継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、二十九本目の違和感である。

二十九本目は、雨の日の、帰り道に、足元に、落ちていた。


第二十九話:もう一つの手帳

雨が、降っていた。

 

降って、止んで、また、降った。

 

外に、用事が、あった。

記録のためでは、なかった。

家の合鍵を、作りに、いっていた。

取りに行くだけの、用件だった。

 

合鍵を、作ってくれた老人は、いつもと、同じ場所で、いつもと、同じように、私に、鍵束を、渡した。

受け取りの、伝票に、サインを、した。

ペンを、返した。

釣り銭を、受け取った。

 

外に出ると、雨は、止んでいた。

 

────────────────

 

 

商店街の、入り口で、また、降りだした。

 

私は、アーケードに、入った。

屋根の、あるあいだは、傘を、たたんだ。

傘の先から、雨水が、舗装の上に、点々と、落ちた。

 

夕方の、商店街は、すいていた。

 

通りの、中ほどで、舗装の、低くなっているところに、水が、溜まっていた。

 

歩道のタイルが、二、三枚分、わずかに、沈んでいて、そこに、雨水が、寄っていた。

 

私は、その水たまりを、避けた。

 

避けた拍子に、傘の先で、何かを、つついた。

 

足元に、革の、手帳が、落ちていた。

 

 

────────────────

 

 

茶色の、革で、できていた。

 

水たまりの、ふちのところに、置かれていた。

 

私は、しゃがんで、革の表面に、指を、触れさせた。

 

革は、乾いていた。

 

すぐ、そばの、舗装は、濡れていた。

水たまりの、表面には、雨だれの波紋が、いま、できたばかりだった。

雨は、まだ、降っている。

 

しかし、革の表面は、乾いていた。

 

──そのことが、最初に、気になった。

 

私は、手帳を、拾った。

 

 

────────────────

 

 

私は、自分の、内ポケットを、確かめた。

 

私のものは、内ポケットに、あった。

 

毎日、内ポケットに、入れている、革の手帳。

表紙の、右下の角が、少し、めくれかけている、私の手帳。

 

しゃがんで、拾い上げた手帳も、表紙の、右下の角が、同じように、めくれていた。

 

めくれの、深さも、同じだった。

めくれの、向きも、同じだった。

めくれた紙の、繊維の、ささくれかたも、同じだった。

 

私は、両手を、空けた。

 

内ポケットから、自分の手帳を、取り出した。

拾った手帳と、左右の手で、持ち比べた。

 

重さは、同じだった。

 

 

────────────────

 

 

私は、軒下に、移動した。

 

商店街の、半分まで、来ていた。

帰り道の、いつもの、自販機の、明かりの下まで、歩いた。

そこに、自分の手帳を、左手に、拾った手帳を、右手に、置いた。

 

そして、右手の手帳の、表紙を、めくった。

 

最初のページに、表題が、書かれていた。

 

「記録」

 

私が、自分の手帳の、最初のページに、書いている、表題と、同じだった。

 

墨の、にじみの位置まで、同じだった。

書いた角度の、わずかな、傾きまで、同じだった。

「記」の字の、二画目の、はねの強さも、同じだった。

 

筆跡は、私のものだった。

 

 

────────────────

 

 

私は、ページを、めくった。

 

一月の、最初の週から、記録が、始まっていた。

 

一月七日、晴れ、出勤、夕食はうどん。

一月八日、晴れ、休み、買い物。

一月九日、雨、出勤、夕食はカレー。

 

私が、自分の手帳に、書いた内容と、同じだった。

 

私は、左手の手帳——自分の手帳——も、開いた。

 

同じ日付の、ページを、突き合わせた。

 

二冊の、文字が、同じ位置に、同じ筆跡で、同じインクで、書かれていた。

 

「うどん」の、最後の、ん の、はねの長さまで、同じだった。

 

────────────────

 

 

私は、日にちごとに、めくっていった。

 

二月のページ。

三月のページ。

四月、五月、六月。

 

二月十一日、休み、雨、午後、本屋。

三月三日、出勤、雨、夕食はラーメン。

四月の半ば、書き間違いで、ニ重線を引いて、書き直した一行。

五月、長雨の週、毎日「雨」と、書いた。

六月、半月、晴れの日が、続いた。

 

