継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~   作:yami_craft

5 / 23
これは私が記録した、五本目の違和感である。

ある男が私の前に現れ、「自宅のドアに知らない鍵穴が増えている」と訴えた。毎日帰る家、毎日触れるドアノブ——その隣に、昨日までなかったはずのものがある。

私は彼の話を、そのまま記録する。


第五話:二つ目の鍵穴

その夜は残業だった。

 

終電の一本前、午後11時28分の電車に乗り、最寄り駅で降りた。改札を出ると、三月の冷えた空気が首筋を撫でた。コンビニに寄り、弁当と缶コーヒーを買う。レジ袋の重さが腕に食い込む。いつもと変わらない、水曜日の帰り道。

 

マンションのエントランスをオートロックで開け、エレベーターに乗る。五階のボタンを押す。扉が閉まる。鏡張りの壁に映った自分の顔は、疲れていた。

 

五階に着き、廊下を歩く。自分の部屋は503号室。コンビニ袋を左手に持ち替え、右手でポケットから鍵を取り出す。

 

何百回と繰り返してきた動作だ。

 

鍵穴に鍵を差し込もうとして——指先が、止まった。

 

鍵穴の5センチ下に、もう一つの鍵穴があった。

 

 

────────────────

 

 

彼は最初、見間違いだと思った。

 

疲れている。残業が続いている。目がかすんでいるのだ。

 

顔を近づけた。

 

廊下の蛍光灯は、夜間は一本おきに消えている。薄暗い光の中、目を凝らした。

 

金属の鍵穴だった。

 

元からある鍵穴と同じ、シリンダー錠の丸い穴。ただし、真鍮の縁取りの色合いがわずかに違う。元の鍵穴が経年で少しくすんでいるのに対し、新しい方は磨いたばかりのように光っていた。

 

指で触れた。

 

冷たかった。

 

三月の夜の廊下は確かに冷えている。だが、元の鍵穴に触れたときとは明らかに違う冷たさだった。元の鍵穴が「金属が外気に冷やされた」冷たさだとすれば、新しい鍵穴は——もっと奥から、何かが放射しているような冷たさだった。

 

「何だ、これ」

 

声に出すと、廊下に反響した。

 

隣の504号室のドアを見る。鍵穴は一つだけだ。

 

反対隣の502号室も、一つ。

 

503号室だけが、二つの鍵穴を持っていた。

 

 

────────────────

 

 

彼はまず、管理会社に電話をした。

 

深夜だったので留守番電話になった。「503号室の住人です。玄関ドアの鍵穴が増えているのですが、工事か何かされましたか。折り返しをお願いします」

 

メッセージを残し、元の鍵穴に鍵を差し込んで部屋に入った。

 

靴を脱ぐ。電気をつける。いつもの部屋だ。

 

リビングに弁当を置き、すぐに玄関へ戻った。

 

ドアの内側を見る。

 

内側にも、鍵穴が増えていた。

 

サムターン——つまみ式のロック——の隣に、外側と同じ位置関係で、もう一つのサムターンがついていた。

 

彼は新しいサムターンに手を伸ばした。

 

回した。

 

カチリ、と小さな音がした。

 

何かが開錠された感触があった。だが、ドアはすでに開いている。元の鍵で開けて入ったのだから。

 

では、今の開錠音は——何を開けたのか。

 

部屋の中を見回した。

 

何も変わっていない。キッチン、リビング、寝室への廊下。すべていつも通りだ。

 

もう一度サムターンを回し、施錠の位置に戻した。

 

弁当を食べ、シャワーを浴び、寝た。

 

夢は見なかった。

 

 

────────────────

 

 

翌朝、管理会社から折り返しがあった。

 

「鍵穴の追加工事は行っておりません」

 

「では、あの二つ目の鍵穴は何ですか」

 

電話の向こうで、担当者が少し黙った。

 

「503号室のドアは、入居時の写真が残っています。鍵穴は一つです。二つ目の鍵穴というのは……こちらでは対応しかねますので、確認に伺います」

 

その日の午後、管理会社の担当者が来た。

 

四十代の男性で、バインダーを持っていた。入居時のドア写真を見せながら、実際のドアと見比べた。

 

「……確かに、増えていますね」

 

担当者は二つ目の鍵穴に顔を近づけ、懐中電灯で照らした。

 

「施工の痕跡がないんですよ。ドリルで穴を開ければ、周囲に傷がつくはずなんですが」

 

「じゃあ、どうやって増えたんですか」

 

