継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

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これは私が記録した、四本目の違和感である。

ある男が私の前に現れ、「鏡の中の自分が、自分と違う動きをする」と訴えた。最初は瞬きのタイミングが合わないだけだった——だが、やがて鏡の中の男は、彼に何かを伝えようとし始めた。

私は彼の話を、そのまま記録する。


第四話:鏡の中の訪問者

最初に気づいたのは、朝だった。

洗面台の前に立ち、歯を磨いていた。蛇口から出る水の冷たさ、歯磨き粉の清涼感、鏡に薄く残った湯気。いつもと変わらない朝の風景。

口をゆすぎ、タオルで顔を拭う。

そして、鏡を見た。

自分の顔がある。いつもの自分だ。

だが——瞬きが、合わなかった。

彼が瞬きをした瞬間、鏡の中の自分が、ほんの0.1秒遅れて瞬きをした。

「……気のせいか」

もう一度、意識して瞬きをする。

やはり、わずかに遅れる。

そのコンマ一瞬のズレが、背筋に冷たいものを走らせた。

彼は鏡に顔を近づけ、自分の目を見つめた。鏡の中もこちらを見つめ返している。

右手を上げた。

鏡の中の自分が、0.1秒遅れて右手を上げた。

「おかしい」

鏡は光の反射だ。遅延などあり得ない。物理的に不可能なはずだった。

彼は洗面台を離れ、リビングに戻ってテレビをつけた。ニュースキャスターの声が部屋を満たす。

「疲れてるんだな」

そう自分に言い聞かせ、出勤の準備を始めた。

────────────────

会社のトイレで、もう一度鏡の前に立った。

昼休みだった。同僚たちの笑い声が廊下から聞こえてくる。蛍光灯の白い光が鏡を均一に照らしている。

右手を上げてみた。

鏡の中の自分が、同時に右手を上げた。

ホッとした。朝のは寝起きの錯覚だったのだ。

手を洗い、水を止めてペーパータオルで拭く。

ふと顔を上げると——鏡の中の自分が、まだ手を洗っていた。

蛇口は止まっているのに、鏡の中の男は流れていない水の下に手をかざし続けている。

「……は?」

鏡の中の自分が、ゆっくりと顔を上げた。

目が合った。

その表情は、安堵しているように見えた。

ようやく気づいてくれた、とでも言うように。

彼は鏡から目を逸らし、トイレを飛び出した。

────────────────

その夜、風呂上がりに洗面台の前に立った。

パジャマに着替え、歯を磨こうとして——鏡を見ることを一瞬躊躇した。

馬鹿馬鹿しい。鏡はただの反射だ。

彼は鏡を見た。

右手を上げる。同時。

左手を振る。同時。

瞬きをする。同時。

完璧に同期している。

安堵のため息をついた瞬間——

鏡の中の自分が、首を傾げた。

彼は首を傾げていない。

「……え?」

鏡の中の男が、ゆっくりと口を開いた。

唇が動く。音はない。だが、確かに言葉を形作っていた。

最初は左右の反転で読めなかった。

何度も繰り返されるうちに、頭が無意識に補正を始めた。

は——や——く——

も——ど——っ——て——き——て——

「早く……戻ってきて?」

鏡の中の男は唇を閉じ、静かに目を伏せた。

こちらの動きとは、無関係に。

────────────────

その夜、彼は眠れなかった。

ベッドに横たわり、天井を見つめながら、あの言葉が頭から離れなかった。

鏡の中の自分が、自分に向かって「戻ってきて」と言った。

では、どちらが「ここ」にいるのか。

深夜2時、彼は起き上がり、洗面台へ向かった。

蛍光灯を点け、鏡を見る。

完全に同期していた。

首を振れば、鏡も同時に首を振る。

「気のせいだ」

声に出すと、鏡の中の唇も同時に動いた。

蛍光灯を消した。

暗闇の中で、廊下の常夜灯が鏡にわずかに反射している。

そのぼんやりした光の中、自分の輪郭が——ほんの少しだけ、独立して揺れた。

彼が動いていないのに。

────────────────

翌朝、彼は鏡にタオルを掛けた。

歯は台所の流しで磨き、顔もそこで洗った。姿見の前を通るときは目を逸らした。

同僚に「顔色悪いな」と言われ、「鏡見てないのか?」と聞かれた。

「見ていない」と答えた。

なぜ見ないのか、とは聞かれなかった。

帰宅後、リビングに座り、テレビもスマホも触らず、ただじっとしていた。

ふと気づく。

消えたテレビの黒い画面に、自分の姿がうっすら映っている。

その映り込みの中で——自分の口が、動いていた。

彼が何も言っていないのに。

彼は立ち上がり、玄関へ向かった。

夜の道を歩く。ビルの窓ガラスも、コンビニのガラスも、すべてから目を逸らした。

だが、視界の端で、ガラスの中の自分が、こちらに向かって手を伸ばしたような気がした。

────────────────

三日目の朝、彼は覚悟を決めてタオルを外した。

鏡を見る。

隈が濃くなり、頰がこけていた。たった三日でここまで変わるのか。

鏡の中の自分も、同じ疲れた顔をしていた。

右手を上げる。同時。

左手を振る。同時。

瞬き。同時。

何も起きない。

彼は苦笑した。「やっぱり気のせいか——」

その瞬間、鏡の中の自分が、ゆっくりと泣き始めた。

彼はまだ苦笑を浮かべたままだった。

なのに鏡の中だけが、目尻から大粒の涙を零し、頰を伝わせている。

同じ姿勢で。右手を上げたまま。

声のない嗚咽が、鏡の表面を震わせているようにさえ見えた。

彼は鏡に手を触れた。冷たいガラスの感触だけ。

鏡の中の唇が、もう一度動いた。

今度ははっきりと読めた。

「早く戻ってきて」

そして、もう一言。

「もう時間がない」

彼は慌ててタオルを掛け直した。

その日から、彼は二度と鏡を見ていない。

────────────────

記録を終えると、私は四本目の蝋燭を吹き消した。

彼のその後を、私は知らない。

ただ、ひとつだけ気になることがある。

彼がこの話をした翌日から、出勤しなくなった。連絡もつかず、同僚も家族も行方を知らないという。

半月後、彼のSNSに更新があった。

写真はなく、テキストだけの投稿。内容は日常的なものだった。天気のこと、食事のこと、散歩したこと。

だが——文体が明らかに違っていた。

句読点の打ち方、改行の癖、言葉の選び方。

まるで、鏡の中の男が、ようやく外の世界で文章を書いているかのように読めた。

……いや。

「彼」ではない誰かが、「彼」として生きているようだった。

残りは九十六本。

私は次の違和感を、静かに待つことにした。




読了ありがとうございました。

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【次回予告】
百物語 第五話:二つ目の鍵穴
次回土曜 23:00 投稿予定
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