継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある女性が私の前に現れ、「昨日の記憶が一切ない」と訴えた。目覚めると24時間がそっくり消えていた——だが、消えたはずの時間は、確かに「存在した」痕跡を残していた。
私は彼女の話を、そのまま記録する。
目が覚めたとき、最初に感じたのは「おかしい」という感覚だった。
何がおかしいのか、彼女にはすぐには分からなかった。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。スマートフォンの充電ランプが緑に灯っている。いつもと変わらない朝だ。
彼女はベッドから起き上がり、スマートフォンを手に取った。
日付を確認する。
「……え?」
前の日は確かに「あった」はずだ。
なのにスマートフォンの画面には、丸一日分飛んだ日付が表示されている。
「寝すぎた?」
そう思おうとした。だが、胸の奥にある違和感が消えない。1日分の記憶があるはずなのに——その丸1日が、存在しない。
彼女は台所へ向かった。コーヒーを淹れながら、昨日のことを思い出そうとした。
何も出てこなかった。
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コーヒーカップを手に、彼女はリビングを見回した。
部屋はきれいに片付いている。前日の帰宅時のままだ。ゴミ箱もソファのクッションも、何一つ変わっていない。
昨日帰宅した形跡が、ない。
だが——自分はどこにいたのか。
「仕事は?」
カレンダーを確認する。その日の欄には「定例会議・14:00」と書かれている。会社に行ったはずだ。記憶がないだけで、普通に出勤したはずだ。
彼女はスマートフォンでメールを開いた。
受信トレイに、その日付のメールが数通届いている。上司からの返信、取引先からの連絡。仕事は問題なくこなしたらしい。
「じゃあ、なぜ——」
玄関へ向かった。
コートが、ハンガーに掛かっていた。それ自体はおかしくない。ただ、彼女はコートに手を伸ばしながら、ふと気づいた。
コートが、いつも掛ける右のハンガーではなく、左に掛かっている。
ごく小さな違和感だった。
だが、彼女がコートに触れた瞬間——
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香水の匂いがした。
知らない誰かの体温が残っているような、甘く重いムスクの匂い。
彼女は立ち止まった。
自分が使う香水は一種類だけだ。淡いフローラル系の、長年愛用している香り。だがコートから漂うのは、明らかに他人のものだった。
「誰かに会ったのかな……」
それとも、自分が買ったのか。どこかで試したのか。
彼女はコートのポケットに手を入れた。
レシートが一枚入っていた。
コンビニのレシートだ。日付はその日、時刻は午前2時17分。購入品目は缶コーヒーとチョコレート。
午前2時17分。
彼女は夜更かしをしない。深夜に出歩く習慣もない。仕事のある翌日なら、なおさら。
「これ、私が買ったの?」
彼女はスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。
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写真が、50枚あった。
前日の夜からその日にかけて、撮影された写真が50枚。
最初の1枚は、見覚えのない街の写真だった。夜の繁華街。ネオンサイン。見たことのない店が並ぶ路地。
彼女はそんな場所に行かない。
次の1枚は、居酒屋の内装だった。カウンター席。グラスの上にライムが乗っている。
彼女は酒を飲まない。胃が弱いので、付き合いの席でもソフトドリンクを頼む。
その次。また知らない場所。
その次。また。
また。
スクロールするたびに、見覚えのない場所が現れる。深夜の公園。川沿いの道。どこかの建物の屋上。東京タワーの近く——彼女は観光地を一人で訪れるような人間ではない。
そして、47枚目で、彼女は手を止めた。
自撮り写真だった。
知らない場所の路地で、彼女自身が笑っていた。
ピースサインをして。
満面の笑みで。
彼女が見たことのない、自分の笑顔で。
目が少しだけ焦点が合っていない。
背景の暗がりに、ぼんやりとした人影が写り込んでいる気がした。
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しばらく、彼女は動けなかった。
スマートフォンを握ったまま、その写真を見つめ続けた。
自分の顔だ。間違いない。
なのに——この笑顔を作った記憶が、どこにもない。
「私が撮ったの?」
誰かに撮ってもらったのか。あるいは自分で撮ったのか。
47枚目以降の写真を確認する。
48枚目は、再び街の風景。49枚目は、何かの建物の外観。50枚目は——コンビニのレジカウンターを外から撮った写真だった。
午前2時17分。
あのレシートのコンビニだ。
彼女は50枚の写真を最初から見直した。どれも夜の写真で、どれも知らない場所で、どれも——楽しそうに撮られていた。
まるで、誰かが旅行をしているように。
「私、昨日、どこにいたんだろう」
声に出してみる。
誰も答えない。
もう一度、昨日の記憶を探る。朝起きた。仕事に行った。会議があった——ここまでは、なんとなくある。でも、そこから先が、霧の中だ。
退社した後。夜。深夜。
何もない。
まるで、その時間に「自分がいなかった」かのように。
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その日の午後、彼女は上司に昨日のことを聞いた。
「昨日、何かおかしいことなかったですか。私、何か変でしたか」
上司は少し考えてから、答えた。
「変って……そうかな。いつも通りだったと思うけど」
「会議、ちゃんと出席してましたよね」
「うん。発言も普通にしてたよ。どうかした?」
「いえ」と彼女は首を振った。「少し疲れてるみたいで」
上司は心配そうに彼女を見た。「無理しないほうがいいよ」
彼女はデスクに戻った。
仕事はしていた。会議にも出た。同僚たちの目には「いつも通り」に映っていた。
なのに彼女には、その記憶がない。
あるのは、深夜の繁華街で撮られた50枚の写真と、使った覚えのない香水の匂いと、行ったはずのないコンビニのレシートだけだ。
——そして、47枚目の、自分の笑顔。
彼女は、あの笑顔が怖かった。
笑っていた自分が怖いのではない。
あの笑顔を——まったく知らないことが怖かった。
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夜、彼女は50枚の写真をもう一度眺めた。
ひとつひとつ、丁寧に。
知らない場所。知らない時間。知らない自分。
その中で、44枚目の写真に、初めて気づいた。
路地の写真だった。夜の路地。ゴミ箱と電柱が写っている。
よく見ると、電柱に貼られた看板に、日時が印刷されている。
その日の午前1時34分。
彼女は自分の手帳を開いた。その日のページ。白い欄。何も書いていない。
だが——前日の最後の行に、彼女の筆跡で、一行だけ書かれていた。
「明日は大丈夫。ちゃんとやれる」
彼女にはその文字を書いた記憶がなかった。
書いたのは自分の字だ。
だが、その文字が意味する「明日」が何を指すのか、「ちゃんとやれる」が何を意味するのか、彼女には一切わからなかった。
スマートフォンを手に取り、47枚目の写真を開く。
路地で笑う、自分の顔。
「……私、何をしてきたんだろう」
そう呟いた瞬間、彼女の手から、スマートフォンが落ちた。
床に膝をついた。
「取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない」
それだけ言って、彼女は泣き崩れた。
何が取り返しのつかないことなのか。
昨日何があったのか。
彼女には、わからなかった。
わからないまま——泣き続けた。
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記録を終えると、私は三本目の蝋燭を消した。
彼女のその後を、私は知らない。
ただひとつ気になるのは——彼女が私にこの話をしたのは、昨日から一週間後のことだった。
そしてその日も、彼女のコートから、同じ香水の匂いがした。
彼女は気づいていなかった。
……今日も。
残りは九十七本。
私は次の違和感を、待つことにした。
読了ありがとうございました。
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