの上に置いた。薬指を、右手で触れた。そこには何もなかった。皮膚に、指輪をしていた跡さえなかった。
「これ——」
三田村が言葉を探した。
「これ、俺の記憶じゃ、ない、のかもしれない」
自分の声が遠くから聞こえた。
「いや」三田村は首を振った。「いや、違う。俺の記憶だ。確実に、俺のものだ」
「でも、あの手は、俺の手じゃない」
そこで、三田村は泣いた。
静かに、だった。声を上げることもなく、顔を歪めることもなく、ただ両目から涙が垂れた。涙は頬を伝って顎まで来て、そこから一滴ずつテーブルに落ちた。
久保田と野村は、三田村を見ていた。手を貸そうとして、どう貸せばいいのか分からないまま、ただ見ていた。
店のどこかで誰かが笑った。厨房で鍋の音がした。生ビールの注文が通った。
三田村の涙は、しばらく止まらなかった。
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三田村は一時間ほどして店を出た。
店を出るときも、左手の薬指を、右手で包み込むようにして触れていた。無意識の動作だったと思う。指輪が、そこにないことを確かめ続けているようにも、そこに指輪があると確かめ続けているようにも、どちらにも見えた。
久保田と野村は三田村を駅まで送ったと、後で久保田が私に教えてくれた。電車に乗る前に三田村は一度だけ振り返って、「今日のこと、二人とも、覚えておいてくれ」と言ったという。
久保田は頷いた。
野村も頷いた。
だが、改札を抜けて振り返ったとき、三田村はもう、駅の柱の陰に隠れて見えなくなっていた。
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私は三田村の記録を、何も編集せず、そのまま書き留めた。
書き終えて、ノートを閉じたあと、しばらく窓の外を見ていた。
自分がこれまでに覚えている出来事のうち、本当に自分のものだと証明できるものが、いくつあるだろうかと考えた。
卒業式。結婚式。親の葬式。何度か見た映画。初めて自転車に乗れた日。
それぞれの記憶の中で、自分は自分の手を見ている。自分の声を聞いている。自分の感覚を感じている。
それらが、本当に同じ「自分」のものであるかどうかは——
記憶の中でだけ、知ることができる。
その確認は、別の記憶を使って行うしかない。
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記録を終えると、私は二十三本目の蝋燭を消した。
残り、七十七本。
この話を読んだあと、
あなたが鮮明に覚えている古い出来事を一つ思い出して、
そのときの「自分の手」を思い出してみてください。
今のあなたの手と、同じですか。
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