継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある女性が私の前に現れ、開口一番、「今朝はどっちだったんでしょうか」と訊いた。私は何のことか分からなかった。彼女は「すみません、私の話です」と言い直し、朝起きるたびに別の人生を生きている気がする、と続けた。最初、彼女はそれを「前世の記憶のようなもの」と呼んだが、すぐに引っ込めた。前世は過去で、切り離されている。自分のそれは過去ではない、並行して進んでいる、と彼女は言った。
私は彼女の話を、そのまま記録する。
彼女は二十八歳だった。
職業を訊くと、編集者です、と答えた。出版社の名前も言った。ファッション誌の編集部にいて、先月ようやく担当ページを一つ持たせてもらったのだという。
その二分後、彼女は、広告代理店でグラフィックデザイナーをしています、と言い直した。
私は前職を訊いたのではなかった。
彼女は訂正をしなかった。私はそのまま、両方を書き留めた。
どちらも本当らしかった。
────────────────
ある朝、と彼女は話し始めた。
目が覚めると、白いカーテンの部屋だった。マンションの六階、南向き。掛け布団は、薄手のブルーのダブル。右側に人が眠っていた。
「隆司」
そう、彼女は言った。三年付き合っている。結婚の話はまだ出ていないが、二人で毎月二万円ずつ、共有の口座に貯金している。
朝食はトーストとヨーグルトと、隆司が淹れたコーヒー。隆司の部屋には、柔軟剤のフローラルな匂いがうっすらとついている。
「沙織、コーヒー、もう一杯いる?」と隆司は聞いた。彼女は「ううん、大丈夫」と答えた。
普通の朝だった。
────────────────
別の朝、と彼女は続けた。
目が覚めると、ベージュのカーテンの部屋だった。古いアパートの二階、西向き。掛け布団は、厚手のグレーのシングル。右側に人が眠っていた。
「拓哉」
同棲して二年目。結婚の話は去年出たが、どちらも仕事が忙しくて、具体的には動いていない。
朝食は白米と味噌汁と、自分で焼いた鮭。拓哉の部屋には、古い畳の、乾いた匂いがする。
「里緒、お茶、もう一杯いる?」と拓哉は聞いた。彼女は「うん、お願い」と答えた。
これも、普通の朝だった。
────────────────
私は、ここでノートから顔を上げた。
彼女の話を書き留めていくうちに、気づいていた。二つの朝で、隣に眠っている男の名が違うこと。二人の男が、彼女を別の名で呼んでいること。
彼女自身は——気づいていないようだった。
「隆司」と呼んだ男の話をした次の瞬間に、「拓哉」の話をする。沙織と呼ばれた自分と、里緒と呼ばれた自分を、どちらも同じ手つきで取り出して、並べる。区別のつもりもない。どちらが主でどちらが副でもない。
私は、彼女の名前を訊かなかった。
訊いたら——何と答えたか、想像がつかなかった。
────────────────
編集者の私と、デザイナーの私は、と彼女は言った。
休日の過ごし方が違うんです。
編集者の私は、土曜の朝に代々木のカフェで本を読む。古いビルの二階の店で、マスターが自分で焼いたスコーンを出す。隆司は休日は寝ているから、一人で行く。
デザイナーの私は、土曜の朝に拓哉と近所を散歩する。川沿いの遊歩道を端まで歩くと四十分かかる。途中のベンチで缶コーヒーを飲む。拓哉はブラック、私は微糖。
「どちらも、本当に私の休日なんです」と彼女は言った。
「どちらも?」と私は聞いた。
「どちらも」
彼女は頷いた。
「両方とも、覚えてるんです。感触まで」
カフェで開いた本の、表紙の硬さ。公園のベンチの、冷たさ。スコーンのバターの厚み。缶コーヒーの、微糖の甘み。
「私は、本当は、どっちの人生を生きてるんでしょうか」
彼女は訊いたが、答えを求めているようには見えなかった。
────────────────
二つの人生が始まったのはいつか、と私は訊いた。
半年前でした、と彼女は言った。
日付も覚えていた。十月の、週明けの月曜日。目が覚めたとき、「今朝はどちらだろう」と思ったのが、初めてだったのだという。
その前の週末の記憶が、二つの人生のどちらにも、ない。金曜の夜から月曜の朝までの、二日半。どちらの自分にも、空白だった。どちらの恋人に訊いても、「いつも通りだったよ」としか言わない。
それ以前はどうだったか、と私は訊いた。
一つしか、なかったと思います、と彼女は答えた。
「でも、今から振り返ると——それも本当かどうか、自信がないんです」
「半年前より前のあなたの人生は、どちらでしたか」と私は訊いた。
