継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
四十二本目は、私自身に、起きた。
朝の記録整理は、いつもと同じだった。
四十一話分のノートを並べ、誤字を確認し、年表に書き加える。
窓の外は、曇っていた。
机の端で、コーヒーが、半分、冷めていた。
ペンの音と、紙をめくる音だけがあった。
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千尋の話を、清書していた。
「02:17:33」という数字を、三回、書き写した。
書き写すたびに、同じ数字が、同じ位置に並んだ。
それだけのことだった。
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ふと、匂いが、した。
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私は、部屋を、見回した。
机。本棚。蝋燭立て。
消毒液は、どこにもない。
病院に行ったのは、何年も前だ。
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本に没頭したとき、自分がその場所にいるような気がすることがある。
それと、同じだろうと、思った。
病院の話を書けば、頭が、匂いを、勝手に再現することもあるだろう。
そう、結論づけた。
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ペンを、また、動かした。
匂いは、消えなかった。
千尋の話を書き終えるまで、消えなかった。
念のため、ノートの端に、メモを残した。
「消毒液の匂い。原因不明」
それだけ、書いた。
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夜になって、私は、目を閉じた。
少し、休もうと、思っただけだった。
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そこに、鏡が、あった。
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縦長の、鏡。
洗面台の横にある、病室の、鏡。
四〇四号室の、鏡だと、すぐに、分かった。
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由香の話を聞いたとき、私は、その光景を、想像した。
これは、想像とは、違った。
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私は、その部屋に、立っていた。
カーテンの隙間から、廊下の光が、入っていた。
消灯された、部屋の、暗さ。
足の裏に、リノリウムの、冷たさ。
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鏡の中に、自分が、映っていた。
白衣ではなかった。
いつもの、黒いシャツだった。
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自分の、隣に。
もう一つの、輪郭が、あった。
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男だった。
背の高い、男。
由香が言っていた、輪郭の高さの、通りだった。
ただ、由香は、輪郭の高さしか、話していなかった。
私は、その男の、顔を、見ていた。
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面長で、目のまわりに、深い、皺があった。
口が、動いた。
「
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男は、私を、見ていた。
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目を、開けた。
机の上だった。
ペンを、握ったままだった。
時計を見ると、四十分、経っていた。
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四十分。
由香が、四〇四号室で、鏡の前にいた時間と、同じだった。
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ノートを、見た。
千尋の話の続きの、ページが、開いていた。
四十分間、何も、書かれていなかった。
ペンを、握ったまま、何も、書いていなかった。
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私は、由香に、電話を、かけた。
「すみません、夜分に」
「大丈夫です」
由香は、すぐに、出た。
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「四〇四号室の、鏡について、確認したいことが、あります」
「はい」
「鏡の、左下の角に——ヒビが、ありませんか。小さい、星形の」
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電話の向こうで、しばらく、沈黙があった。
「……どうして、それを」
由香の声が、わずかに、掠れた。
「誰にも、言っていません。あの、ヒビのことは」
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「もう一つ、いいですか」
「……はい」
「鏡の、枠は——木製ですか。それとも、金属」
「木製です。古い、木の枠です」
由香は、少し、間を置いて、答えた。
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「すみません。少し、確認したかっただけです」
私は、それだけ、言った。
由香は、何か、訊きたそうにしていたが、訊かなかった。
「また、お話を、聞かせてください」
そう言って、電話を、切った。
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電話を切った後、私は、しばらく、動けなかった。
ヒビのことは、由香の話には、なかった。
私の記録にも、書いていなかった。
なのに、私は、それを、見た。
由香の話として、ではなく。
自分の、目で。
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これは、聞いた話の、記憶ではない。
私が、その場所に、立っていた、記憶だ。
由香の記憶と、自分の記憶が、一枚の印画紙に二重に焼かれた写真のように、境界を失っていた。
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私は、四十二本目の蝋燭に、火を、つけた。
棚の、左の端の、一本目の炎が。
一瞬、右に、揺れた。
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三十八話から、五話、連続だった。
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今日は、もう一つ、あった。
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午後、
再生ボタンを、押した。
「親友が、失踪した日の朝」という、美咲の話だった。
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聞いているうち、いつのまにか。
私は、それを、聞いているのではなく。
その朝の、部屋に、いた。
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カーテンの、色。
開けっぱなしの、衣装ケース。
親友が、最後に、座っていた、椅子。
全部、覚えている。
聞いた、覚えはない。
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その記憶の中に。
鏡があった。
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部屋の、隅の、姿見。
そこに、誰かが、映っていた。
親友ではなかった。
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私の、顔だった。
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黒いシャツを、着ていた。
今、私が、着ているのと、同じものだった。
七年前の、はずの、その部屋で。
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音声は、まだ、流れていた。
美咲の声が、何かを、説明していた。
聞こえては、いたが、意味が、繋がらなかった。
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ふと、レコーダーの表示を、見た。
再生時間が、〇〇:〇七:四二で、止まっていた。
何度、確認しても、進まなかった。
音声だけが、表示の止まった時間の、先を、流れ続けていた。
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私は、まだ、その朝の部屋に、行ったことがない。
美咲に、訊いたこともない。
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これは、誰の、記憶なのか。
答えは、まだ、出ない。
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残り、五十八本。
【次回予告】
百物語 第四十三話:消える取材対象
取材した人が、記録から消えていた。
SNS、連絡先、録音ファイルの中の声——
最初から、いなかったかのように。