ぜんぶ、両方の手帳に、同じように、書かれていた。

 

書き間違いの、二重線の、長さも、傾きも、同じだった。

 

私の生活の、一日も、欠けずに、記録されていた。

ぜんぶ、私の筆跡だった。

両方とも。

 

 

────────────────

 

 

今月の、ページに、来た。

 

今週の、ページに、来た。

 

今日の、日付の、ページに、辿り着いた。

 

 

────────────────

 

 

書かれていた。

 

朝、目を覚ました、時刻。

朝食に、淹れたコーヒーの、湯量。

午前中に、メールを、二通、返信したこと。

午後、合鍵を、取りに行った、店の、名前と、所在地。

合鍵を、作ってくれた老人に、釣り銭を、受け取ったこと。

 

帰り道、雨が、降って、止んで、また、降ったこと。

傘を、開いて、たたんで、また、開いたこと。

 

そして——

 

商店街のアーケードの、舗装の、低い部分に、水が、溜まっていたこと。

歩道のタイルが、二、三枚分、わずかに、沈んでいたこと。

 

私が、その水たまりを、避けたこと。

傘の先で、何かを、つついたこと。

 

足元に、革の手帳が、落ちていたこと。

革の表面が、乾いていたこと。

私が、手帳を、拾ったこと。

内ポケットから、自分の手帳を、取り出して、二冊を、持ち比べたこと。

 

軒下に、移動したこと。

自販機の明かりの下に、二冊を、並べたこと。

右手の手帳の、表紙を、めくったこと。

 

そして——

 

 

────────────────

 

 

最後の行に、こう、書いてあった。

 

 

「いま、私は、この行を、読んでいる」

 

 

────────────────

 

 

私は、腕時計を、見た。

 

書かれていた行の、すぐ右端に、時刻が、添えられていた。

 

「二十時、十四分」

 

腕時計の針は、二十時、十四分を、指していた。

 

商店街の、奥のほうから、まだ、雨の音が、していた。

自販機の、低い、唸る音が、私のすぐ脇で、続いていた。

 

 

────────────────

 

 

私は、次のページを、めくった。

 

何も、書かれていなかった。

 

その次の、ページも。

 

その、次の、ページも。

 

 

──白紙の、ように、見えた。

 

 

ただ、紙の、感触が、違っていた。

 

ペン先が、一度、強く、押しつけられたあとの、わずかな、凹みが、指先に、伝わってきた。

 

私は、紙の表面を、自販機の灯りに、傾けて、見た。

 

光の角度を、変えた。

 

何かが、書かれている、ような、影が、表面に、浮かんで、見えた。

 

──ただ、視線を、その影に、合わせると、文字は、消えた。

 

──角度を、戻すと、また、影が、浮かんだ。

 

その繰り返しを、私は、何度か、続けた。

 

繰り返したあと、ページの、右下に、何が書かれているのかは、わからなかった。

 

書かれていない、と、断言することも、できなかった。

 

 

────────────────

 

 

私は、二冊を、両手に持ったまま、手帳を、閉じた。

 

商店街を、出た。

 

家までの、十五分のあいだ、雨は、降ったり、止んだり、を、繰り返した。

私は、傘を、開いたり、たたんだり、を、繰り返した。

 

家の鍵を、玄関で、回した。

新しい合鍵を、いつもの鍵束に、付け足した。

コートを、脱いだ。

内ポケットから、自分の手帳を、取り出した。

 

机の上に、二冊を、並べた。

 

 

────────────────

 

 

革の、色も。

表紙の、右下の角の、めくれかたも。

栞紐の、ほつれた、根元も。

革の艶の、出かたも。

角の、擦れの、深さも。

 

同じだった。

 

私は、両方の、最初のページを、開いた。

 

両方とも、「記録」と、書かれていた。

両方とも、私の、筆跡だった。

 

私は、両方の、購入日付の、欄を、確認した。

 

二〇〇九年、四月、二十一日。

二〇〇九年、四月、二十一日。

 

同じ日に、同じ店で、同じ手帳を、二冊、買った覚えは、なかった。

 

 

────────────────

 

 

私は、自分の手帳の、いちばん新しいページを、開いた。

 

今日の欄を、見た。

 

