継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
三十三本目は、私の、ノートの中に、あった。
鏡は、しばらく、見ていなかった。
三十一本目を、消した夜から、洗面所の明かりは、必要なときだけ、つけるようにしている。
そのかわり、私は、ノートを、読み返している。
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雨の日の、午後だった。
机の上に、温かい茶を、置いた。
これまでに書いたノートを、五冊、積み上げた。
積み重ねたノートの厚みは、私の手の幅と、同じくらいに、なっていた。
私は、いちばん古いノートから、一冊目を、開いた。
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第一話。
「時計が、逆に進んでいる」と、訴えた男の話だった。
朝、目を覚ますと、壁掛け時計の秒針が、反時計回りに動いていた。
電池が切れかけているのだと、男は、自分に、言い聞かせていた。
私は、その記述を、読み終わった。
湯呑みに、口をつけようと、した。
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そのとき、嗅いだ。
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雨に、濡れた、ぬかるみの、土の、匂いだった。
部屋の窓は、閉まっていた。湯呑みからは、煎茶の香りしか、しなかった。それなのに、土の匂いだけが、鼻の奥のほうに、はっきりと、残っていた。
──五年前の、ある朝、私は、同じ匂いを、嗅いだ、ことがある。
その朝、私が、家から、外に、出たのか、出なかったのかも、よく、覚えていない。
ただ、その匂いだけが、いま、戻ってきていた。
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私は、ノートを、閉じた。
立ち上がった。
窓を、開けた。
雨が、降っていた。
雨の匂いが、外から、入ってきた。
ただの、雨の、匂いだった。
私が、いま、嗅いでいた、ぬかるみの、土の匂いとは、別の、匂いだった。
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私は、窓を、閉めた。
机に、戻った。
ノートを、もう一度、開いた。
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第十話を、開いた。
ルポライターの女が、取材ノートの、白紙のページを、見つけた話だった。
女は、その日、ある駅で、十分ほど、列車を、待っていたと、書いていた。
私は、その記述を、読み終わった。
──足の裏が、冷たかった。
ホームの、コンクリートの、冷たさが、靴底を、通り抜けてくる、感覚だった。
私は、いま、机の前の、絨毯の上に、立っていた。
絨毯は、温かかった。
足の裏だけが、冷たかった。
私は、その駅を、知っていた。
ルポライターの女が、列車を、待っていた、その駅に、私自身も、立ったことが、ある。
ただし、それが、いつだったかは、思い出せなかった。
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私は、第二十話を、開いた。
──開いて、すぐに、閉じた。
読まなかった。
読まなくても、わかる、気がした。
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私は、机の上に、紙を、一枚、出した。
ペンを、取った。
ペン先を、紙に、当てた。
──書けなかった。
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天井を、見上げた。
雨の音が、ガラスの、向こうで、続いていた。
私は、もう一度、ペン先を、紙に、当てた。
今度は、書けた。
「第一話 時計の逆行する男 〇年〇月〇日」
その下に、書こうとした。
「第二話──」
書きかけて、止めた。
第二話の日付を、思い出すために、私は、ノートを、開かなければ、ならなかった。
ノートを、開きたく、なかった。
なぜ開きたくないかは、わからなかった。
私は、ノートを、開いた。
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第二話の日付を、紙に、書き写した。
写しているあいだ、三度、ペンを、止めた。
写しているあいだ、二度、書き写しているはずの日付とは、別の日付を、書きかけた。
書きかけた、別の日付に、私は、見覚えがあった。
それが、いつの日付かは、思い出せなかった。
第六話の枠を書きかけて、私は、自分が、何を、書こうとしていたのか、わからなくなった。
私は、その枠を、空白のまま、第七話に、進んだ。
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一時間後。
紙の上に、三十話分の、行動の年表が、並んでいた。
一本の線に、なっていた。
その一本の線は、私の、ここ五年間の、生活の、年表だった。
日付まで、合っていた。
時刻まで、合っていた。
ある日の朝、第六話の男が、エレベーターで、知らない階へ、運ばれていたとき──
その同じ時刻、私が、自分の部屋で、何を、していたかを、私は、思い出せなかった。
その時刻に、エレベーターで、知らない階へ、運ばれている自分の、姿だけは、まぶたの、裏側に、あった。
それを、第六話の男の体験として、私は、記録した、はずだった。
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私は、紙の上の、線を、見ていた。
見ながら、自分が、息を、しているか、確認した。
息は、していた。
していたが、何かが、おかしかった。
私の口の中で、ひとつの問いが、固まっていた。
──もしかして、私は、これまでずっと、自分の話を、記録していたのだろうか。
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私は、すぐに、その問いを、打ち消そうとした。
気のせい、かもしれなかった。
似たような体験を、する人々を、私が、引き寄せているだけ、かもしれなかった。
そう、思おうとした。
それでも、紙の上の、一本の線は、消えなかった。
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三十三本目の蝋燭に、火を、灯した。
一本目の蝋燭の炎が、また、一瞬、左に、揺れた。
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ノートを、閉じようとした。
最後のページに、今日、自分で書いた一行が、あった。
「これは私が記録した、三十三本目の違和感である」
その下に、書いた覚えのない、一行が、私の筆跡で、増えていた。
「最初の一冊は、お前のものでは、なかった」
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私は、その一行を、指で、なぞった。
紙の表面が、深く、凹んでいた。
ペン先で、書いたというより、ペン先で、刻んだような、凹みだった。
ページを、めくった。
下のページにも、同じ一行の、凹みが、残っていた。
もう一枚、めくった。
そのまた下のページにも、残っていた。
もう一枚、めくった。
その下にも。
何枚めくっても、その一行の、凹みは、続いていた。
何枚分の紙を、貫いて、その一行は、書かれたのか、私には、見当が、つかなかった。
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私は、ノートを、閉じた。
机の上に、置いた。
五冊のうちの、いちばん下に置いてある、いちばん古い一冊。
その表紙の、左下の角が、めくれていた。
私は、めくれた角を、指で、押し戻そうとした。
押し戻したとき、表紙の、内側の、隙間から、薄い紙片が、半分ほど、滑り出てきた。
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古い、紙片だった。
四つに、折り畳まれていた。
折り目の、紙の繊維が、もう、けば立っていた。
私は、その紙片を、取り出した。
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広げた。
紙片の、上のほうに、一行、書かれていた。
私の、筆跡だった。
「これは、 が、記録した、」
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「が」と「記録した」の、あいだに、書かれていたはずの、名前は、なかった。
名前の場所、だけが、紙ごと、切り取られていた。
切り口は、はさみで、切られたのではなかった。
刃物の跡では、なく、紙の繊維が、引きちぎられた、跡だった。
切り口の縁が、もう、黄ばんでいた。
何年前に、切り取られたかは、私には、判別が、つかなかった。
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私は、紙片を、机の上に、置いた。
その紙片の、切り取られた、空白の部分を、私は、しばらく、見ていた。
見ていた。
そのまま、見ていた、私が、誰なのかは、もう、よく、わからなかった。