継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

24 / 28
これは私が記録した、二十四本目の違和感である。

ある女性が私の前に現れ、開口一番、「今朝はどっちだったんでしょうか」と訊いた。私は何のことか分からなかった。彼女は「すみません、私の話です」と言い直し、朝起きるたびに別の人生を生きている気がする、と続けた。最初、彼女はそれを「前世の記憶のようなもの」と呼んだが、すぐに引っ込めた。前世は過去で、切り離されている。自分のそれは過去ではない、並行して進んでいる、と彼女は言った。

私は彼女の話を、そのまま記録する。


第二十四話:二重の人生

彼女は二十八歳だった。

職業を訊くと、編集者です、と答えた。出版社の名前も言った。ファッション誌の編集部にいて、先月ようやく担当ページを一つ持たせてもらったのだという。

その二分後、彼女は、広告代理店でグラフィックデザイナーをしています、と言い直した。

私は前職を訊いたのではなかった。

彼女は訂正をしなかった。私はそのまま、両方を書き留めた。

どちらも本当らしかった。

────────────────

ある朝、と彼女は話し始めた。

目が覚めると、白いカーテンの部屋だった。マンションの六階、南向き。掛け布団は、薄手のブルーのダブル。右側に人が眠っていた。

「隆司」

そう、彼女は言った。三年付き合っている。結婚の話はまだ出ていないが、二人で毎月二万円ずつ、共有の口座に貯金している。

朝食はトーストとヨーグルトと、隆司が淹れたコーヒー。隆司の部屋には、柔軟剤のフローラルな匂いがうっすらとついている。

「沙織、コーヒー、もう一杯いる?」と隆司は聞いた。彼女は「ううん、大丈夫」と答えた。

普通の朝だった。

────────────────

別の朝、と彼女は続けた。

目が覚めると、ベージュのカーテンの部屋だった。古いアパートの二階、西向き。掛け布団は、厚手のグレーのシングル。右側に人が眠っていた。

「拓哉」

同棲して二年目。結婚の話は去年出たが、どちらも仕事が忙しくて、具体的には動いていない。

朝食は白米と味噌汁と、自分で焼いた鮭。拓哉の部屋には、古い畳の、乾いた匂いがする。

「里緒、お茶、もう一杯いる?」と拓哉は聞いた。彼女は「うん、お願い」と答えた。

これも、普通の朝だった。

────────────────

私は、ここでノートから顔を上げた。

彼女の話を書き留めていくうちに、気づいていた。二つの朝で、隣に眠っている男の名が違うこと。二人の男が、彼女を別の名で呼んでいること。

彼女自身は——気づいていないようだった。

「隆司」と呼んだ男の話をした次の瞬間に、「拓哉」の話をする。沙織と呼ばれた自分と、里緒と呼ばれた自分を、どちらも同じ手つきで取り出して、並べる。区別のつもりもない。どちらが主でどちらが副でもない。

私は、彼女の名前を訊かなかった。

訊いたら——何と答えたか、想像がつかなかった。

────────────────

編集者の私と、デザイナーの私は、と彼女は言った。

休日の過ごし方が違うんです。

編集者の私は、土曜の朝に代々木のカフェで本を読む。古いビルの二階の店で、マスターが自分で焼いたスコーンを出す。隆司は休日は寝ているから、一人で行く。

デザイナーの私は、土曜の朝に拓哉と近所を散歩する。川沿いの遊歩道を端まで歩くと四十分かかる。途中のベンチで缶コーヒーを飲む。拓哉はブラック、私は微糖。

「どちらも、本当に私の休日なんです」と彼女は言った。

「どちらも?」と私は聞いた。

「どちらも」

彼女は頷いた。

「両方とも、覚えてるんです。感触まで」

カフェで開いた本の、表紙の硬さ。公園のベンチの、冷たさ。スコーンのバターの厚み。缶コーヒーの、微糖の甘み。

「私は、本当は、どっちの人生を生きてるんでしょうか」

彼女は訊いたが、答えを求めているようには見えなかった。

────────────────

二つの人生が始まったのはいつか、と私は訊いた。

半年前でした、と彼女は言った。

日付も覚えていた。十月の、週明けの月曜日。目が覚めたとき、「今朝はどちらだろう」と思ったのが、初めてだったのだという。

その前の週末の記憶が、二つの人生のどちらにも、ない。金曜の夜から月曜の朝までの、二日半。どちらの自分にも、空白だった。どちらの恋人に訊いても、「いつも通りだったよ」としか言わない。

