継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、三本目の違和感である。

ある女性が私の前に現れ、「昨日の記憶が一切ない」と訴えた。目覚めると24時間がそっくり消えていた——だが、消えたはずの時間は、確かに「存在した」痕跡を残していた。

私は彼女の話を、そのまま記録する。


第三話:消えた24時間

目が覚めたとき、最初に感じたのは「おかしい」という感覚だった。

何がおかしいのか、彼女にはすぐには分からなかった。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。スマートフォンの充電ランプが緑に灯っている。いつもと変わらない朝だ。

彼女はベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取った。

日付を確認する。

「……え?」

前の日は確かに「あった」はずだ。

なのにスマートフォンの画面には、丸一日分飛んだ日付が表示されている。

「寝すぎた?」

そう思おうとした。だが、胸の奥にある違和感が消えない。1日分の記憶があるはずなのに——その丸1日が、存在しない。

彼女は台所へ向かった。コーヒーを淹れながら、昨日のことを思い出そうとした。

何も出てこなかった。

────────────────

コーヒーカップを手に、彼女はリビングを見回した。

部屋はきれいに片付いている。前日の帰宅時のままだ。ゴミ箱もソファのクッションも、何一つ変わっていない。

昨日帰宅した形跡が、ない。

だが——自分はどこにいたのか。

「仕事は?」

カレンダーを確認する。その日の欄には「定例会議・14:00」と書かれている。会社に行ったはずだ。記憶がないだけで、普通に出勤したはずだ。

彼女はスマートフォンでメールを開いた。

受信トレイに、その日付のメールが数通届いている。上司からの返信、取引先からの連絡。仕事は問題なくこなしたらしい。

「じゃあ、なぜ——」

玄関へ向かった。

コートが、ハンガーに掛かっていた。それ自体はおかしくない。ただ、彼女はコートに手を伸ばしながら、ふと気づいた。

コートが、いつも掛ける右のハンガーではなく、左に掛かっている。

ごく小さな違和感だった。

だが、彼女がコートに触れた瞬間——

────────────────

香水の匂いがした。

知らない誰かの体温が残っているような、甘く重いムスクの匂い。

彼女は立ち止まった。

自分が使う香水は一種類だけだ。淡いフローラル系の、長年愛用している香り。だがコートから漂うのは、明らかに他人のものだった。

「誰かに会ったのかな……」

それとも、自分が買ったのか。どこかで試したのか。

彼女はコートのポケットに手を入れた。

レシートが一枚入っていた。

コンビニのレシートだ。日付はその日、時刻は午前2時17分。購入品目は缶コーヒーとチョコレート。

午前2時17分。

彼女は夜更かしをしない。深夜に出歩く習慣もない。仕事のある翌日なら、なおさら。

「これ、私が買ったの?」

彼女はスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。

────────────────

写真が、50枚あった。

前日の夜からその日にかけて、撮影された写真が50枚。

最初の1枚は、見覚えのない街の写真だった。夜の繁華街。ネオンサイン。見たことのない店が並ぶ路地。

彼女はそんな場所に行かない。

次の1枚は、居酒屋の内装だった。カウンター席。グラスの上にライムが乗っている。

彼女は酒を飲まない。胃が弱いので、付き合いの席でもソフトドリンクを頼む。

その次。また知らない場所。

その次。また。

また。

スクロールするたびに、見覚えのない場所が現れる。深夜の公園。川沿いの道。どこかの建物の屋上。東京タワーの近く——彼女は観光地を一人で訪れるような人間ではない。

そして、47枚目で、彼女は手を止めた。

自撮り写真だった。

知らない場所の路地で、彼女自身が笑っていた。

ピースサインをして。

満面の笑みで。

彼女が見たことのない、自分の笑顔で。

目が少しだけ焦点が合っていない。

背景の暗がりに、ぼんやりとした人影が写り込んでいる気がした。

────────────────

しばらく、彼女は動けなかった。

スマートフォンを握ったまま、その写真を見つめ続けた。

自分の顔だ。間違いない。

なのに——この笑顔を作った記憶が、どこにもない。

「私が撮ったの?」

誰かに撮ってもらったのか。あるいは自分で撮ったのか。

47枚目以降の写真を確認する。

48枚目は、再び街の風景。49枚目は、何かの建物の外観。50枚目は——コンビニのレジカウンターを外から撮った写真だった。

午前2時17分。

あのレシートのコンビニだ。

彼女は50枚の写真を最初から見直した。どれも夜の写真で、どれも知らない場所で、どれも——楽しそうに撮られていた。

まるで、誰かが旅行をしているように。

「私、昨日、どこにいたんだろう」

声に出してみる。

誰も答えない。

もう一度、昨日の記憶を探る。朝起きた。仕事に行った。会議があった——ここまでは、なんとなくある。でも、そこから先が、霧の中だ。

退社した後。夜。深夜。

何もない。

まるで、その時間に「自分がいなかった」かのように。

────────────────

その日の午後、彼女は上司に昨日のことを聞いた。

「昨日、何かおかしいことなかったですか。私、何か変でしたか」

上司は少し考えてから、答えた。

「変って……そうかな。いつも通りだったと思うけど」

「会議、ちゃんと出席してましたよね」

「うん。発言も普通にしてたよ。どうかした?」

「いえ」と彼女は首を振った。「少し疲れてるみたいで」

上司は心配そうに彼女を見た。「無理しないほうがいいよ」

彼女はデスクに戻った。

仕事はしていた。会議にも出た。同僚たちの目には「いつも通り」に映っていた。

なのに彼女には、その記憶がない。

あるのは、深夜の繁華街で撮られた50枚の写真と、使った覚えのない香水の匂いと、行ったはずのないコンビニのレシートだけだ。

——そして、47枚目の、自分の笑顔。

彼女は、あの笑顔が怖かった。

笑っていた自分が怖いのではない。

あの笑顔を——まったく知らないことが怖かった。

────────────────

夜、彼女は50枚の写真をもう一度眺めた。

ひとつひとつ、丁寧に。

知らない場所。知らない時間。知らない自分。

その中で、44枚目の写真に、初めて気づいた。

路地の写真だった。夜の路地。ゴミ箱と電柱が写っている。

よく見ると、電柱に貼られた看板に、日時が印刷されている。

その日の午前1時34分。

彼女は自分の手帳を開いた。その日のページ。白い欄。何も書いていない。

だが——前日の最後の行に、彼女の筆跡で、一行だけ書かれていた。

「明日は大丈夫。ちゃんとやれる」

彼女にはその文字を書いた記憶がなかった。

書いたのは自分の字だ。

だが、その文字が意味する「明日」が何を指すのか、「ちゃんとやれる」が何を意味するのか、彼女には一切わからなかった。

スマートフォンを手に取り、47枚目の写真を開く。

路地で笑う、自分の顔。

「……私、何をしてきたんだろう」

そう呟いた瞬間、彼女の手から、スマートフォンが落ちた。

床に膝をついた。

「取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない」

それだけ言って、彼女は泣き崩れた。

何が取り返しのつかないことなのか。

昨日何があったのか。

彼女には、わからなかった。

わからないまま——泣き続けた。

────────────────

記録を終えると、私は三本目の蝋燭を消した。

彼女のその後を、私は知らない。

ただひとつ気になるのは——彼女が私にこの話をしたのは、昨日から一週間後のことだった。

そしてその日も、彼女のコートから、同じ香水の匂いがした。

彼女は気づいていなかった。

……今日も。

残りは九十七本。

私は次の違和感を、待つことにした。




読了ありがとうございました。

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