継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「鏡の中の自分が、自分と違う動きをする」と訴えた。最初は瞬きのタイミングが合わないだけだった——だが、やがて鏡の中の男は、彼に何かを伝えようとし始めた。
私は彼の話を、そのまま記録する。
最初に気づいたのは、朝だった。
洗面台の前に立ち、歯を磨いていた。蛇口から出る水の冷たさ、歯磨き粉の清涼感、鏡に薄く残った湯気。いつもと変わらない朝の風景。
口をゆすぎ、タオルで顔を拭う。
そして、鏡を見た。
自分の顔がある。いつもの自分だ。
だが——瞬きが、合わなかった。
彼が瞬きをした瞬間、鏡の中の自分が、ほんの0.1秒遅れて瞬きをした。
「……気のせいか」
もう一度、意識して瞬きをする。
やはり、わずかに遅れる。
そのコンマ一瞬のズレが、背筋に冷たいものを走らせた。
彼は鏡に顔を近づけ、自分の目を見つめた。鏡の中もこちらを見つめ返している。
右手を上げた。
鏡の中の自分が、0.1秒遅れて右手を上げた。
「おかしい」
鏡は光の反射だ。遅延などあり得ない。物理的に不可能なはずだった。
彼は洗面台を離れ、リビングに戻ってテレビをつけた。ニュースキャスターの声が部屋を満たす。
「疲れてるんだな」
そう自分に言い聞かせ、出勤の準備を始めた。
────────────────
会社のトイレで、もう一度鏡の前に立った。
昼休みだった。同僚たちの笑い声が廊下から聞こえてくる。蛍光灯の白い光が鏡を均一に照らしている。
右手を上げてみた。
鏡の中の自分が、同時に右手を上げた。
ホッとした。朝のは寝起きの錯覚だったのだ。
手を洗い、水を止めてペーパータオルで拭く。
ふと顔を上げると——鏡の中の自分が、まだ手を洗っていた。
蛇口は止まっているのに、鏡の中の男は流れていない水の下に手をかざし続けている。
「……は?」
鏡の中の自分が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
その表情は、安堵しているように見えた。
ようやく気づいてくれた、とでも言うように。
彼は鏡から目を逸らし、トイレを飛び出した。
────────────────
その夜、風呂上がりに洗面台の前に立った。
パジャマに着替え、歯を磨こうとして——鏡を見ることを一瞬躊躇した。
馬鹿馬鹿しい。鏡はただの反射だ。
彼は鏡を見た。
右手を上げる。同時。
左手を振る。同時。
瞬きをする。同時。
完璧に同期している。
安堵のため息をついた瞬間——
鏡の中の自分が、首を傾げた。
彼は首を傾げていない。
「……え?」
鏡の中の男が、ゆっくりと口を開いた。
唇が動く。音はない。だが、確かに言葉を形作っていた。
最初は左右の反転で読めなかった。
何度も繰り返されるうちに、頭が無意識に補正を始めた。
は——や——く——
も——ど——っ——て——き——て——
「早く……戻ってきて?」
鏡の中の男は唇を閉じ、静かに目を伏せた。
こちらの動きとは、無関係に。
────────────────
その夜、彼は眠れなかった。
ベッドに横たわり、天井を見つめながら、あの言葉が頭から離れなかった。
鏡の中の自分が、自分に向かって「戻ってきて」と言った。
では、どちらが「ここ」にいるのか。
深夜2時、彼は起き上がり、洗面台へ向かった。
蛍光灯を点け、鏡を見る。
完全に同期していた。
首を振れば、鏡も同時に首を振る。
「気のせいだ」
声に出すと、鏡の中の唇も同時に動いた。
蛍光灯を消した。
暗闇の中で、廊下の常夜灯が鏡にわずかに反射している。
そのぼんやりした光の中、自分の輪郭が——ほんの少しだけ、独立して揺れた。
彼が動いていないのに。
────────────────
翌朝、彼は鏡にタオルを掛けた。
歯は台所の流しで磨き、顔もそこで洗った。姿見の前を通るときは目を逸らした。
同僚に「顔色悪いな」と言われ、「鏡見てないのか?」と聞かれた。
「見ていない」と答えた。
なぜ見ないのか、とは聞かれなかった。
帰宅後、リビングに座り、テレビもスマホも触らず、ただじっとしていた。
ふと気づく。
消えたテレビの黒い画面に、自分の姿がうっすら映っている。
その映り込みの中で——自分の口が、動いていた。
彼が何も言っていないのに。
彼は立ち上がり、玄関へ向かった。
夜の道を歩く。ビルの窓ガラスも、コンビニのガラスも、すべてから目を逸らした。
だが、視界の端で、ガラスの中の自分が、こちらに向かって手を伸ばしたような気がした。
────────────────
三日目の朝、彼は覚悟を決めてタオルを外した。
鏡を見る。
隈が濃くなり、頰がこけていた。たった三日でここまで変わるのか。
鏡の中の自分も、同じ疲れた顔をしていた。
右手を上げる。同時。
左手を振る。同時。
瞬き。同時。
何も起きない。
彼は苦笑した。「やっぱり気のせいか——」
その瞬間、鏡の中の自分が、ゆっくりと泣き始めた。
彼はまだ苦笑を浮かべたままだった。
なのに鏡の中だけが、目尻から大粒の涙を零し、頰を伝わせている。
同じ姿勢で。右手を上げたまま。
声のない嗚咽が、鏡の表面を震わせているようにさえ見えた。
彼は鏡に手を触れた。冷たいガラスの感触だけ。
鏡の中の唇が、もう一度動いた。
今度ははっきりと読めた。
「早く戻ってきて」
そして、もう一言。
「もう時間がない」
彼は慌ててタオルを掛け直した。
その日から、彼は二度と鏡を見ていない。
────────────────
記録を終えると、私は四本目の蝋燭を吹き消した。
彼のその後を、私は知らない。
ただ、ひとつだけ気になることがある。
彼がこの話をした翌日から、出勤しなくなった。連絡もつかず、同僚も家族も行方を知らないという。
半月後、彼のSNSに更新があった。
写真はなく、テキストだけの投稿。内容は日常的なものだった。天気のこと、食事のこと、散歩したこと。
だが——文体が明らかに違っていた。
句読点の打ち方、改行の癖、言葉の選び方。
まるで、鏡の中の男が、ようやく外の世界で文章を書いているかのように読めた。
……いや。
「彼」ではない誰かが、「彼」として生きているようだった。
残りは九十六本。
私は次の違和感を、静かに待つことにした。
読了ありがとうございました。
この話を読んで、
何か感じたこと、気づいたことがあれば、
評価・ブックマーク・コメントで教えてください。
あなたの反応が、次の怪談を生み出す糧になります。
【次回予告】
百物語 第五話:二つ目の鍵穴
次回土曜 23:00 投稿予定