継承される百の違和感 ~お前に渡す百物語~ 作:yami_craft
五十五本目は、いちばん古い、ノートの中に、あった。
午後だった。
日差しが、ノートの背表紙を、なぞっていた。
三十三話で見つけた、あの紙片のことを、また、考えていた。
「これは、 が、記録した、」
名前の場所だけ、切り取られていた紙片だ。
しまってある場所を、確かめに、棚へ、行った。
ついでに、古いものから、並べ直すことにした。
四十冊を、超えたあたりから、手が、止まらなくなった。
並べる、というより、確かめる、作業になっていた。
一冊目は、いちばん、奥に、あった。
埃を、払った。
革の表紙が、指に、馴染んでいた。
何度も、読み返した、はずの一冊だった。
数えきれないほど、開いてきた。
指で、めくった、はずだった。
なのに、綴じ目の、際まで、指を、当てたことは、なかった。
いつも、一行目から、読んで、そこで、満足していた。
開くと、一行目に、いつもの、文字が、あった。
「これは私が記録した、一本目の違和感である」
自分の、字だった。
いつ、これを、書き始めたのか。
思い出そうと、した。
その日の、天気を、思い出そうと、した。
部屋の、匂いを、思い出そうと、した。
きっかけが、あった、はずだった。
何かを、見たか。
誰かに、言われたか。
誰かと、一緒に、いたか。
その日、何を、着ていたか。
なぜノートを買ったのか。
なぜ革の表紙を、選んだのか。
一つも、出てこなかった。
一本目から、五十四本目までの、全ての違和感を、覚えている。
なのに、始めた日のことだけ、何も、なかった。
出てこないこと自体を、これまで、気にしていなかった。
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一行目の、上に、目を、やった。
余白しか、なかった。
いや——余白ではなかった。
ページの、綴じ目に、近い側が、他のページより、少し、狭かった。
指で、上端を、なぞった。
引っかかりが、あった。
紙の、ノドに沿って、何かが、剥がれた、感触だった。
何度も、読み返した、一冊のはずだった。
これまで、指で、確かめたことは、なかった。
爪の先で、押さえてみた。
段差が、あった。
一枚、めくった。
二ページ目は、普通に、あった。
一ページ目の、前に、何かが、あった痕跡だ。
閉じよう、と、指が、動きかけた。
いつもの、動きだった。
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今回は、閉じなかった。
指を、止めた。
止めた自分に、少し、驚いた。
デスクライトを、点けた。
ノートを、光に、翳した。
紙は、薄かった。
透かすと、切り口の、形が、見えた。
まっすぐでは、なかった。
刃物の、跡ではなかった。
刃物なら、線は、一続きに、なる。
これは、違った。
指で、破ったような、不揃いの、線だった。
破った、方向を、確かめた。
繊維が、ノドの側から、表側へ、めくれていた。
外から破れば、繊維は、逆に、めくれる。
外からでは、なかった。
内側から、破られていた。
三十三話の、紙片の、切り口を、思い出した。
あれも、繊維の、めくれ方が、同じ、向きだった。
このノートを、開いたまま、内側から、破れる場所に、いた者にしか、できない、破り方だった。
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切り口の、いちばん、綴じ目に近い、一片が、残っていた。
紙の、爪ほどの、大きさだった。
そこに、文字の、一部が、あった。
一行の、途中で、途切れていた。
「……だから、忘れろ」
デスクライトの、光の輪の外は、ただ、暗かった。
手の甲に、鳥肌が、立っていた。
寒くは、なかった。
しばらく、その一片から、目を、離せなかった。
自分の、字だった。
今日書く字と、比べた。
「れ」の、はねの角度が、同じだった。
「忘」の、上の払いも、同じだった。
違う日の、同じ手だった。
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忘れろ、と、書いた、自分がいた。
一本目より、前に、いた自分だ。
三十三話の紙片も、名前の場所だけ、内側から、切り取られていた。
同じ、破り方だった。
その自分が、何を、忘れさせようと、したのか。
一本目の前に、ゼロ本目が、あったのか。
デスクライトの、光の輪の中で、それだけを、考え続けた。
考えようとすると、頭の、同じ場所が、鈍く、痛んだ。
五十一日目の欄に書けなかったときと、同じ痛みだった。
ノートを、置こうと、しなかった。
これまでの、自分なら、ここで、閉じていた。
五十一本目は、書けなかった。
五十二本目は、閉じようと思う前に、閉じていた。
五十三本目は、書かない、と、自分で、選んだ。
今日は、違った。
紙片を、光に、翳したまま、しばらく、動かなかった。
痛みが、引くのを、待った。
五十五本まで、来て、初めて、始まりのほうを、疑った。
積み上げてきた、五十四本より、たった一枚の、切れ端のほうが、重かった。
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部屋は、静かだった。
五十五本目の蝋燭に、火を、つけた。
炎が、右に、揺れた。
十八話、連続だった。
一本目の蝋燭を、見た。
芯の長さは、他の蝋燭と、同じだった。
蝋だまりの、形だけが、他の、どの蝋燭とも、違っていた。
流れた跡が、途中で、一度、止まっていた。
いつからかは、分からなかった。
これまで、気にしたことも、なかった。
ノートに、今日のことを、書いた。
紙片のこと。破り口の方向のこと。
「だから、忘れろ」という、文字のことは、書いた。
その前に、何が、あったのかは、書けなかった。
分からないことは、書けない。
そう、自分に、言い聞かせた。
言い聞かせながら、それが、都合のいい理由だと、気づいていた。
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外は、とっくに、暗くなっていた。
窓の外を、車が、一台、通り過ぎた。
音が、遠ざかって、消えた。
時計を、見た。
いつもより、記録に、時間が、かかっていた。
夜、電話が、鳴った。
立花由香だった。
「404号室で、新しいことが、起きています。来てもらえますか」
私は、頷いた。
電話越しに、伝わるはずも、なかったが、頷いた。
上着を、羽織った。
一本目のノートは、閉じずに、机の上に、開いたまま、残した。
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残り、四十五本。
あなたが今、当たり前のように続けていることを、ひとつ思い浮かべてほしい。
仕事。習慣。誰かとの、関係。数えきれないほど、繰り返してきた、何か——
その「始まり」の日を、あなたは、思い出せるだろうか。
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【次回予告】
百物語 第五十六話:404号室の夫
深夜、立花由香から、連絡が入った。404号室の鏡の前に、人が立っていた。
鏡の中ではなく、鏡の外に。
十年間、泣きながら「此方に来い」としか言わなかった夫が、初めて、笑った。
「由香、もうすぐ会えるよ」
会いたかった人が、目の前にいる。そのとき由香の足元からは——影が、消えていた。