担当者はバインダーをめくり、何かを確認し、それから彼の顔を見た。

 

「ちょっと確認なんですが、503号室に入居されたのは三年前ですよね」

 

「はい」

 

「入居時に鍵は何本お渡ししましたか」

 

「二本です。一本は自分で持っていて、もう一本は実家に預けてあります」

 

「その二本以外に、鍵をお持ちではないですか」

 

「持っていません」

 

担当者は頷いた。「分かりました。ドアの交換を手配します。少しお時間をいただきますが」

 

彼は礼を言って担当者を見送った。

 

ドアを閉め、鍵をかけ、新しいサムターンも施錠した。

 

それで安心できるはずだった。

 

 

────────────────

 

 

だが、安心できなかった理由がある。

 

担当者が帰った後、彼は通勤カバンの中を整理していた。

 

底の方に、見覚えのない鍵が一本入っていた。

 

元から持っている部屋の鍵とは形が違う。やや小ぶりで、真鍮の色が新しい。ドアの二つ目の鍵穴と、同じ光り方をしていた。

 

鍵には小さなキーホルダーがついていた。

 

革製の、安価なタグ。裏返すと、ボールペンで文字が書かれていた。

 

彼の字だった。

 

自分の筆跡だということは、一目で分かった。右上がりの癖、「は」の結びの形。大学時代からのレポート、職場の付箋、あらゆる場面で書いてきた、間違いなく自分の字。

 

だが、書いた記憶がない。

 

文字は、一言だけだった。

 

「出口」

 

彼はしばらくその二文字を見つめていた。

 

出口。

 

何の出口なのか。

 

どこからの出口なのか。

 

鍵をテーブルに置いた。

 

二つ目の鍵穴のことを思い出した。あの新しい鍵穴に、この鍵は合うのだろうか。

 

試してみればいい。

 

ただ、それだけのことだ。

 

だが、彼の手は動かなかった。

 

 

────────────────

 

 

三日間、鍵はテーブルの上に置かれたままだった。

 

仕事に行き、帰ってくる。鍵を見る。触らない。また朝が来る。

 

三日目の夜、帰宅すると部屋の空気が微かに違っていた。

 

換気扇は止まっている。窓も閉まっている。だが、空気が動いた形跡があった。

 

風ではない。もっと局所的な、何かが移動した後に残る空気の乱れ。

 

リビングを見回す。

 

テーブルの上の鍵が、3センチほど動いていた。

 

朝、出かけるときの位置を覚えていた。リモコンの横、コースターの右斜め上。帰宅したら、コースターの上に乗っていた。

 

地震か。

 

スマホで確認する。今日、この地域に地震は記録されていない。

 

鍵を持ち上げた。

 

裏返す。

 

「出口」の文字の下に、新しい一行が書き加えられていた。

 

同じ筆跡。同じボールペン。

 

「早く」

 

 

────────────────

 

 

その夜、彼は鍵を持って玄関に立った。

 

午前1時だった。

 

ドアの二つ目の鍵穴が、廊下の常夜灯を反射してぼんやり光っている。

 

鍵を差し込んだ。

 

ぴたり、と嵌まった。

 

回した。

 

カチリ。

 

開錠の感触。

 

ドアを開ける。

 

廊下だった。いつもの五階の廊下。蛍光灯が一本おきに消えた、薄暗い空間。

 

何も変わっていない——と、最初は思った。

 

だが、違っていた。

 

空気が、違った。

 

三月の冷気ではない。季節のない、温度のない空気だった。暖かくも冷たくもない。湿度も感じない。ただそこにある、という以外の性質を一切持たない空気。

 

廊下の壁を見る。

 

同じクリーム色の壁紙。同じ蛍光灯。同じ非常口の表示。

 

だが、隣の504号室の表札がなかった。

 

502号室の表札もなかった。

 

振り返る。

 

自分の部屋のドアを見る。503号室。表札はある。自分の名前がある。

 

だが——鍵穴が一つしかなかった。

 

元からあった鍵穴だけ。二つ目の鍵穴が、消えていた。

 

彼は慌ててドアを押した。開かない。鍵がかかっている。

 

ポケットから元の鍵を出す。差し込む。回す。

 

開いた。

 

部屋に飛び込んだ。

 

自分の部屋だった。キッチン、リビング、寝室への廊下。テーブルの上のリモコン、コースター——

 

弁当の空き箱がなかった。

 

昨日食べたコンビニ弁当の空き箱を、ゴミ箱に捨てたはずだ。ゴミ箱を見る。空だった。

 

