継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
ある男が私の前に現れ、「自宅のドアに知らない鍵穴が増えている」と訴えた。毎日帰る家、毎日触れるドアノブ——その隣に、昨日までなかったはずのものがある。
私は彼の話を、そのまま記録する。
その夜は残業だった。
終電の一本前、午後11時28分の電車に乗り、最寄り駅で降りた。改札を出ると、三月の冷えた空気が首筋を撫でた。コンビニに寄り、弁当と缶コーヒーを買う。レジ袋の重さが腕に食い込む。いつもと変わらない、水曜日の帰り道。
マンションのエントランスをオートロックで開け、エレベーターに乗る。五階のボタンを押す。扉が閉まる。鏡張りの壁に映った自分の顔は、疲れていた。
五階に着き、廊下を歩く。自分の部屋は503号室。コンビニ袋を左手に持ち替え、右手でポケットから鍵を取り出す。
何百回と繰り返してきた動作だ。
鍵穴に鍵を差し込もうとして——指先が、止まった。
鍵穴の5センチ下に、もう一つの鍵穴があった。
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彼は最初、見間違いだと思った。
疲れている。残業が続いている。目がかすんでいるのだ。
顔を近づけた。
廊下の蛍光灯は、夜間は一本おきに消えている。薄暗い光の中、目を凝らした。
金属の鍵穴だった。
元からある鍵穴と同じ、シリンダー錠の丸い穴。ただし、真鍮の縁取りの色合いがわずかに違う。元の鍵穴が経年で少しくすんでいるのに対し、新しい方は磨いたばかりのように光っていた。
指で触れた。
冷たかった。
三月の夜の廊下は確かに冷えている。だが、元の鍵穴に触れたときとは明らかに違う冷たさだった。元の鍵穴が「金属が外気に冷やされた」冷たさだとすれば、新しい鍵穴は——もっと奥から、何かが放射しているような冷たさだった。
「何だ、これ」
声に出すと、廊下に反響した。
隣の504号室のドアを見る。鍵穴は一つだけだ。
反対隣の502号室も、一つ。
503号室だけが、二つの鍵穴を持っていた。
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彼はまず、管理会社に電話をした。
深夜だったので留守番電話になった。「503号室の住人です。玄関ドアの鍵穴が増えているのですが、工事か何かされましたか。折り返しをお願いします」
メッセージを残し、元の鍵穴に鍵を差し込んで部屋に入った。
靴を脱ぐ。電気をつける。いつもの部屋だ。
リビングに弁当を置き、すぐに玄関へ戻った。
ドアの内側を見る。
内側にも、鍵穴が増えていた。
サムターン——つまみ式のロック——の隣に、外側と同じ位置関係で、もう一つのサムターンがついていた。
彼は新しいサムターンに手を伸ばした。
回した。
カチリ、と小さな音がした。
何かが開錠された感触があった。だが、ドアはすでに開いている。元の鍵で開けて入ったのだから。
では、今の開錠音は——何を開けたのか。
部屋の中を見回した。
何も変わっていない。キッチン、リビング、寝室への廊下。すべていつも通りだ。
もう一度サムターンを回し、施錠の位置に戻した。
弁当を食べ、シャワーを浴び、寝た。
夢は見なかった。
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翌朝、管理会社から折り返しがあった。
「鍵穴の追加工事は行っておりません」
「では、あの二つ目の鍵穴は何ですか」
電話の向こうで、担当者が少し黙った。
「503号室のドアは、入居時の写真が残っています。鍵穴は一つです。二つ目の鍵穴というのは……こちらでは対応しかねますので、確認に伺います」
その日の午後、管理会社の担当者が来た。
四十代の男性で、バインダーを持っていた。入居時のドア写真を見せながら、実際のドアと見比べた。
「……確かに、増えていますね」
担当者は二つ目の鍵穴に顔を近づけ、懐中電灯で照らした。
「施工の痕跡がないんですよ。ドリルで穴を開ければ、周囲に傷がつくはずなんですが」
