継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
語ったのは、桐生修一。元刑事。
「昨夜は電話で失礼した。直接話す」
桐生がそう言って、椅子を引いた。
古い手帳を机に置いた。
黒い表紙に、傷がついていた。
開かなかった。
「二十五年前の件だ」
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——以下は、桐生が語ったことの記録である。
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一週間前のことだ。
退職後、初めて記録保管室に入った。
棚に並んだファイルの埃を払いながら、二十五年前の番号を探した。
見つけたとき、手が少し、震えた。
刑事として最初に担当した失踪事件だ。未解決のまま終わった。
引き出しに入れて、ずっと、触れなかった。
証拠写真を机の上に並べた。十七枚。
被害者の確認写真、現場写真、所持品の記録。
順番に、見ていった。
四枚目で、手が止まった。
被害者の一人。男性。当時、三十二歳。
写真の男が——若い頃の俺に、似ていた。
似ているのではなく、俺だと思った。
一秒だけ、そう思った。
「気のせいだ」と声に出した。三回。
写真を伏せて、次に進もうとした。
それから少しして、確認のために、もう一度だけ見た。
男は、正面を向いていた。
最初に見たとき、男は、斜め下を向いていた。
「気のせいだ」と、また言おうとした。
声が、出なかった。
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その男の証言記録が一冊あった。
失踪の三日前から、一日一回の聴取。担当は別の刑事で、俺ではない。
俺はそのとき新人で、聴取には入っていなかった。
初日。
「時計が変だ。逆に回っている気がする」
刑事らしい記録だった。筆跡は几帳面で、感想は一切ない。
ただ証言をそのまま書き留めている。
二日目。
「昨日のことを覚えていない。だが体は覚えているようだ」
担当刑事は「確認:昨日の事実関係を改めて提示したが、被疑者は納得せず」と補足している。
被疑者ではなく被害者だ。だが担当刑事は訂正していない。
二十五年前の書類に、今さら何も言えないが、気になった。
三日目、最後の記録。
「時間が逆に進んでいる。記憶が消えていく。消えていく順番が、最近のものからではなく、遠い昔のものから消えている。俺が何者なのか、もうすぐわからなくなる。もうすぐ消える」
担当刑事の補足はなかった。
三日目だけ、何も書かれていなかった。
聴取を終えた刑事が、何も書けなかったのか。
書いたが、後から消したのか。
それも分からない。
その翌日、男は失踪した。
発見されていない。
読みながら、気づいた。
消えていく順番——遠い昔のものから。
それは、今の俺が、体験していることだった。
二ヶ月前から、幼少期の記憶の輪郭が薄れている。
実家の台所の匂い。父親の声の高低。母親の横顔。
細かいところから、ゆっくりと。
最近のことは覚えている。
だが、古い記憶から、順番に、消えていく。
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証言記録の末尾に、担当刑事の補足が一行あった。
「被害者の証言の日付と、観測者の記録が始まった日の日付が一致。詳細は別件ファイル参照」
手が、止まった。
観測者という言葉が、二十五年前の補足に、あった。
担当刑事は退職していて、連絡がつかない。
「別件ファイル」は、存在しなかった。
俺が調べた限りでは。
なかったのか、抜かれたのか、それも分からない。
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資料室を出るとき、棚の一番手前に自分の署名入りの捜査報告書があった。
引き継ぎ時に記入したものだ。
手に取った。
名前の欄に「桐生修一」とある。
だが筆跡が、今の俺のものではなかった。
インクの色も、少し、違った。
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——桐生の語りはここで終わった。
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桐生は手帳を開いて、写真のコピーを取り出し、机に置いた。
あの四枚目。
私は写真を見た。
白黒で、粒子が粗かった。
男は、正面を向いていた。
年齢は三十二歳だと聞いた。
その年齢には、見えなかった。
もっと若く見えた。
あるいは——年齢不詳、という方が正確だった。
どこかで見たことがある顔だと思った。
どこで見たかは、思い出せなかった。
「この男の名前は、記録に残っていない」
桐生は言った。
「被害者台帳から抜けていた。俺が引き継いだとき、すでに抜けていた。だから俺の担当記録にも名前がない」
「名前のない被害者が、俺に似ている」
私は何も言わなかった。
写真の男の目が、こちらを向いているように、見えた。
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「俺が昨夜の電話で蝋燭の件を言い当てたのは、なぜかわかるか」
桐生が言った。
私は首を横に振った。
「俺にも、わからん。ただ、知っていた」
桐生は手帳を閉じた。
「あんたの蝋燭が一本、消えていないことを」
しばらく、どちらも黙っていた。
窓の外で、風が鳴った。
「記録してくれ。それだけ頼む」
桐生は立ち上がった。
「俺は調べ続ける。消えてしまう前に」
扉が、閉まった。
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私は、桐生の話を、記録した。
三十六本目の蝋燭を、消した。
煙が、まっすぐ、上がった。
棚を確認した。
三十六本。
並んでいた。
今夜は、数が合っていた。
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消えてしまう前に、と桐生は言った。
二十五年前の被害者も、同じことを思ったのかどうか——
私には、わからない。
わからないまま、私は、記録を閉じた。
【次回予告】
百物語 第三十七話:観測者を観測する者【観測者】
自分の記録ノートの余白に、別の筆跡で——批評が書かれていた。
「気づくのが、遅い」