冷蔵庫を開ける。中身が違っていた。自分が買った覚えのない食材が並んでいる。キャベツ半玉、豆腐、味噌——自分は自炊をしない人間だ。

 

洗面台に行く。歯ブラシが、自分のものではなかった。色が違う。

 

だが、歯ブラシの毛先は使い込まれていた。誰かがこの部屋で、この歯ブラシを毎日使っている。

 

彼は玄関に戻った。

 

ドアを開け、廊下に出る。

 

504号室のドアの前に立つ。表札はない。ドアノブを掴む。

 

鍵がかかっていなかった。

 

開いた先は、空の部屋だった。

 

家具がない。カーテンもない。窓から外を見る。

 

見慣れた街並みだった。だが——街灯が一つも点いていなかった。マンションの駐車場に車が一台もなかった。向かいのアパートの窓に、明かりが一つも灯っていなかった。

 

誰も、いなかった。

 

 

────────────────

 

 

彼は503号室に戻り、ドアを閉め、鍵をかけた。

 

二つ目の鍵穴はない。帰る手段がない。

 

テーブルの上を見た。

 

自分がこちら側に置いたはずの鍵が、そこにあった。

 

持ってきた覚えはない。ポケットにも入れていなかった。なのに、テーブルの上にある。

 

キーホルダーの革タグを裏返した。

 

「出口」の文字。「早く」の文字。

 

その下に、三行目が書き加えられていた。

 

「こちらが本物」

 

同じ筆跡。自分の字。

 

彼はしばらく立ち尽くしていた。

 

やがて、鍵を持ち、玄関へ向かった。

 

ドアの、一つしかない鍵穴に——二つ目の鍵を差し込んでみた。

 

入らなかった。

 

形が合わない。

 

当然だ。この鍵穴には、元の鍵しか合わない。

 

では、この鍵は何のための鍵なのか。

 

彼は部屋の中を歩き回った。キッチンの引き出し、洗面台の下、クローゼット——鍵穴のあるものを片端から探した。

 

見つからなかった。

 

午前3時を回った頃、寝室の壁に手をついたとき、指先に小さな違和感があった。

 

壁紙の下に、わずかな凹凸。

 

爪で壁紙を剥がした。

 

壁の中に、鍵穴があった。

 

迷いはなかった。

 

鍵を差し込んだ。回した。

 

カチリ。

 

 

────────────────

 

 

翌朝、彼は自分のベッドで目を覚ました。

 

いつもの部屋だった。コンビニ弁当の空き箱はゴミ箱にあった。冷蔵庫に自炊用の食材はなかった。歯ブラシは自分の色だった。

 

玄関のドアを見に行った。

 

鍵穴は——二つあった。

 

テーブルの上に、二つ目の鍵があった。

 

キーホルダーの革タグを裏返す。

 

「出口」

 

「早く」

 

「こちらが本物」

 

三行とも、そこにあった。

 

彼はその鍵をカバンの底にしまった。

 

会社に行き、仕事をし、残業をし、帰ってきた。いつもと変わらない一日だった。

 

ただ、一つだけ違ったことがある。

 

帰宅してドアの前に立ったとき、どちらの鍵穴に鍵を差し込むべきか、一瞬だけ迷った。

 

ほんの一瞬。

 

だが、その一瞬の迷いの中に——昨夜見た、誰もいない街の暗闇が、ちらりと見えた気がした。

 

 

────────────────

 

 

記録を終えると、私は五本目の蝋燭を消した。

 

彼はその後も、毎晩二つの鍵穴の前で立ち止まるという。

 

どちらが「正しい」鍵穴なのか。どちらが「本物の」自分の部屋に繋がっているのか。

 

日を追うごとに、その迷いは長くなっている。

 

気になるのは、彼が話の最後にこう言ったことだ。

 

「最近、向こうの部屋の冷蔵庫に、自分が買った覚えのある食材が入っていた。こちら側では買っていないのに」

 

どちらの自分が、どちらの部屋で暮らしているのか。

 

その境界は、少しずつ曖昧になっている。

 

残りは九十五本。

 

私は次の違和感を、待つことにした。

 




この話を読んだ後、
家の鍵を差し込む瞬間に
ほんの少しだけ迷ってしまったなら——
それがこの怪談の成功です。

もし何か感じたことがあれば、
いいね・ブックマーク・コメントで
教えていただけると嬉しいです。

────────────────

次回:第六話「繰り返す火曜日」
次の水曜 20:00投稿予定
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。