「じゃあ、どうやって増えたんですか」
担当者はバインダーをめくり、何かを確認し、それから彼の顔を見た。
「ちょっと確認なんですが、503号室に入居されたのは三年前ですよね」
「はい」
「入居時に鍵は何本お渡ししましたか」
「二本です。一本は自分で持っていて、もう一本は実家に預けてあります」
「その二本以外に、鍵をお持ちではないですか」
「持っていません」
担当者は頷いた。「分かりました。ドアの交換を手配します。少しお時間をいただきますが」
彼は礼を言って担当者を見送った。
ドアを閉め、鍵をかけ、新しいサムターンも施錠した。
それで安心できるはずだった。
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だが、安心できなかった理由がある。
担当者が帰った後、彼は通勤カバンの中を整理していた。
底の方に、見覚えのない鍵が一本入っていた。
元から持っている部屋の鍵とは形が違う。やや小ぶりで、真鍮の色が新しい。ドアの二つ目の鍵穴と、同じ光り方をしていた。
鍵には小さなキーホルダーがついていた。
革製の、安価なタグ。裏返すと、ボールペンで文字が書かれていた。
彼の字だった。
自分の筆跡だということは、一目で分かった。右上がりの癖、「は」の結びの形。大学時代からのレポート、職場の付箋、あらゆる場面で書いてきた、間違いなく自分の字。
だが、書いた記憶がない。
文字は、一言だけだった。
「出口」
彼はしばらくその二文字を見つめていた。
出口。
何の出口なのか。
どこからの出口なのか。
鍵をテーブルに置いた。
二つ目の鍵穴のことを思い出した。あの新しい鍵穴に、この鍵は合うのだろうか。
試してみればいい。
ただ、それだけのことだ。
だが、彼の手は動かなかった。
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三日間、鍵はテーブルの上に置かれたままだった。
仕事に行き、帰ってくる。鍵を見る。触らない。また朝が来る。
三日目の夜、帰宅すると部屋の空気が微かに違っていた。
換気扇は止まっている。窓も閉まっている。だが、空気が動いた形跡があった。
風ではない。もっと局所的な、何かが移動した後に残る空気の乱れ。
リビングを見回す。
テーブルの上の鍵が、3センチほど動いていた。
朝、出かけるときの位置を覚えていた。リモコンの横、コースターの右斜め上。帰宅したら、コースターの上に乗っていた。
地震か。
スマホで確認する。今日、この地域に地震は記録されていない。
鍵を持ち上げた。
裏返す。
「出口」の文字の下に、新しい一行が書き加えられていた。
同じ筆跡。同じボールペン。
「早く」
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その夜、彼は鍵を持って玄関に立った。
午前1時だった。
ドアの二つ目の鍵穴が、廊下の常夜灯を反射してぼんやり光っている。
鍵を差し込んだ。
ぴたり、と嵌まった。
回した。
カチリ。
開錠の感触。
ドアを開ける。
廊下だった。いつもの五階の廊下。蛍光灯が一本おきに消えた、薄暗い空間。
何も変わっていない——と、最初は思った。
だが、違っていた。
空気が、違った。
三月の冷気ではない。季節のない、温度のない空気だった。暖かくも冷たくもない。湿度も感じない。ただそこにある、という以外の性質を一切持たない空気。
廊下の壁を見る。
同じクリーム色の壁紙。同じ蛍光灯。同じ非常口の表示。
だが、隣の504号室の表札がなかった。
502号室の表札もなかった。
振り返る。
自分の部屋のドアを見る。503号室。表札はある。自分の名前がある。
だが——鍵穴が一つしかなかった。
元からあった鍵穴だけ。二つ目の鍵穴が、消えていた。
彼は慌ててドアを押した。開かない。鍵がかかっている。
ポケットから元の鍵を出す。差し込む。回す。
開いた。
部屋に飛び込んだ。
自分の部屋だった。キッチン、リビング、寝室への廊下。テーブルの上のリモコン、コースター——
弁当の空き箱がなかった。