彼女はしばらく考えた。
「……思い出せません」
「両方、思い出せませんか」
「両方、半年前以降のことは、はっきり覚えてます。それより前も、思い出せます。ただ——」
ただ、それがどちらの自分の記憶なのか、定まらない。
小学校の遠足のお弁当の中身。中学の卒業式の曲。高校の文化祭の役割。どれも記憶にある。色まで、匂いまで、ある。けれど、そのときの自分が沙織だったのか里緒だったのか、彼女の中では決まっていなかった。
思い出そうとすると、二つが混ざる。
「二人とも、同じ人生を、半年前までは、生きてきたみたいなんです」
────────────────
少し話すのを止めて、彼女は鞄から手鏡を取り出した。
私に見せるためではなく、自分で覗き込んだ。
何かを確認しているようだった。
「昨日、髪、切ってないはずなんです」
「は」
「昨夜、隆司の隣で寝るときは、まだ肩に届いてたんです。今朝、目が覚めたとき、拓哉の隣で、ここまでだった」
彼女は自分の顎の下を指した。髪は、そこで揃っていた。美容院で整えた直後のような切り口は、ない。少し伸びかけている。
「美容院、どっちの私も、予約はしてません」
「別の、あなたが、切ったということですか」と私は訊いた。
「切ったんだと思います。寝てる間に」
彼女は手鏡を閉じた。
「隆司も、拓哉も、今朝私を見て、髪のことは、何も言わなかったんです」
────────────────
私は次の質問をするか、少し迷った。
訊かない方が良い気がした。だが彼女は、訊いてほしそうに見えた。
「——どちらの方を、より、愛していますか」
彼女は口を開けた。
名前を言おうとした。
短い音——「た」——だけが、出た。
その後、声が続かなかった。喉の奥で、小さく息が止まっていた。
彼女の目は、私ではなく、私の背後の壁の、何もない一点を見ていた。
口は、開いたままだった。
十秒ほど、そのままだった。
────────────────
「——誰、だっけ」
彼女は言った。
声は、自分に対する問いだった。私に答えを求めていなかった。
「彼氏の、名前が、今、出てこなくなりました」
「隆司さんと」
「——誰」
私は、言いかけて止めた。
彼女は、片方の手のひらで自分のこめかみを押さえた。
もう片方の手で、膝の上の白いハンカチを強く握った。
「どっちも、名前が、出てこない」
「一緒に住んでる人の、名前が、今、一つも、出てこない」
────────────────
「——どっちが、本物ですか」
彼女は私に訊いた。
答えるべきではないと、分かっていた。私は答えを持っていない。ただ、この部屋で、彼女の話を記録している、一人の人間でしかなかった。
彼女は、私からも、自分からも、答えをもらえないまま、しばらく座っていた。
「選ばなきゃいけないんでしょうか」と彼女は言った。
「私が、一つの人生を選べば——もう一つの人生の私は、どうなるんでしょうか」
質問は、部屋の空気の中に留まって、どこにも届かなかった。
彼女は立ち上がった。
「また、来ていいですか」
「いいですよ」と私は答えた。
「次に来るとき、私が、どっちの私かも、わかりません」
それだけ言って、彼女はコートを羽織って、出ていった。
ドアが閉まる音が、静かだった。
────────────────
彼女の話を書き終えて、私はしばらくノートを閉じなかった。
書き留めた名前を、もう一度見た。
隆司。沙織。拓哉。里緒。
四つの名があった。
彼女の名前は、その中に、二つあった。
私は、彼女の名前を、とうとう訊かないまま、記録を終えた。
訊くべきだったのか、訊かない方が良かったのか——判断がつかなかった。
訊いたところで彼女が一つの名前を答えたとしても、それは「今の彼女の名前」でしかなかったはずだ。別の彼女には、別の名前がある。どちらも同じ記憶を持っていて、同じ場所で目を覚ます。
選ぶということは——もう片方を、どこかに、置いてくるということだ。
どこに、置いてくるのか。
そのあと、どうなるのか。
訊きたかったのは、本当は、私の方だった。
────────────────
記録を終えると、私は二十四本目の蝋燭を消した。
残り、七十六本。
この話を読んだあと、
今朝、目覚めたときのことを、
思い返してみてください。
布団の色、窓から差した光、
隣にいた人の顔と、名前——
全部、昨日眠ったあなたのものと、
ひとつも、ずれていませんでしたか。
——もし一つでも、ずれていたのなら。
今朝のあなたは、どちらだったんでしょうか。
評価・ブックマーク・コメントで感想を教えてください。