継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
二十五本目は、私自身に、起きた。
日曜の午後だった。
蝋燭を並べる棚を、少し広げようと思った。二十四本分の蝋燭を、これまでは三段の小さな棚に置いていた。二十五本目からは、一本増えるたびに場所が足りなくなる。計算通りなら、あと七十五本分の場所を、どこかに作らなければならなかった。
部屋の西側にある本棚を、窓から五十センチほど離すことにした。そうすれば棚をもう一段足せる。
外は曇っていたが、雨は降っていなかった。ファンヒーターの低い音だけが鳴っていた。
本棚の下に段ボールを敷いた。上の段から数冊の本を抜いた。軽くなった本棚の端を持って、三センチほど、壁側に引き寄せた。
手の甲が、何かに、当たった。
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本棚の上の空間——何もないはずの場所に、平らな面があった。
硬くて、冷たかった。
指で、押した。手のひらの温度が、向こうに伝わっていかなかった。ガラスの板に似ていた。でも、ガラスではなかった。
私は、手を、離した。
何もなかった。
日曜の午後の、少し暗い空気だけがそこにあった。
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勘違いかもしれないと思った。
もう一度、同じ場所に、手を伸ばした。
あった。
同じ硬さ、同じ冷たさ、同じ平らな面。
指先を縦に滑らせた。面は、上下に、どこまでも続いていた。床と天井を繋いで、垂直に立ち上がっていた。
幅も、確認した。
部屋の、横幅と、同じだった。
壁があった。
見えない壁が、部屋の真ん中に。
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昨日まではなかった、と思った。
その「思った」は、すぐに揺らいだ。
昨日、私はこの部屋のどこに立っていたのか。
日曜の午前中、コーヒーを淹れた。台所で湯を沸かして、机で飲んだ。机は部屋の西側にある。
そのあと、原稿を書いた。ノートパソコンを開いた。
確か、私は、その机に、今朝、座った。
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部屋を歩数で測った。
玄関側の壁から西の窓までは、九歩のはずだった。昨日までは九歩だった。
今、私は、四歩で止まった。
四歩目の先に、見えない壁があった。
壁の向こう側に、私の机があった。ノートパソコンが、開いたままだった。さっきまで打っていたキーボードの配列が、うっすらと向こうから見えた。
机の横には、蝋燭を並べた三段の棚。炎は灯っていない。昼だ。
私の生活の、半分が、壁の向こうに、置き去りになっていた。
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私は、壁に、手のひらを当てた。
向こうから、押し返された。
同じ高さに、同じ大きさの、同じ温度の、手のひらが。
私は、手を、離さなかった。
動かしてみた。
右に。向こうも右に。
左に。向こうも左に。
同じ速さで。
指を五本、開いた。向こうも、五本。
こぶしを握った。向こうも、握った。
ただ、その動作は——私より、〇・五秒、先に、始まっていた。
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コンコン、と、向こうから、叩いた。
三回。
私は、同じ三回を、叩き返した。
向こうも、三回。
やり取りは、それから、速くなった。
五回。七回。九回。
最後は、数えられなかった。
叩き合いが、絶え間ない衝撃に変わった。
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そして——
ドン、と、大きな一撃が、来た。
本棚が、揺れた。
壁の向こう側から、部屋全体を震わせる衝撃が、一度。
私は、身を引いた。
向こうから、声が、した。
「——入れてくれ」
自分の声だった。
低くもなく、高くもない。早口でも遅口でもない。自分のノートを読み上げるときの、私の声だった。
「入れてくれ」
もう一度、同じ声で、同じ言葉で。
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私は、答えなかった。
「どこへ」と、訊かなかった。
「誰が」とも、訊かなかった。
訊いたら、答えが返ってきてしまう気がした。
答えが——私の声で、返ってきてしまう気がした。
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壁から、後ろに下がった。
二歩、三歩、四歩。
玄関まで下がって、それ以上は、下がれなかった。
靴を履いた。コートを羽織った。鍵を持った。ドアを開けて、外に出た。
ドアを閉めた瞬間、ドアの向こうで、もう一度、ドンという衝撃が、聞こえた気がした。
「——入れてくれ」
気がした、だけで、もう本当には聞こえていなかった。
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二時間ほど、街を歩いた。
記録ノートは、家に置いてきていた。ノートがなければ、今日の違和感を、書き留められなかった。私は、記録する側の人間だ。目の前で違和感が起きれば、書かなければならない。
そう思いながら、家に帰れなかった。
家には、見えない壁があった。
壁の向こうには、私の声の誰かが、いた。
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日が暮れる前に、家に戻った。
玄関の鍵を開けた。ドアを開けた。
部屋は、元通りだった。
本棚は、私が動かす前の位置に戻っていた。
見えない壁は、消えていた。
机の前まで、歩数を測った。玄関から九歩。ちゃんと、九歩、あった。
ノートパソコンが、机の上で、開いたままになっていた。
画面には、私が今朝打った原稿の、続きが、表示されていた。
私が、打った覚えのない、続きが。
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読まなかった。
読まないまま、ノートパソコンを閉じた。
閉じた蓋の上に、しばらく、手を置いていた。
「入れてくれ」
と、部屋の、誰もいないはずの方向から、もう一度、小さな声が、聞こえた気がした。
私の声だったのか、私以外の声だったのか——もう、判別がつかなかった。
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その夜、私は二十五本目の蝋燭を灯した。
蝋燭棚は、動かせなかった。本棚の位置は、元通りのままだった。二十五本目は、仕方なく、三段目の蝋燭の横に、置いた。
二十五本の炎が、部屋の西側に、並んだ。
記録ノートを開いた。
今日の違和感を、書こうとした。
ノートの新しいページに、すでに、文字が書かれていた。
私の筆跡に、よく似た字で。
書いた覚えは、なかった。
文面は、今日私が体験したことを、書いていた。
——ただ、最後の一行だけが、その筆跡ですら、なかった。
「次は、お前の番だ」
私の字ではなかった。
私の字に似た字でも、なかった。
誰の字でもなかった。
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私は、その一行の上に、自分の手で、二十五本目の記録を、重ね書きしようとした。
ペンを下ろした瞬間、自分の字が、その一行の字に、寄り始めた。
書き終えたとき、二つの筆跡は、見分けがつかなくなっていた。
私の字が、向こうに寄ったのか——
向こうの字が、私に寄ったのか。
もう、判別できなかった。
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蝋燭の炎を、一本ずつ、消した。
二十五本目を消したとき、最初に灯した蝋燭——一本目の蝋燭の炎が、もう一度、一瞬、揺れた気がした。
気のせい、だと思う。
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記録を閉じる前に、気づいたことがある。
この部屋で、私一人で、百物語を聞いてきた——つもりだった。
だが、ここ数週、記録を書いているときに、部屋の隅から視線を感じる瞬間が、増えている。
取材対象からではない。
一人で机に向かっているときに、自分の書いたものを、誰かが後ろから、読んでいる気配がする。
その「誰か」の数が、少しずつ、増えている気がする。
次の違和感を聞きに来る者が、私の部屋の外で、静かに、順番を、待っている。
まだ、誰にも、扉は開けていない。
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記録を閉じた。
二十五本を、消した。
残り、七十五本。
この話を読んだあと、
自分の部屋の、何もないはずの、
空中に、手を伸ばしてみてください。
そこに何もなければ、
あなたの部屋には、まだ、
壁はありません。
——でも、もし、
指先に何かが、
触れたのなら——
向こう側から、
押し返してきたのは、
誰の手だったのでしょうか。
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