それ以前はどうだったか、と私は訊いた。

一つしか、なかったと思います、と彼女は答えた。

「でも、今から振り返ると——それも本当かどうか、自信がないんです」

「半年前より前のあなたの人生は、どちらでしたか」と私は訊いた。

彼女はしばらく考えた。

「……思い出せません」

「両方、思い出せませんか」

「両方、半年前以降のことは、はっきり覚えてます。それより前も、思い出せます。ただ——」

ただ、それがどちらの自分の記憶なのか、定まらない。

小学校の遠足のお弁当の中身。中学の卒業式の曲。高校の文化祭の役割。どれも記憶にある。色まで、匂いまで、ある。けれど、そのときの自分が沙織だったのか里緒だったのか、彼女の中では決まっていなかった。

思い出そうとすると、二つが混ざる。

「二人とも、同じ人生を、半年前までは、生きてきたみたいなんです」

────────────────

少し話すのを止めて、彼女は鞄から手鏡を取り出した。

私に見せるためではなく、自分で覗き込んだ。

何かを確認しているようだった。

「昨日、髪、切ってないはずなんです」

「は」

「昨夜、隆司の隣で寝るときは、まだ肩に届いてたんです。今朝、目が覚めたとき、拓哉の隣で、ここまでだった」

彼女は自分の顎の下を指した。髪は、そこで揃っていた。美容院で整えた直後のような切り口は、ない。少し伸びかけている。

「美容院、どっちの私も、予約はしてません」

「別の、あなたが、切ったということですか」と私は訊いた。

「切ったんだと思います。寝てる間に」

彼女は手鏡を閉じた。

「隆司も、拓哉も、今朝私を見て、髪のことは、何も言わなかったんです」

────────────────

私は次の質問をするか、少し迷った。

訊かない方が良い気がした。だが彼女は、訊いてほしそうに見えた。

「——どちらの方を、より、愛していますか」

彼女は口を開けた。

名前を言おうとした。

短い音——「た」——だけが、出た。

その後、声が続かなかった。喉の奥で、小さく息が止まっていた。

彼女の目は、私ではなく、私の背後の壁の、何もない一点を見ていた。

口は、開いたままだった。

十秒ほど、そのままだった。

────────────────

「——誰、だっけ」

彼女は言った。

声は、自分に対する問いだった。私に答えを求めていなかった。

「彼氏の、名前が、今、出てこなくなりました」

「隆司さんと」

「——誰」

私は、言いかけて止めた。

彼女は、片方の手のひらで自分のこめかみを押さえた。

もう片方の手で、膝の上の白いハンカチを強く握った。

「どっちも、名前が、出てこない」

「一緒に住んでる人の、名前が、今、一つも、出てこない」

────────────────

「——どっちが、本物ですか」

彼女は私に訊いた。

答えるべきではないと、分かっていた。私は答えを持っていない。ただ、この部屋で、彼女の話を記録している、一人の人間でしかなかった。

彼女は、私からも、自分からも、答えをもらえないまま、しばらく座っていた。

「選ばなきゃいけないんでしょうか」と彼女は言った。

「私が、一つの人生を選べば——もう一つの人生の私は、どうなるんでしょうか」

質問は、部屋の空気の中に留まって、どこにも届かなかった。

彼女は立ち上がった。

「また、来ていいですか」

「いいですよ」と私は答えた。

「次に来るとき、私が、どっちの私かも、わかりません」

それだけ言って、彼女はコートを羽織って、出ていった。

ドアが閉まる音が、静かだった。

────────────────

彼女の話を書き終えて、私はしばらくノートを閉じなかった。

書き留めた名前を、もう一度見た。

隆司。沙織。拓哉。里緒。

四つの名があった。

彼女の名前は、その中に、二つあった。

私は、彼女の名前を、とうとう訊かないまま、記録を終えた。

訊くべきだったのか、訊かない方が良かったのか——判断がつかなかった。

訊いたところで彼女が一つの名前を答えたとしても、それは「今の彼女の名前」でしかなかったはずだ。別の彼女には、別の名前がある。どちらも同じ記憶を持っていて、同じ場所で目を覚ます。

選ぶということは——もう片方を、どこかに、置いてくるということだ。

どこに、置いてくるのか。

そのあと、どうなるのか。

訊きたかったのは、本当は、私の方だった。

────────────────

記録を終えると、私は二十四本目の蝋燭を消した。

残り、七十六本。




この話を読んだあと、
今朝、目覚めたときのことを、
思い返してみてください。

布団の色、窓から差した光、
隣にいた人の顔と、名前——
全部、昨日眠ったあなたのものと、
ひとつも、ずれていませんでしたか。

——もし一つでも、ずれていたのなら。
今朝のあなたは、どちらだったんでしょうか。

評価・ブックマーク・コメントで感想を教えてください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。