継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、三十六本目の違和感である。

語ったのは、桐生修一。元刑事。


第三十六話:二十五年前の被害者

「昨夜は電話で失礼した。直接話す」

 

桐生がそう言って、椅子を引いた。

 

古い手帳を机に置いた。

 

黒い表紙に、傷がついていた。

 

開かなかった。

 

 

「二十五年前の件だ」

 

 

────────────────

 

 

——以下は、桐生が語ったことの記録である。

 

 

────────────────

 

 

一週間前のことだ。

 

退職後、初めて記録保管室に入った。

 

棚に並んだファイルの埃を払いながら、二十五年前の番号を探した。

 

見つけたとき、手が少し、震えた。

 

刑事として最初に担当した失踪事件だ。未解決のまま終わった。

 

引き出しに入れて、ずっと、触れなかった。

 

 

証拠写真を机の上に並べた。十七枚。

 

被害者の確認写真、現場写真、所持品の記録。

 

順番に、見ていった。

 

 

四枚目で、手が止まった。

 

 

被害者の一人。男性。当時、三十二歳。

 

写真の男が——若い頃の俺に、似ていた。

 

似ているのではなく、俺だと思った。

 

一秒だけ、そう思った。

 

 

「気のせいだ」と声に出した。三回。

 

写真を伏せて、次に進もうとした。

 

 

それから少しして、確認のために、もう一度だけ見た。

 

男は、正面を向いていた。

 

最初に見たとき、男は、斜め下を向いていた。

 

 

「気のせいだ」と、また言おうとした。

 

声が、出なかった。

 

 

────────────────

 

 

その男の証言記録が一冊あった。

 

失踪の三日前から、一日一回の聴取。担当は別の刑事で、俺ではない。

 

俺はそのとき新人で、聴取には入っていなかった。

 

 

初日。

 

「時計が変だ。逆に回っている気がする」

 

 

刑事らしい記録だった。筆跡は几帳面で、感想は一切ない。

 

ただ証言をそのまま書き留めている。

 

 

二日目。

 

「昨日のことを覚えていない。だが体は覚えているようだ」

 

 

担当刑事は「確認:昨日の事実関係を改めて提示したが、被疑者は納得せず」と補足している。

 

被疑者ではなく被害者だ。だが担当刑事は訂正していない。

 

二十五年前の書類に、今さら何も言えないが、気になった。

 

 

三日目、最後の記録。

 

 

「時間が逆に進んでいる。記憶が消えていく。消えていく順番が、最近のものからではなく、遠い昔のものから消えている。俺が何者なのか、もうすぐわからなくなる。もうすぐ消える」

 

 

担当刑事の補足はなかった。

 

三日目だけ、何も書かれていなかった。

 

聴取を終えた刑事が、何も書けなかったのか。

 

書いたが、後から消したのか。

 

それも分からない。

 

 

その翌日、男は失踪した。

 

発見されていない。

 

 

読みながら、気づいた。

 

消えていく順番——遠い昔のものから。

 

それは、今の俺が、体験していることだった。

 

二ヶ月前から、幼少期の記憶の輪郭が薄れている。

 

実家の台所の匂い。父親の声の高低。母親の横顔。

 

細かいところから、ゆっくりと。

 

最近のことは覚えている。

 

だが、古い記憶から、順番に、消えていく。

 

 

────────────────

 

 

証言記録の末尾に、担当刑事の補足が一行あった。

 

「被害者の証言の日付と、観測者の記録が始まった日の日付が一致。詳細は別件ファイル参照」

 

 

手が、止まった。

 

観測者という言葉が、二十五年前の補足に、あった。

 

 

担当刑事は退職していて、連絡がつかない。

 

「別件ファイル」は、存在しなかった。

 

俺が調べた限りでは。

 

なかったのか、抜かれたのか、それも分からない。

 

 

────────────────

 

 

資料室を出るとき、棚の一番手前に自分の署名入りの捜査報告書があった。

 

引き継ぎ時に記入したものだ。

 

手に取った。

 

名前の欄に「桐生修一」とある。

 

だが筆跡が、今の俺のものではなかった。

 

インクの色も、少し、違った。

 

 

────────────────

 

 

——桐生の語りはここで終わった。

 

 

────────────────

 

 

桐生は手帳を開いて、写真のコピーを取り出し、机に置いた。

 

あの四枚目。

 

私は写真を見た。

 

白黒で、粒子が粗かった。

 

男は、正面を向いていた。

 

年齢は三十二歳だと聞いた。

 

その年齢には、見えなかった。

 

もっと若く見えた。

 

あるいは——年齢不詳、という方が正確だった。

 

どこかで見たことがある顔だと思った。

 

どこで見たかは、思い出せなかった。

 

 

「この男の名前は、記録に残っていない」

 

桐生は言った。

 

「被害者台帳から抜けていた。俺が引き継いだとき、すでに抜けていた。だから俺の担当記録にも名前がない」

 

「名前のない被害者が、俺に似ている」

 

 

私は何も言わなかった。

 

写真の男の目が、こちらを向いているように、見えた。

 

 

────────────────

 

 

「俺が昨夜の電話で蝋燭の件を言い当てたのは、なぜかわかるか」

 

桐生が言った。

 

私は首を横に振った。

 

「俺にも、わからん。ただ、知っていた」

 

桐生は手帳を閉じた。

 

「あんたの蝋燭が一本、消えていないことを」

 

 

しばらく、どちらも黙っていた。

 

窓の外で、風が鳴った。

 

 

「記録してくれ。それだけ頼む」

 

桐生は立ち上がった。

 

「俺は調べ続ける。消えてしまう前に」

 

 

扉が、閉まった。

 

 

────────────────

 

 

私は、桐生の話を、記録した。

 

三十六本目の蝋燭を、消した。

 

煙が、まっすぐ、上がった。

 

 

棚を確認した。

 

三十六本。

 

並んでいた。

 

今夜は、数が合っていた。

 

 

────────────────

 

 

消えてしまう前に、と桐生は言った。

 

二十五年前の被害者も、同じことを思ったのかどうか——

 

私には、わからない。

 

わからないまま、私は、記録を閉じた。





【次回予告】
百物語 第三十七話:観測者を観測する者【観測者】

自分の記録ノートの余白に、別の筆跡で——批評が書かれていた。
「気づくのが、遅い」
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