朝のコーヒーの、湯量から、合鍵の店の、名前まで、私が、自分の手で、書いたとおりに、書かれていた。

 

最後の行は——

 

 

「商店街のアーケードで、足元に、手帳が、落ちていた」

 

 

その先の、行は、まだ、書かれていなかった。

 

ペンを、置いた、跡が、ページの、隅に、わずかに、残っていた。

 

 

────────────────

 

 

私は、二十九本目の違和感を、ノートに、記録した。

 

雨の日の、帰り道に、革の手帳が、落ちていたこと。

拾い上げたら、自分のものと、まったく、同じ手帳だったこと。

中に、今年の自分の生活が、ぜんぶ、自分の筆跡で、書かれていたこと。

最後の行に「いま、私は、この行を、読んでいる」と、書かれていたこと。

 

書き終えた。

 

ペンを、置いた。

 

 

────────────────

 

 

書き終えてから、拾った手帳を、もう一度、開いた。

 

最後に書かれていた、「いま、私は、この行を、読んでいる」の、行の、すぐ下に、続きが、増えていた。

 

 

「商店街を、出た。

家までの、十五分のあいだ、雨は、降ったり、止んだり、を、繰り返した。

帰宅して、玄関で、合鍵を、いつもの鍵束に、付け足した。

机の上に、二冊を、並べた。

購入日付の、欄を、両方、確認した。

自分の手帳の、最後の行を、確認した。

二十九本目の違和感を、ノートに、記録した」

 

 

今、私が、たった今、終えたばかりの、行為が、私の筆跡で、書かれていた。

 

書き終わった時刻まで、添えられていた。

 

 

────────────────

 

 

私は、ページを、めくった。

 

──次のページに、もう一行、増えていた。

 

 

「ページを、めくった」

 

 

────────────────

 

 

私は、手を、止めた。

 

しばらく、動かなかった。

 

私は、もう一度、ページを、めくった。

 

──次のページに、もう一行、増えていた。

 

 

「私は、手を、止めた。

しばらく、動かなかった。

私は、もう一度、ページを、めくった」

 

 

────────────────

 

 

私は、ページを、戻した。

 

「いま、私は、この行を、読んでいる」の、行を、もう一度、確認した。

 

その時刻は、変わっていなかった。

 

二十時、十四分のまま、書かれていた。

 

 

────────────────

 

 

二十九本目の蝋燭に、火を、灯した。

 

一本目の蝋燭の炎が、また、一瞬、左に、揺れた。

 

机の上に、残りの蝋燭が、まだ、並んでいた。

数える気には、ならなかった。

七十一本、あるはずだった。

 

 

────────────────

 

 

私は、もう、拾った手帳を、開かなかった。

 

机の、いちばん下の、引き出しを、開けた。

引き出しの中は、空に、近かった。

古い領収書が、二、三枚、底に、敷かれているだけだった。

 

私は、拾った手帳を、領収書の上に、置いた。

 

引き出しを、閉めかけた、そのとき。

 

手帳の、最後のページのあたりが、わずかに、ふくらんで、見えた。

 

何かが、ページの、いちばん奥に、書かれている、ような、ふくらみだった。

 

それが、本当に、書かれていたのか、紙の、皺だったのか——

 

私は、確かめなかった。

 

確かめても、私には、読めない、ような、気が、した。

 

引き出しを、閉めた。

 

カチ、という、小さな音が、した。

 

 

────────────────

 

 

その夜、私は、自分の手帳を、机の、いつもの場所に、置いた。

 

ノートに、もう一度、目を、戻した。

 

二十九本目の違和感の、最後の行の、すぐ下に、何も、増えていなかった。

 

すぐ下の行は、まだ、白かった。

 

私は、しばらく、その白い行を、見ていた。

 

明日、ここに、何かが、書かれるのか。

それとも、すでに、どこかに、書かれているのか。

 

私は、ペンを、握ったまま、明日のことを、書こうとは、しなかった。

 

 

────────────────

 

 

今、あなたが、これを読んでいる、その時間。

 

今日の、夕方、あるいは、夜、あるいは、深夜——

 

あなたの、足元に、革の手帳が、落ちていなかっただろうか。

 

落ちていなかったとしても——

 

あなたの、明日の、行動が、どこにも、書かれていない、と。

 

本当に、言い切れるだろうか。

 




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