昨日食べたコンビニ弁当の空き箱を、ゴミ箱に捨てたはずだ。ゴミ箱を見る。空だった。
冷蔵庫を開ける。中身が違っていた。自分が買った覚えのない食材が並んでいる。キャベツ半玉、豆腐、味噌——自分は自炊をしない人間だ。
洗面台に行く。歯ブラシが、自分のものではなかった。色が違う。
だが、歯ブラシの毛先は使い込まれていた。誰かがこの部屋で、この歯ブラシを毎日使っている。
彼は玄関に戻った。
ドアを開け、廊下に出る。
504号室のドアの前に立つ。表札はない。ドアノブを掴む。
鍵がかかっていなかった。
開いた先は、空の部屋だった。
家具がない。カーテンもない。窓から外を見る。
見慣れた街並みだった。だが——街灯が一つも点いていなかった。マンションの駐車場に車が一台もなかった。向かいのアパートの窓に、明かりが一つも灯っていなかった。
誰も、いなかった。
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彼は503号室に戻り、ドアを閉め、鍵をかけた。
二つ目の鍵穴はない。帰る手段がない。
テーブルの上を見た。
自分がこちら側に置いたはずの鍵が、そこにあった。
持ってきた覚えはない。ポケットにも入れていなかった。なのに、テーブルの上にある。
キーホルダーの革タグを裏返した。
「出口」の文字。「早く」の文字。
その下に、三行目が書き加えられていた。
「こちらが本物」
同じ筆跡。自分の字。
彼はしばらく立ち尽くしていた。
やがて、鍵を持ち、玄関へ向かった。
ドアの、一つしかない鍵穴に——二つ目の鍵を差し込んでみた。
入らなかった。
形が合わない。
当然だ。この鍵穴には、元の鍵しか合わない。
では、この鍵は何のための鍵なのか。
彼は部屋の中を歩き回った。キッチンの引き出し、洗面台の下、クローゼット——鍵穴のあるものを片端から探した。
見つからなかった。
午前3時を回った頃、寝室の壁に手をついたとき、指先に小さな違和感があった。
壁紙の下に、わずかな凹凸。
爪で壁紙を剥がした。
壁の中に、鍵穴があった。
迷いはなかった。
鍵を差し込んだ。回した。
カチリ。
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翌朝、彼は自分のベッドで目を覚ました。
いつもの部屋だった。コンビニ弁当の空き箱はゴミ箱にあった。冷蔵庫に自炊用の食材はなかった。歯ブラシは自分の色だった。
玄関のドアを見に行った。
鍵穴は——二つあった。
テーブルの上に、二つ目の鍵があった。
キーホルダーの革タグを裏返す。
「出口」
「早く」
「こちらが本物」
三行とも、そこにあった。
彼はその鍵をカバンの底にしまった。
会社に行き、仕事をし、残業をし、帰ってきた。いつもと変わらない一日だった。
ただ、一つだけ違ったことがある。
帰宅してドアの前に立ったとき、どちらの鍵穴に鍵を差し込むべきか、一瞬だけ迷った。
ほんの一瞬。
だが、その一瞬の迷いの中に——昨夜見た、誰もいない街の暗闇が、ちらりと見えた気がした。
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記録を終えると、私は五本目の蝋燭を消した。
彼はその後も、毎晩二つの鍵穴の前で立ち止まるという。
どちらが「正しい」鍵穴なのか。どちらが「本物の」自分の部屋に繋がっているのか。
日を追うごとに、その迷いは長くなっている。
気になるのは、彼が話の最後にこう言ったことだ。
「最近、向こうの部屋の冷蔵庫に、自分が買った覚えのある食材が入っていた。こちら側では買っていないのに」
どちらの自分が、どちらの部屋で暮らしているのか。
その境界は、少しずつ曖昧になっている。
残りは九十五本。
私は次の違和感を、待つことにした。
この話を読んだ後、
家の鍵を差し込む瞬間に
ほんの少しだけ迷ってしまったなら——
それがこの怪談の成功です。
もし何か感じたことがあれば、
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次回:第六話「繰り返す火曜日」
次の水曜 20:00投稿予定